工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 文学論議

民法改正と姦通小説とモーパッサン

2012年 6月 24日

「わたしは姦通小説の専門家で…」というとジョークだと思われるのですけれど、マジメな話。なにしろフランス19世紀国民文学は大方が「姦通小説」なのであり、この問題を正面から考えていけないわけはありません。

文学には時代のジェンダー構造が反映されている。とりわけナポレオン法典の描きだす父権的な家族のイメージは、バルザック、フローベール、モーパッサンなど、近代小説のありようを決定したと考えています。大村敦志『民法改正を考える』(岩波新書)には、「民法の歴史の中では、19世紀はフランス民法典の世紀だった」とありますし、要するに女性の視点から近代ヨーロッパ批判をやりたかったら、やっぱり、ここが鍵となるはず……。というわけで、今回はジャン=ルイ・アルペランの『1804 年以降のフランス私法の歴史』Jean-Louis Halpérin, Histoire du droit privé français depuis 1804 を参照します。

1804年に成立したナポレオン法典は、革命によって権威を失っていた「家族」に秩序をもたらした、それと同時に「国家という大家族」にも秩序をもたらした、と第一帝政期に活躍した著名な法律家が指摘しています。「家庭内の権威」と「政治的な安定」は不可分だという了解は、その後も揺らぐことがない。19世紀を通じてフランスの政体はめまぐるしく変わりますが、1830年に王位に就いたルイ・フィリップは8人の子持ち、家族と国民に敬愛されるパパという演出をするのが大好きだったし、世紀の半ば、第二帝政の皇帝となったナポレオン3世も、大ナポレオンをみならって、家族を神聖な価値とみなしました。

こうして1804年の法典は、根底から問いなおされることなく生きつづけます。なかでも「家族法」の場合、ジャン・カルボニエの改革により、これが面目を新たにしたのは1960~70年代のことでした。上記、岩波新書によれば、この改革の要点は「性の解放と離婚の自由化」にあり、いわゆる「カルボニエ民法」の特徴は「多元主義」と「社会学主義」によって定義されるとのこと。宗教(カトリックかプロテスタントか、等)や社会階層、世代や地域によって異なる家族観に対応するために、複数の異なる考え方に基づく離婚原因が設けられました。保守的な層は「有責離婚」を用いるが、開放的な層は「合意離婚」の枠を活用し、まれなケースながら「破綻離婚」も認められるという方式です。さらに立法の正当性の根拠は、関係者の声を聞くという社会学的な調査によって確保されるという考え方が導入されました。

逆にいえば19世紀の民法は、単一の理想的な家族像を国民全体に浸透させようという姿勢によって貫かれ、社会の実態を反映するというよりも、理念としての家族、その普遍的なモデルを提示したということになるのでしょう。家族像の模範と離婚の可否という問題は不可分です。妻と子の権利に対し夫権と父権を圧倒的優位においたナポレオン法典が、いかなる差別を内包するかについては、今年の2月のエッセイに書きましたから、ここではくり返しません。

1804年の民法は、議論の末、厳しい条件をつけて離婚の可能性をのこしたのですが、ナポレオン退位後の復古王政は、民法そのものは温存したかわりに離婚をターゲットにした。こうして1816年に離婚が廃止され、その後、第三共和制になってから、1884年に「ナケ法」が離婚を復活させました。

保守的な人びとに言わせれば、いつでも別れられる結婚なんて「公然たる同棲」のようなものだ、ということらしいのです。離婚反対派の過激な信条を代弁したのは、王党派のルイ・ド・ボナルドで、離婚を認めれば「情熱恋愛の権利を暗黙のうちに認める」ことになる、それは「姦通を合法化する」ものであり、「家庭内に真正の民主主義を導き入れる」ことになる、と警鐘を鳴らしています。

結婚は解消不可能とする考え方が、結婚を秘蹟(サクラメント)とみなすローマ・カトリックの伝統に由来することはいうまでもありません。同じヨーロッパでも、結婚を契約として捉えるプロテスタント系諸国とフランスのあいだには、宗教に起因するジェンダー秩序の相違が横たわっているのです。

それにしても、離婚を許せば姦通を奨励するようなもの、というロジックは、正直のところ、わたしたちにはわかりにくい。むしろ、姦通は神聖なる結婚制度に対する反逆だ、と言い替えてみれば、これが文学の輝かしき主題となる理由が想像しやすいかもしれません。19世紀の半ばにかけて、ナポレオン法典が顕揚する夫権的家父長制が国民に受容されてゆく時期に、姦通小説は隆盛を見る。その頂点あるいは分水嶺に位置するのが、フローベール『ボヴァリー夫人』というわけです。

