工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 本の話

スピリチュアリティについて

2011年 11月 12日

この言葉、やや流行語になりつつあるのかな、と思うと抵抗感がないわけではありませんけれど、管啓次郎さんの『野生哲学――アメリカ・インディアンに学ぶ』(講談社現代新書)を読みながら考えておりました。これはエコロジーとスピリチュアリティについて思索する旅人の書物である、と。

30になるかならないかの著者が、リュックを背負ってアメリカ南西部の赤茶けた大地をひとりさまよったときの体感と、留学生として学んだナバホの創世神話が束ねられ、静かな、澄みきった「管ワールド」が、またひとつ生まれました。あるシャーマンの思い出に語られる幼少期。泥と藁と雲母をふくむ粘土でつくられた部屋の壁は、陽光がさしこむと、きらきらと黄金の光を放つ。土間を「掃き清める」祖母の箒は、それ自体が聖なるものであり、舞いあがる埃すら、人知を超えた何かなのだといいます。

肉声で語られる神話は民話でもあるわけで、トウモロコシのお話など童話のように身近なのですが、そのいっぽうで宇宙論的な婚姻の物語、動物や植物をめぐる哲学的な思考も継承されてゆく。ナバホの世界は聖なるもののスピリチュアリティにひたされているけれど、それでいて一柱の神が被造物を支配するというのではないらしい。原初的な叡智を語る、たおやかな言葉たち。そのひびきに耳をかたむける者だけが「素朴な、超越性なき敬虔さの練習」にいそしむことになるのでしょう。

「霊的なものが宗教的なものをとおして顕れるとはかぎらない」――べつの著者による小さな書物のしめくくりの文章です。一神教の世界では、神学の伝統と聖職者組織によって信仰が体系化されている。そのピラミッドのような形状に、わたしたちも、ともすれば、文明化された本格的な宗教のお手本を認めてしまいがち。でも、天空の高みから霊的なものがシャワーのように降ってくることを期待しない生き方もあるという確信を、著者はみずからの彷徨の軌跡をまじえて語ります。

ぼくは三歳のときに誕生した。一九七八年十月十一日よりまえ、ぼくがどんなふうに生きたのか、まるで覚えがない。この日付は、ぼくの弟ファイエットがこの世に生まれおちることになった日を指している。コンゴのブラザヴィル、ブランシュ・ゴメズ病院でのことだった。ぼくのほうは、洗礼名はレジス、パリの第十四区で命をさずけられた。ぼくがやっと二歳になるころ、ヴィリ族出身の父が祖国に呼びもどされた。父はフランスで政治学の学位を得ており、エリート官僚の道をあゆむはずだった。

なかなか洒落た導入でしょう? 人生最初の記憶は弟の生まれた日、ところはブラザヴィルの病院だったというのですが、何年かのちに父親が失脚し、一家はフランスのストラスブールに舞いもどる。少年期のユートピアのようなコンゴに帰還したことはない、と語っているのは、さあ、誰でしょう? ――アブダル・マリク。フランス・ラップの「公認の顔」と日本語版ウィキペディアにも紹介されているアーティスト。セカンド・アルバム『ジブラルタル』が評判になりました。

作品の幕開けを訳出したのは『フランスにアッラーの祝福を!』というタイトルの処女出版。しめくくりの一文を引用したのは第二作『郊外戦争は起こらないだろう』ですが、こちらは2005年のパリ郊外の暴動とジャン・ジロドゥの名高い戯曲『トロイ戦争は起こらないだろう』に半々の目配せを送っています。おわかりのように、アブダル・マリクも郊外育ち。「低所得者用の高層アパート」を指すHLMはhabitation à loyer modéré の略語ではなくて「手を挙げろ!」Haut les mains ! だというジョークがあるそうですが、それほどに「不穏で危険」という刻印を押された地区なのです。

しかも大半がアラブ系ムスリムの住民のなかで、ブラックでカトリック(コンゴ共和国は元フランス領)となれば二重にマージナルな立場です。大柄で格好良いレジス少年は、型どおりにゲーム感覚のスリやかっぱらいからはじめ、だんだんと危うい仕事に手を出すようになる。グループではつねに親分。学校の成績は抜群で、本当に勉強好きだった。仲間の少年たちは麻薬やエイズに身をむしばまれ、ディーラーどうしの争いや派手な交通事故に巻き込まれて命をおとす者もある。少年期の回想を閉じるページには「戦没者名簿」のように亡き友の名がならんでいます。