ところで、ヴィクトル・ユゴー、アレクサンドル・デュマ・フィス、ジョルジュ・サンドなどは、離婚制度を復活させようと論陣を張ったけれど、法律家たちはむしろ冷淡だったようです。そこにアルフレッド・ナケが登場。ユダヤ人にしてフリーメイソン、1869年には『宗教・所有・家族』という著作で、結婚という制度そのものが「自由の侵害」なのだと喝破して、4カ月の実刑を食らったという人物です。

フランスの場合、もともと離婚の可否は宗教がらみの問題でしたから、法案が議会に提出されてカトリック勢力が黙っているはずはありません。論争は長引き、政教分離派とカトリック教会との衝突という様相を帯びます。ようやく1884年7月27日法が成立し、これが「ナケ法」とも「離婚法」とも呼ばれるようになりました。その経緯は、アルペランの著作では「家族法の手直し」と題した章で論じられています(つまり「民法改正」には当たらないという意味)。離婚法は女性の解放を意図した法律ではなかったけれど、結果として家族のなかに――平等とはいえぬまでも――自由をもたらした、と著者は評価しています。

1804年の法典において「姦通」は有責離婚の事由と認められています。ただし2月のエッセイでも紹介したように、妻が夫に離婚を求める場合は「愛人を夫婦の住居に住まわせたとき」という条件がついている。さらに有罪とされた場合、妻は実刑で夫は罰金刑とか、とんでもない性差別がある。はたまた姦通現場で相手の男を殺した夫は「宥恕」することになっている。まあ、そういう強烈な格差があったから、なおのこと強調すべきだと思うですが、1884年法が画期的なのは「姦通」にかかわる男女不平等が撤廃されたという点です。

さて、離婚法の成立を、さっそく作品のプロットにつかった小説家は誰でしょう? モーパッサンの長編『ベラミ』――出版は1885年ですから、待ちかまえていたのでしょうね。野心家の美青年が、有能な未亡人と結婚し、愛人たちのツテで出世するという物語。投機で巨万の富を蓄えたユダヤ人の貞淑な妻を攻め落とし、事もあろうにその娘と結婚しようという大博打のなかで、切り札に使われたのが、離婚法です。

合法的に妻を厄介払いするために、姦通の現場に官憲とともに踏みこんで、ただちに裁判所に訴える。小説の終幕は、晴れて自由の身になった青年が、マドレーヌ教会で人形のような娘と結婚する場面。参列者たちのやりとりは、読者向けの解説ともなっています。教会は離婚を認めていないのに、なぜ再婚の男が挙式できたのか? いや、そもそも彼は未亡人との初婚のとき手軽な民事婚(行政への届け出)しかやらなかった、つまり神さまの前では、未婚ということになっているのさ……。

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モーパッサンはジャーナリストでもありました。1884年6月12日、つまり離婚法成立の1月半ほどまえに、大手日刊紙「ル・フィガロ」に「離婚と戯曲」と題した文章を寄稿しています。離婚ができるようになってしまったら、文学はネタがなくなって途方に暮れるだろう、という趣旨の軽妙にして皮肉たっぷりのエッセイを、かいつまんでご紹介しましょう。

役場の命じる貞操義務とやらは、ブーローニュの森で芝生に入るなという禁令と同じぐらい無視されているけれど、合法的に夫婦の絆を断ち切ることが許されるようになったことで、遵守されるとはいわぬまでも、少なくとも敬意に値するものにはなるだろう。ドン・キホーテよろしく、解消できぬ結婚という敵に独り立ちむかったムッシュー・ナケが数えたてた理由のほかにも色々と理由があって、離婚の復活は大いに結構といえる。その一方で離婚という新しい現象から、習俗や文学、とりわけ戯曲が、いったいどんな影響を受けるものか、興味津々、見守りたいと考える。18世紀の『マノン・レスコー』から今日のアルフォンス・ドーデまでを読めば、時代によって結婚をめぐるモラルが異なることはわかる――といった具合に話は進みますが、次は少しばかり引用を。

しかるに、今日と同様、過去においても、作家たちはもっぱら姦通という主題のなかで仕事をやってきたのである。結婚の契りは断ち切れないという前提のおかげで、著者たちのしたたかな想像力は、数えきれぬほどのシチュエーションや、どんでん返しや、結末を産みだすことができた。なかでも戯曲というジャンルは、夫婦をがんじがらめに縛ってきた民法の条文に、熱烈な感謝を捧げるべきだろう。

今後、文学はいかに変わってゆくか? 夫の名誉という問題はどこに行ってしまうのだろう? かつて男たちは、妻の姦通の相手を殺すか、いっそ目をつぶるか、それともメンツを捨てて許すかという難しい選択を迫られた。今後は、女房をしたたかに打擲し、離婚の事由をつくって、縁を切ればよい。おかげで結婚というドラマは簡単明瞭になった。しかし、この先ドラマをつくる作家たちは、不意にネタ切れになってしまったようなもので、劇的な結末を見つけるのに、さぞや苦労することだろう。離婚判決で幕というのでは、あまりに芸がない……。

辛辣なジョークのような文章だけれど、おわかりでしょうか。結婚は解消できないという前提がなくなったとき、家族観は本質から変わる。家父長の責務や、庶子の位置づけも変わる(本日はふれることができませんけれど、民法でいう「自然子」あるいは「非嫡出子」の問題は、なにしろ「姦通」や「相続」の問題がからみますから、19世紀小説の典型的なテーマのひとつでした)。そうした観点から『ベラミ』や『ピエールとジャン』や無数の短篇を読んでみると、モーパッサンは、それこそナポレオン法典の脱構築という野心をもって、世紀末の新しい習俗を描きだしているのではないかとも思われるのです。

ここで言いそえておきたいのは、時代の習俗が変わったからこそ「家族法の手直し」が実現したという当たりまえの事実です。民法が変わったから習俗が変わった、という指摘だけでは誤解を招くでしょうし、そもそもアルフレッド・ナケだけが孤軍奮闘したわけでもない、反教権主義の潮流やフェミニズムの貢献もありました。

それにまた、離婚の復活というていどの「手直し」で、家族から国家までを貫く父権的なモデルが根もとから揺らぐはずはないのです。よく知られているように第三共和制のフランスは、国民に対して「家父長」としてふるまう国家でありました。そして植民地帝国の臣民を、庇護すべき対象として、すなわち1804年の法典における妻や子と同様に「無能力」な存在として遇しました。近代ヨーロッパの「ジェンダー秩序」を語りたかったら、本当にさまざまのことを学ばなければなりません。

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高知・ハイチ・ケベック

2011年 10月 11日

1月に1度しか更新しない怠惰なブログです。まずは高知の皆さんありがとう。日本一の「清流」――のはずが雨雲の下の濁流でした!――仁淀川のほとり、静かな山間にある文化施設、土佐和紙工芸村「くらうど」も、手作りでイヴェントを立ちあげてくださった女性たちの有能な仕事ぶりも、そして地元の参加者たちの心のこもった朗読も、本当によい思い出になりました。とりわけ闇夜にうかぶ幻想的なキャンドルアートは素敵でした。『ろうそくの炎がささやく言葉』を蝋燭の明かりだけで朗読したのは、はじめてでしたから。

ところでノーベル平和賞が3人の女性に授与されたのは嬉しいことですね。彼女たちだって、かなりヴォランティア的な活動から社会の変革と平和の構築という大事業に挑んだにちがいない。日本の社会はしばしば「給与」をもらっていない人は「仕事」をしていないかのようにみなすでしょう?

高知で実感したのは、「地方都市の文化の活性化」に貢献しているのは、役所の出先機関ではなくて、イヴェントを企画したり、読書運動を立ちあげたりしている現場の人たちの「無償」の活動ではないかということでした。「無償」を美化することは、奉仕活動が当たり前という風潮を産み、それはそれで警戒しなければなりませんけれど、いずれにせよ文化的な活動は、最終的には大きな経済効果をもたらします。ですから誇りをもちましょう! 西欧の古典文学という「社会的ニーズ」とは無縁な学問にかかわってきた身としては、機会があればこれからも、文化的な活動のネットワークにかかわってゆきたいと思います。

放送大学では10月8日の土曜日に管啓次郎さん、旦敬介さんをお招きし、前半はトーク、後半は朗読会という献立で、デザートに研究室でのおしゃべりという贅沢な催しをやりました。「予習」のために週のはじめからお二人の著作に浸りきり、すっかり熱帯漬けになりました。そのいきおいに乗った感じで本日は書評スタイルの雑文を。

旦敬介さんの『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』について。巧く出来上がった本というのは、見た目も味も完璧なお料理のようなもの。満喫させていただきました。「ナイロビに住んでいたとき、一週間ほどザンジバルに行って帰ってくると、アパートが荒らされていて金目のものが全部盗まれていた」という幕開けの一文は、オリベッティの中古タイプライターを買ったという話の導入で、これがキーの早打ちから誕生する文学という議論の伏線となり、バロウズ論の本質にむすびつく。

一方、ザンジバルとナイロビという土地は、すくなくとも本論では二度と出てこない。ところが「あとがき」に語られた著者自身の人生のあまりにも傷ましく「取り返しのつかない事件」まで読んだとき、ふと思い当たるのは、何かゆかりのある地名がここに忍ばせてあるのではないかということです。10年以上の年月をかけ「奇妙な、一種の同時進行的な私小説」のように書き上げた作家論。モロッコのタンジェにおける父と子の再会をあつかった終章は圧巻で、思わず目頭が熱くなりました。