そのレジス少年が、あるとき思いたち、ブランドものファッションを焼き捨てて、町のモスクに向かうのです。「アブダル・マリク」を名乗り、小鳥のさえずる早朝に、白衣を着用して集団礼拝にかよう日々。なんという清々しさ。それは「タブリーグ・ジャマート」という国際的なイスラーム宣教機関でした。しかし聡明なアブダル・マリクは、強引な勧誘と安易な教義にあきたらない……。という具体に物語をつづければ、このブログは永遠におわらないので、先を急ぎましょう。

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母親の目には月世界到達というぐらいの偉業に見えたそうですが、アブダル・マリクは晴れてストラスブール大学に進学し哲学と古典文学を学ぶ。「スピリチュアリティ」の探求という意味では、イスラームの神秘主義「スーフィズム」にようやく安住の地を見出します。スラマー(ラップの作詞や詩的な朗読をやる人)としての精神的かつ知的な土壌は、以上のとおり。

あからさまに「平和主義」を唱えるアーティストが、体制に利用されていると批判され、かりに「反体制」を唱えれば、建設的でないと批判される。これは見飽きた光景ですから、無視しましょう。アブダル・マリクは覚悟を決めて「建設的」であろうとしているように思われます。イスラームといえば原理主義とか、スカーフ問題とか、怒れる若者とか、ちょっと正義派のコラムを書いておけば、社会貢献がすんだ気分になるらしいライターは日本にもあまたいるけれど、どれほど多様なムスリムが、どれほど多様な人生を真摯に生きているかを視野に入れ、本気で紹介するために、スーフィズムまでしっかり学んで『フランスにアッラーの祝福を!』を翻訳する人、いませんかね。

ところで、危険なエネルギーの充満した郊外の「戦場」と、舞いあがる埃の尊さを知る「野生哲学」は、極限的にはなれていると思われるかもしれません。これが管啓次郎さんの語彙を借りれば「斜線」でつながるのではないかと考えているのです。その、つなぎの糸が「スピリチュアリティ」です。

「霊的なものが宗教的なものをとおして顕れるとはかぎらない」とアブダル・マリクは語ります。一神教の啓示宗教を高度に発展した精神世界として捉え、そのいっぽうで「スピリチュアルなもの」は宗教の周辺や底辺に滲みだした液体のようなものとみなす展望に、異を唱えているのでしょう。

宗教の聖性に霊性を従属させるという構図自体が、近代ヨーロッパの知的活動のなかで組み立てられたのかもしれません。唐突な言い方ですが、そう思いついたのは、フローベールを読んでいたときです。作家自身が「霊的」という語彙を特別な意図をこめてつかっているわけではありませんけれど、たとえば『純な心』のフェリシテや『ボヴァリー夫人』のシャルルなど、信仰とは異なる位相で、霊的な恍惚を経験しているように見える。

宗教学にせよ、哲学にせよ、学問的な言説は、分類し、整理し、概念のヒエラルキーをつくります。おそらく文学だけが、生きた経験に秘められた未分化なもの、混沌としたものを、その存在のありようまで繊細に隈取りしつつ提示できるのです。小説を素材とした宗教文化論――考えることがいろいろとありそうです。
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Photos by Yoko Ikeda

4冊の書物 あるいは柏倉先生について

2009年 4月 10日

純粋な著作は、詩人の語り手としての消滅を必然的な結果としてもたらす。詩人は主導権を語に、相互の不平等性の衝突によって動員される語群に譲るのである。そして語群は、あたかも宝石を連ねたあの玉飾りの上の灯影の虚像の一条の連鎖のように、相互の間の反射反映によって灯火される。古来の叙情詩に息遣いとして、はっきり認知され得る呼吸作用に代わりつつ、あるいは文章の熱烈で個人的な目標に取って代わりながら。

『ステファヌ・マラルメ「賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう」原稿と校正刷、フランソワーズ・モレルによる出版と考察』と題した画板のようなサイズの書物がとどいたのは、放送大学の卒業式がおわって間もなくのこと。生成の白の瀟洒なソフトカヴァーをめくるとセピア色のファクシミリのページがあらわれました。