いささか安易に流通しているキャッチフレーズに「作者の死」という言葉がありますが、旦さんはこれに正面から異議を唱えている。そして「作品と作者に寄り添って」読むための道標となる書物をつくったと宣言するのです。乾いたユーモアと洒脱な批評的センスにあふれた書物です。ちなみに19世紀後半の異様な遅筆で知られる作家に親しんできたわたしとしては、なんといっても「高速ライティング」に興味を惹かれました。手で書くこと、果てしなく書きなおすことが官能的にして神聖なる痛苦であるかのような証言をのこしたフローベールは「エクリチュール」の人ですが、そうした近代の創作神話を破壊するという意味で。

バロウズは、まるで「ディクテーション」を受けているかのように、あるいは、まるで自分のなかに「送信者」と「受信者」の両方がいるかのように、猛烈な早打ちでキーを叩くのだそうです。ちょっとシュルレアリスムの自動筆記みたいですけれど、睡眠時の無意識とか薬物による幻覚などとはちがうとのこと。ミシェル・ビュトールなども、タイプライターを活用したようですが、バロウズのように身体化されたものではなかったと思う。

熱烈なファンをかかえたビート・ジェネレーションの王者について、習いたての知識を披露しても仕方ありませんね。ただ、ここ20年ぐらい「生成論的草稿研究」こそが文学の神髄に至る道だと信じてやってきた19世紀作家研究を、多少は相対化してみてもいいころじゃないかな、という思いが、頭のどこかにあるものですから。

旦さんの著作の話をつづけると、「マネー・マターズ」(お金は大事)なんて、なかなか楽しい数字だらけの「実証研究」もあります。バロウズがちょっとした富豪の御曹司なのだという話は、そもそも嘘。著名人になってからも著作の印税だけでは苦しいので、朗読会のギャラでかろうじて食いつないだ、とあります。あの『裸のランチ』を著者がどんなふうに読んだのか、いや会場にどんな聴衆がつめかけ、どれほどの熱気が漂ったものか。想像すらできません。

バロウズはメキシコ・シティに住み、テレパシーの源になるという秘密の飲料ヤヘを求めて南米の旅に出かけ、さらに生活費の安いところをねらって地中海沿いの雑居都市タンジェに移り住む。そうでなくとも旦さんと管さんの本を積み上げてページをめくれば、赤道、南半球、太平洋。このところ19世紀前半の、北半球が純血なネイションの文化的アイデンティティなるものを構築する時代の本ばかり読んでいたものですから、あらためて新鮮な衝撃をうけました。

管啓次郎さんとジュール・ヴェルヌの比較論をひとつ。『八十日間世界一周』は寡黙な紳士が出発点ロンドンの銀行にある賭け金をめざし、東へ、東へと「経度」を稼いでゆく話。『グラント船長の子どもたち』は、姉と弟が定められた「緯度」(南緯37.11度)の線上をまっすぐ進み地球を一周すると、行方不明だった父親との再会がご褒美となる話。『気球に乗って五週間』は、旦さんも訪れたアフリカ東岸の島ザンジバルから西岸のセネガルへ。地図も空白なままの大陸の中心を真横に突っ切りたいところだけれど、偏西風に流された、と読めます。

近代ヨーロッパは、地球を縦横碁盤の目に区切る。北アメリカとアフリカの国境線を見てくださいよ。北半球を上にした世界地図に引かれた水平線と垂直線は、植民地化と収奪の欲望のシンボルじゃないですか。だからこそ、放浪する旅人による『斜線の旅』がカッコイイ抵抗の身ぶりになるのです。四半世紀まえの旦さん、管さんの共著『ブラジル宣言』のなかに、早くも「ホノルルからリオ・デ・ジャネイロへと、大胆な長い斜線を引く」という一文があるのを発見してしまいました。

真似をして、わたしも空想の「細く短い斜線」を引いてみようかな。カリブ海からケベックヘ。これはなかなかいい感じ!(フランスからケベックという北緯45度の長い水平線には、近代ヨーロッパ文明の覇権という幻想がつきまとい、不快になることがすくなくない)。フランス革命の混乱に乗じ、最初の黒人共和国をうち立てたハイチ。そう、わたしたちより一足先に、揺れる大地という悪夢を経験してしまった、あの先輩格のハイチです。

独裁政権下のハイチで育ったダニー・ラフェリエールが、10月はじめに来日しました。父親は若い頃にアメリカに亡命し、みずからもジャーナリストになって身の危険を感じ、ケベックに移り住んだ作家。ニューヨークに住む父の孤独な死の報せを幕開けにおき、故郷での遺体のない埋葬の儀式を終幕とする『帰還の謎』は、詩と散文をおりまぜて、敬愛するエメ・セゼールの『帰郷ノート』への応答として書かれた自伝風の作品です。モントリオール書籍大賞、フランスのメディシス賞を獲得。

ラフェリエールも昔、古いタイプライターを買って、「新しいスタイル」を開拓しようとしたことがあったらしい、狭い部屋の薄暗がりのなかで、猛スピードでタイプを打ちまくったらしい、夏のうだるような暑さのなかで、安ワインをかたわらにおき、上半身裸になって。

そして「ぼくは昔ながらの手書きにもどる」――極度に興奮した周期の終わりにこそ「自然なもの」が見えてくるというのですね。作家ラフェリエールの書き方の秘密は「黒い手帖」にあるようです。芭蕉の旅日記のように、いつもたずさえていて、たえずノートをとる。『我輩は日本人である』という作品まであるそうです。

そのラフェリエールが、たまたま仕事でハイチを訪れて、ホテル・カリブのレストランで注文した伊勢海老を待っているときに「それ」はおきました。『ハイチ震災日記――私のまわりのすべてが揺れる』は「そのとき」もたずさえていた「黒い手帖」の断片形式が活かされた、すぐれた文学作品だと思います。

一分という時間/ようやくにして生活が/静けさ/弾丸/梯子/小さな祝い事/ホテルの従業員/浴室/もの/恋人よ、どこ? ――冒頭から、断片の表題をならべてみましたが、この先は、ランダムな引用で。

あの晩、ポルトーフランスの住民の大部分が、星空の下で眠った。地面に横たわり、身体の奥深くで大地の震えを一つ一つ受けとめる。……道の真ん中に立って腕を十字に組み、一人の女が天に向かって説明を求めている。家族全員を亡くしたのだとすぐに分かる。……外国では街全体のパノラマが眺められる。TVの画面は瞬きをしない。数百のTVカメラでつくられる変幻自在の眼があらゆるものを見せるのだ。すべてが剥き出しになり、一様にされる。死は慎みを失う。……どんな芸術形式がまず出現するのだろうか。衝動的な詩なのか、それとも斬新な光景を貪欲に追求する絵画なのか。地震の最初のイメージが見られるのはどんな場所だろう。……長編小説には最低限必要な経済的安定というものがある。ハイチではそれは難しい。……笑いと死。だから、品のない言葉を用い、猥雑な調子で語らなくてはならない。田舎でのお通夜では今でもそうするのである。

マリーズ・コンデの『マングローブ渡り』のように、あるいはジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のように。いずれだれかが、ハイチの、あるいは東北の「通夜」を芸術の形式で語ることになるのでしょう。

ダニー・ラフェリエールの初来日にぴたりと合わせ『ハイチ震災日記』と『帰還の謎』を同時刊行した立花英裕さんと小倉和子さんのインテンシヴな仕事ぶりに心からの敬意を表しましょう。日本ケベック学会とハイチ支援フランコフォニー委員会の有志のあいだで立ちあげた企画だとのこと。

さて、長くなりました。今月の写真は朗読会の夜のキャンドル。高知で有能な仕事ぶりを見せてくださった池田葉子さんの作品です。小さな名刺にはおどけた文字で「フォトグラファー、革職人、ベース弾き」とありますが、新聞のインタビューでは「主婦」となっていて、わたしは例によって不機嫌な顔をしたわけです。「アーチスト」はどうでしょう? ノーベル賞の外国人女性なら「給与」をもらっていなくても「人権活動家」「平和運動家」と持ちあげるくせに、日本の新聞のセンス、本当にダメですねえ。

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Photos by Yoko Ikeda

人文学の非力について

2011年 3月 30日

1968年の春、わたしはスペイン国境に近いフランスの町ボルドーにおりました。留学生は一月かかる南回りの船旅か、あるいはナホトカに向けて旅立ちソ連横断の陸路をとるか、という時代でした。あの歴史的な事件を今日では「五月危機」と呼びますが、学生と労働者のデモ隊が警官と激しく衝突して夜間は外出禁止、催涙弾の白煙が路上に漂い、保守的な地方都市の住民は「共産主義の謀略」や「内戦の危機」の噂に明け暮れていたのです。大学当局は遠国からの留学生に対し「国外退去」をすすめました。

レマン湖のほとりですごした束の間の「亡命生活」は、今となっては笑い話。でも、わたしは一文無しの留学生で、ゼネストのために日本との交信も途絶え、目の前が真っ白な更地になってしまっていたのです。世界の様相が一変した。安穏な日常を食い破る獣さながらに、得体の知れぬ力がうごめいている。そんな浮遊するような感覚をおぼえていたことを、今、思いだしています。