詩人の手稿、赤鉛筆で字体や印刷の位置を指示した校正刷り、その指示にしたがって組みなおした「賽の一振り」の新しい姿。詩句の一語一語をマラルメの清冽なイマージュの戯れのなかに解き放つ詳細な注釈のページ。いくつもの要素によって構成されたこの書物は、あえていうなら「贅沢なまでに教育的」なものに思われます。

090410mallarmeL’œuvre pure implique la disparition élocutoire du poëte… 注釈のページで久しぶりに出会った「詩の危機」の一節を上に引きました。謎めいた文章の響きに魅了されたわたし(フロベールやボルヘスのimpersonnalismeに惹かれていた30代のわたし)にとって、マラルメは難解にして深遠、高踏的な文学の殿堂にまつりあげられたinaccessibleな詩人でした。

その詩人を、アカデミズムのほの暗い聖域から共和国の明るい祝祭空間へと誘い出したこと―柏倉先生がマラルメ読解にもたらした貢献を、とりあえずそうまとめておきましょう。

報道の最前線に立ちながら何十年も暖めつづけた詩人の肖像と文献調査の集大成である『生成するマラルメ』も、J-L.ステンメッツの伝記の翻訳も、インターネットに立ち上げられた『詩集』単語インデックスも、そして今回の「賽の一振り」の原稿と校正刷の紹介も、ひと言でいえば、万人がアクセスできる、愛好家なら読者になれるという意味で「民主的」であり、どこか「市民的」な相貌を湛えているかのようなのです。(Index des mots des poésies de Stéphane  Mallarmé : http://www.campus.u-air.ac.jp/~kashiwa/

じつは「贅沢なまでに教育的」という形容は、柏倉先生にささげる言葉でもあります。アカデミズムの階層性にはしばられぬウェブ空間ですから、いかにも次元の異なるところにふわりと飛ぶことにして、こちらは放送大学の3科目の印刷教材が3冊の書物になったという話。

卒業式と謝恩会の会場でお目見えした「放送大学叢書」に、どのぐらいの方が気づいてくださったでしょうか。教材をリライトして、表題をアトラクティヴなものに変更し、巧みにデザイン性とコストの折り合いをつけた軽やかな書物です。手にとってみれば、豪華で重厚な装丁だけが知的な書物の夢ではないことが、きっとおわかりになるでしょう。

放送大学叢書

この叢書、どこにもお名前は記されていませんが、柏倉先生の企画力の成果です。とりわけ『音楽家はいかに心を描いたか』については、みずから校正刷に目を通されるほどの熱意を傾けられた。昨年10月に永眠された笠原潔先生の遺著となってしまいましたが、研究者にとって、これ以上の手向けはありますまい。先生の誇り高い闘病生活に、同僚のわたしたちは深い敬意をいだいておりました。

『動物の生存戦略』の著者、長谷川眞理子さんとはじめて出会ったのは、20年ほどまえのこと。駒場に着任したばかりのわたしは、女性教官がついに二桁になった(300名の教授会ですよ!)記念と称して、「性差文化論」というテーマ講義を同僚の女性たちと一緒に企画したのですが、そのとき、まっ先にお願いした講師のひとりです。わたしたちも若かったし、日本のオトコ社会は、それはもう、今よりひどかったわけですから、意気投合して憤慨するための話題は、それこそ、山のようにありました。それはともかく、動物の行動生態学は、目から鱗という感じのエピソードに満ちています。自然界のオスとメスの話を、ジェンダー・スタディーズの寓話として読むのは、ちょっと邪道かもしれませんけれど、啓発されることまちがいなし。

ここで話はゆらりと柏倉先生のほうにゆれもどるわけですが、やや高級な比喩を使えば、副学長としての先生は「共和国」というより「EU型」の大学運営を心がけておられたように思われます。単一で統合的な評価システムに基づく中央集権的な管理社会ではなく、多文化社会に適応するために「補完性原則」を援用なさった。わかりやすくいえば、組織の末端のクリエイティヴな発言を汲みあげ、さまざまの意図や企画をもつ集団の活動を支援するという意味です。管理職と末端の現場とのあいだに、歴然とした性差、ジェンダー構造の歪みのある日本の社会では、こうした組織運営の手法が、おのずと「男女共生社会」の推進につながること、皆さん、おわかりでしょう?