思いだすのは、得体の知れぬものをまえにして絶句するという感覚が、似ているからでしょう。一瞬で大地を呑みこむ神話の怪物のような大津波、じわじわと迫る原発崩壊の悪夢、おわりの見えぬ余震や停電や放射能汚染。二十代に外国で遭遇した文明史の巨大なうねりについては、わたしは事件にまきこまれた傍観者にすぎなかった。でも、今おきている何かについては当事者の感覚が重くのしかかっています。

それにしても人類が直面する「リスク=危険」という主題について、人文学は何を語れるのでしょうか。自然科学は、今、地球上でおきていることについて説明を求められるはず。社会科学は問題点を整理して解決策を模索するはずです。すなわち自然科学と社会科学は、地球の現代と未来に責任をもつ学問だということになりましょう。その一方で、切迫した課題が目の前に山積するほどに、人間の歴史や記憶という過去にかかわる問題は遠のいてゆくようです。ましてや文学の創造・研究・批評などは「実用性」も「即効性」も欠落した営みです……。

そんなことを思い巡らせながら日をすごしているときに、一冊の書物がとどきました。表紙は光溢れるドラクロア、タイトルは「愛、ファンタジア」───こんなご時世に、またもや「オリエンタリズム」? それとも「ポスコロ」? とつぶやいてから、アシア・ジェバールという名に目をとめて、あるインタビューを思いだしました。

8年におよぶ熾烈な戦いののち1962年に独立を果たした直後のアルジェリア、まだ20代半ばのアシア・ジェバールが、アルジェ大学で歴史の教員として働きはじめたころのこと。ある日、文部大臣が関係者をあつめ、今後は歴史教育をアラビア語で行うと通告したのだそうです。旧宗主国の言語が知的活動までを「植民地化」したままであることへの強い抵抗運動として、マグレブ諸国で「アラビア語化運動」がおきていた。その大きな流れにそった決定だったわけですが、ジェバールは、おずおずと手を挙げて発言を求めました(インタビューのなかで彼女は「わたしは内気だし、女は独りでしたから」と言いそえています)。

発言の趣旨は、初等教育は別として、当面は歴史教育のアラビア語化に反対するというもの。なぜなら、今、アラビア語で教えられるのは、かろうじて「出来事の歴史」にすぎないだろうから。一方で国民教育にとって不可欠なのは、歴史の史料を批判的に読むことであり、すべての人が「なぜ?どういういきさつで?」という問いへの回答を真剣に探すことだから、というのです。これを手がかりにして考えてみましょう。

アシア・ジェバール『愛、ファンタジア』は音楽的な小説です。1830年、フランスによるアルジェ占領から国土の征服と植民地化、1世紀以上にわたる収奪と弾圧の時代、そしてアルジェリア独立運動と脱植民地化という時間軸に、いくつもの、それこそおびただしい数の異質な「声部」が不規則に絡み合うようにして奏でられていく。その「声部」を大ざっぱに分類して紹介するならば:

「書かれたもの」───1830年7月アルジェ占領の経緯だけでも37の出版物が確認されているそうです。その中で、包囲された側の証言は3つ。誰が、いかなる状況で、いかなる視点から書いた報告かを検証しつつ、文献の引用を小説のテクストに折り込んでゆく。ジェバールの手腕は、まさに史料批判を実践する歴史家のもの。ちなみに報告の著者は全員男。

「オラルヒストリー」───抵抗運動の現場にいた文字の書けぬ女たちの証言。ジェバールからみれば全員が自分の母か祖母か曾祖母にあたる世代です。女たちの言い伝えを聴き取った歴史家が、小説家として造形する女たち。とりわけ「声」と題された章で「わたし」の物語を語るマキの活動家は素晴らしい。断片的な「事実の報告」よりも、仕組まれた「フィクション」のほうが隠蔽された「真実」を暴く力をもつことがあるのです。

「女たちの声、そして叫び」───兄の死骸を前にした羊飼いの娘の長く尾を引く叫び声。疑り深い女たちのおしゃべりや幽閉された女たちのひそひそ話。ささやくように語られる身の上話。車座になった女たちが聴き取れぬような小声で交わす挨拶。あるいは、はじけるような言葉、ほのめかしや格言や寓話や、ありとあらゆる技をつかった言葉の饗宴。そして「ファンタジア」と呼ばれるアラブの勇壮な騎馬試合に女たちが寄りそわせるあの甲高い叫び、あの「ユーユー」あるいは「ツァルル・リット」という絶叫のような言語、ゆたかな口頭言語のなかで育まれ、純化され、ついに音楽と化した愛の叫び……。

作品はフランス語で書かれています。フランス語教師を父にもったアシア・ジェバールは、フランスに留学して高等教育のエリートコースで頭角をあらわして哲学と歴史を学び、小説家、映画作家として世界から注目されつづけ、2005年にはアカデミー・フランセーズの会員になりました。人生のあらゆる場面において「初めてのアルジェリア女性」という役をふりあてられながら生きてきたのでしょう。