教育の現場が好きというのは、柏倉先生の本音にちがいありません。めざましく進歩した学生や将来有望な研究者のことが話題になると、まるで食欲旺盛な人が贅沢な料理をまえにしたときのような表情をお見せになる。停年退職なさったあとも、世田谷学習センターの客員教授をつとめられるとか。わたしも近場でお世話になっているセンターですから、先生のクリエイティヴな企画に参加してみようかな、と考えています。教員としてよりも、むしろ、生涯学習をこころざす、ひとりの市民として。

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「良き読者」とは? ―― ナボコフ先生の文学講義

2007年 4月 25日

沼野充義さんからナボコフ協会のシンポジウムに参加しないかとのお誘いをうけ、楽しみながら、にわか勉強をしているところです。

かの『ロリータ』で名声をえる以前、ウラジーミル・ナボコフが大学でヨーロッパ文学を担当していたころの講義ノートに、こんな「クイズ」がありました。

読者が良き読者になるためには、どうあるべきか、答えを四つ選びなさい ―
1 読者は読書クラブに属すべきである。
2 読者はその性別にしたがって、男主人公ないし女主人公と一体にならなければならない。
3 読者は社会・経済的観点に注意を集中すべきである。
4 読者は筋や会話のある物語のほうを、ないものより好むべきである。
5 読者は小説を映画で見ておくべきである。
6 読者は作家の卵でなければならない。
7 読者は想像力をもたなければならない。
8 読者は記憶力をもたなければならない。
9 読者は辞書をもたなければならない。
10 読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。

さあ、皆さんの回答は? かりに「なければならない」を「のほうがよい」とおきかえてみると、すべて○という気がしませんか。正解は次回に ―

とはいいません。じつは、学生の回答は前のほう、2~4あたりに偏っており、ナボコフ先生自身は最後の四つをえらぶ、のだそうです。読書会に参加しなくてもいい。主人公と一体にならなくてもいい。知識の源泉として小説を読む必要もない。筋や会話の面白さに熱中することが大切というわけでもない。だとしたら、いったい何が求められているのでしょう。

まずテクストをきちんと読む。想像力をはたらかせながら。記憶があいまいになりそうなところはノートをとったりしながら。言葉の意味をたしかめながら。小説は「芸術作品」であり、噂話や新聞記事ではないことを念頭におきながら。

なるほどナボコフ先生の講義録をひもとくと、参照した英語のテクストは書き込みだらけ、『ボヴァリー夫人』の章には、シャルルの奇妙な帽子のスケッチがあり、『変身』の章には虫のスケッチやアパートの間取り図までついています(「世界の名作を読む」のカフカのレポートには役立ちそう)。

読解がふかまるほどに、小説の世界は面白くなる。つまり本当の小説とは、くり返し読むもの。ナボコフ先生によれば ― 「良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである」

ロシアからの亡命者であるナボコフがアメリカの大学で文学を講じていたのは、1948年から10年間。ちょうど「ニュー・クリティシズム」という新しい方法論が大学に浸透しはじめた時代でした。見方をかえれば「クイズ」の箇条書き上位にあるのは当時流布していた通俗的了解、7から10まではラディカルな読解の提案、ということなのですね。これは現時点からふりかえった歴史的な見取り図です。

ところで、昨年邦訳が刊行されて評判になったアーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』という作品、お読みになったでしょうか。思想統制、言論統制の厳しいイランの大学で教授の職を追われ、気に入りの教え子たちと自宅で密かに読書会をやっていた女性の回想という設定です。長目の引用をひとつ。

ハンバート(『ロリータ』の語り手)の散文は、時として恥知らずなほど凝りすぎた文体になるが、これは読者を、とりわけ高尚な読者を誘惑するのが狙いである。彼らはそうしたペダンティックな知的芸当にだまされやすい。ロリータはみずからを守る術もなく、自分の言い分をはっきり述べる機会すらあたえられることのない、そういう類の被害者である。つまり彼女は二重の被害者なのだ。人生を奪われただけでなく、自分の人生について語る権利をも奪われている。私たちがこのクラスにいるのは、この第二の犠牲者にならないためだ。私たちは自分にそう言い聞かせた。

ロリータは中年男ハンバートの欲望の犠牲者です。そのヒロインの少女に、全体主義のもとで言葉を奪われた女子学生たちが、一体化するというのです。まさに「クイズ」の2のケースですが、この読み方、ナボコフ先生は顔をしかめるでしょうか。いえ、むしろ文句のつけようがないはず。

引用テクストでは、わずか10行ほどで「ハンバートの散文」という言語的な仕掛けに照明が当てられ、性的な暴力と政治的な暴力とのアナロジーが浮上します。7から10の姿勢をつらぬきながら、2の共感にいたる根拠を示しているのですね。ナフィーシー先生の文学講義も、ナボコフ先生のそれにおとらず素晴らしい。

ここでテヘランから日本へと話はとびますが。
寡黙なヒロインに活きた言葉をあたえてみよう。あっけらかんと自己主張する力をあたえてみよう。これは、2005年に新訳を出版された若島正さんの人物解釈であり、翻訳戦略だったようです。

ロリータがハンバートの前から姿を消して数年後に二人は再会します。ハンバートはすっかり舞い上がっちゃって、ロリータに対する愛を高らかに、それこそ世界の中心で愛を叫ぶような場面で(会場笑)、原文では舞い上がっているハンバートにロリータが“You’re crazy.”って言うんですね。これはあまりキツイ言葉では無くて、私は関西の人間なので関西弁で言うと、「アンタ、アホちゃう?」くらいがちょうどエエなあと思うんですけど(笑)、しかしロリータに関西弁をしゃべらせるわけにはいかないので(会場笑)、「頭おかしいんじゃないの」としたんですね。軽く一蹴してしまう。これがこの本で私がやりたかったことの一つなんです。

こういうの、楽しくてエエなあ、と思いません?
「良き翻訳者」とは、まさに「積極的で創造的な読者」なのですねえ。

引用は、「ウェブ図書新聞 特集 2766号」に掲載された若島正×沼野充義の対談より。

その他、参照した書物:

『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳、TBSブリタニカ、1982年。引用は巻頭エッセイ「良き読者と良き作家」より
アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』市川恵里訳、白水社、2006年
ナボコフ『ロリータ』若島正訳、新潮文庫、2007年

(書評)レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史』全5巻、菅野賢治、合田正人、他訳、筑摩書房、2005-2007年

2007年 4月 8日

書物について書くことは学ぶチャンスと考えています。東京大学出版会の広報誌UPに書評を書きました。枚数にはゆとりがあるかわりに、広い関心を呼びさますよう、大きな文脈で語る。そう考えて、半年に一度ぐらい、これぞと思う対象にとりくむようにしています。

原著では四巻からなる『反ユダヤ主義の歴史』は、それぞれがライフワークといえるほどの偉業です。たとえ四回の人生を生きても、レオン・ポリアコフほどの知性と精神力がなければ書けるものではない。粛然として真の学問研究に向きあいました。

原稿締切の当日に邦訳の第五巻がとどきました。両大戦間の記述で一旦完結した単著の続篇であり、現代にいたるまでを共著として書きついだもの。邦訳は五巻本となったわけですが、その「訳者あとがき」で菅野賢治さんは「六年前、出版社数社に打診し、企画書さえ見てもらえずに落胆していた頃のことを振り返ると、全五巻の完結を見た今日という日が、まさに夢、奇跡のようでもある」と記しておられます。

この五巻本の翻訳は、なんと二年間で完了し、訳文がじつに見事であるだけでなく、周到にして詳細な訳注つき、最終巻には全巻の事項索引と人名索引までついていたのですから、これはもう唖然としました。

もうひとりの中心的な訳者は合田正人さん、そして小幡谷友二さん、高橋博美さん、宮崎海子さんの若手三名が共訳者として参加しておられます。出版企画の全体像に敬服しました。

キリスト教のヨーロッパは、ユダヤという「他者性」を根拠づけるために「人種」という枠組みを営々20世紀以上にわたり構築してきたわけですが、この事実は、壮大な歴史のパノラマを視野に入れなければ実感できません。

それにしても19世紀末、ドレフュス事件の時点で、フランスの総人口のなかでユダヤ人が占める割合は0.2パーセントだったというのですから、歴史とは数値の問題ではないのですね。