本人の述懐するところによれば、フランス語は「継母」であり、「ビロードのようであり、しかも棘がある」のだそうです。アカデミーの入会スピーチの冒頭で、ジェバールはディドロを引いて「外部にいながら同時に内部にいること」être à la fois au-dehors et au-dedans という言葉を標語のように掲げます。おそらくそれは、言語についての経験にもあてはまるはず。

他者の言語であるフランス語だけでなく、アルジェリアの国語であるアラビア語も、遠い祖先からうけついだベルベル語も、さらには叫びや身ぶりとして表出される女たちの言語さえ、すべては「外部にいながら同時に内部にいること」の経験のなかで生きられている。そうわたしには感じられるのです。

「外部にいながら同時に内部にいること」という標語の寓意は何か。「異分子としてそこに居つづけること」と読み換えることができるかもしれません。アカデミー・フランセーズはもとより、フランス文学にとっても、アルジェリア国民にとっても、そして言葉を奪われたイスラームの女たちにとっても、ジェバールは「異分子」のはず。今や、わたしの共感は、ひたすらその一点に向かいます。

そしてひとつの夢が立ちあがります。5年後あるいは20年後かもしれないけれど、懐かしい東北訛りのある老人の語りから科学データまでを批判的に分析できる当事者があらわれて、「外部にいながら同時に内部にいる」という立ち位置から、2011年の日本について証言するだろうという夢が。それは人文学の研究書であってもいいし、小説という形式のフィクションであってもいい。著者が女性であることを祈念しています。

ここでがらりと声音が変わりますが、日本はどうしようもないほど「異分子=異なる見方」を排除する村社会なのですよね。学問も企業も。それゆえ研究者の世界では、いまだに内部と外部を細分化する仕切り壁がそそり立っており、この未曾有の危機に対処しなければならぬ企業や官庁を代表するのは、どちらを見ても、ああ、均質な面立ちの男、男、男……。

声高に広報活動をして、この長いエッセイをしめくくりたいと思います。
アシア・ジェバール『愛、ファンタジア』は志の高い書物です。訳文は工夫されていて読みやすく、巻末の注や歴史年表も行き届いています。そして「訳者解説」は、この作家を初めて日本に紹介するための周到な手引きとなっています。大学の助成金を受けた出版であるらしく、定価にも努力のあとが見られます。詳しくはAmazonのサイトをどうぞ。担当の編集者が書いたのでしょうけれど、情報量のあるコメントも貴重です。

今回は、あまりにも長閑な異国の写真はやめにして、書影にジェバールの引用をそえることにいたしましょう。

djebar

どんな言葉も、あまりにも光輝くものは大言壮語の声となる。
一方、押し殺された言葉は、揺るぎない抵抗の声となる。

「婚活小説」vs.「姦通小説」

2010年 2月 22日

ルネ・レモンの翻訳が、ようやく校了になりました。『政教分離を問いなおす───EUとムスリムのはざまで』というタイトルで、青土社から3月初旬に刊行予定です。この2年ほど、カトリックと法制度の勉強をしようと思って、それこそ色気ぬきでやってきましたら、ほっと一息、解放感を味わっているところ。

正直のところ、新しい分野をかすめただけですけれど、それでも学んだ甲斐はありますよ。どんな小説を読みなおしても、じつに新鮮。この社会風景は、制度としての宗教という観点から分析できる、ジェンダーの話であれば、プロテスタントとカトリックの女子教育の相違を考えたら面白いはず、等々、いろいろと思いつくことがあって。

『ジェイン・エア』を久しぶりに読みなおしました。放送大学の教材『世界の名作を読む』の改訂版制作のためですが、これも、じんわりと懐かしい読書。ブロンテ姉妹はわたしにとって、はじめて読んだ小説らしい小説だったのでしょう。あらためて実感したこと───イギリス近代文学は、本当に結婚の話が好きですねえ。どうやって自分にふさわしい相手を見つけ、苦難をのりこえて、ゴールインするか。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』なんて、まさに「婚活小説」ではないですか。対になったテーマは、まちがえた結婚という不幸。『嵐が丘』では、同じキャサリンという名の母と娘が二世代にわたり、愛情によらぬ結婚をする。『ジェイン・エア』では、ロチェスターに狂気の妻がおり、その秘められた傷害が、運命の計らいで巧みにとりのぞかれたとき、ようやくハッピーエンドとなるわけです。

一方、19世紀のフランスは、もっぱら「姦通小説」ですね。バルザックの『谷間の百合』と『ランジェ公爵夫人』、フローベールの『ボヴァリー夫人』と『感情教育』───これだけで、充分に説得されるでしょう? 「姦通小説」と「恋愛小説」のちがい? 答えは簡単明瞭です。ヒロインの魅惑が「人妻」というステータスから生じていることが、条件とお考えください。結婚という神聖な制度に守られた禁忌の対象であるからこそ、女は輝き、ゆたかな陰影をおびるのです。それにしてもなぜ、フランス小説では「結婚」がゴールではなくてスタート地点におかれ、「姦通」が特権的な主題となったのか。

今のところ、考えているアプローチは二つ。一つはカトリック教会が、「告解」という制度によって、既婚女性の性生活にある程度は介入できたという問題。もう一つは、教会法とキリスト教の道徳にかわり国民の生活を律することになった民法の枠組み───とりわけ財産相続と離婚にかかわる法律───のなかで、「姦通」がいかに位置づけられたかという問題。結婚生活からの逸脱が禁じられる論拠は、宗教的なものか、それとも法的なものか、という観点からすると、二つの問題構成は連動しているわけですが。いずれゆっくり考えるつもりで、資料を集めたり、小説を読みなおしたりしています。

ジェンダーと宗教の関係という意味で、イギリスとフランスには、根本的な相違があるのではないでしょうか。よく知られているように、ジェイン・オースティン、ブロンテ姉妹、ジョージ・エリオットは、そろって「牧師の娘」です。4人だけで、迫力充分ですね。幼少から読書に親しみ、ともかく学校で───『ジェイン・エア』のローウッド学院と似たり寄ったりの、貧しく謹厳な寄宿学校だったりするらしいけれど───音楽や絵画や外国語など、知的な市民としての「教養」を身につけた「レディ」たち。たとえ台所のテーブルであろうと、原稿用紙をまえにおき、ペンをにぎってヒロインの人生に思いをはせる女性たちは、自立を求める自由な主体だったといえるでしょう。

一方、カトリックの場合、そもそも聖職者には、妻も娘もいないのです。小説を読むかぎり、末端の教区司祭は一般に、住民の識字教育ぐらいはやったでしょうけれど、プロテスタントの牧師にときおり見られるような───ジェイン・エアに結婚を申し込む従兄のセント・ジョンは、その強烈な典型ですが───教育的な使命感と奉仕への若々しい情熱に燃える人物ではなかったように思われます。もっとも、革命後のフランスで、時代の先端をになう知的活動は、宗教による検閲や管理がおよばぬところで展開されており、そもそも作家の大半が、教会に通うことをやめてしまった男性たちでした。そのことにより、カトリック信仰や聖職者にかかわる証言が、イデオロギー的に限定されたことは、まちがいありません。

かりに中産階級の女性が、結婚相手を見つけられなかったらどうするか。イギリスでは「ガヴァネス」つまり住み込みの家庭教師になるというのが、唯一、ディーセントに自活する道であったといわれます。フランスでは? いっそ修道女になって、学校教育、病院、地域の福祉など、 教会や修道会を背景とした社会活動に参加するか。あるいは、ピアノのレッスンをするとか、ちょっとした記事を新聞社に売り込むとかして、「教養」を切り売りしながら、糊口をしのぐか。生活の安定という点で、二つの選択肢の差は歴然としています。

19世紀を通じて、フランスの修道女の数がうなぎのぼりに増加するのは、たんにカトリック信仰の「霊的な目覚め」ゆえではないだろうと思うのです。はっきりいえば「余った女たち」が、生きる場をどこに求めたか、という話。総人口も示さず、年代も違う比較などは、もちろん無責任ですけれど、ご参考までに:イギリスで1861年の国政調査によるガヴァネスの総数は24,770人だそうです。フランス1900年の調査によれば、国内の修道女の数は128,315人(修道士は29,583人)。

しかしフランスの女性は、なぜ「家庭教師」になれなかったのでしょう? 『ジェイン・エア』と『ボヴァリー夫人』を読みくらべてください。小説という文学のジャンルは、聡明なものでありますから、女の人生が教育によって決定されることなど、フェミニストに糾弾される以前から知っていたのです。いずれボヴァリー夫人となるエンマが「お嬢様風」にカトリックの修道院の寄宿舎で受けた教育は、じっさい「教養」と呼べるようなものではない。チャリティで運営されるローウッド学院で、ジェインが栄養失調になりながら受けた教育のほうが、内容としては、まだましです。

「教養」を身につけた女性が供給されなければ、女性の家庭教師という職業への社会的なニーズそのものが生まれない。ニーズがなければ、教育プログラムの改善という動機が刺激されることもない。女子教育という観点からすると、イギリスやドイツなど、プロテスタント系の国々で、先に改革の機運が熟したことはたしかです。さらにもう一つ、見落としてはならない重大なポイント。

ヴィクトリア朝に生きた「牧師の娘たち」は、時代の証言者となり、女性が自分自身について語る文学の伝統が、ヴァージニア・ウルフへと引き継がれてゆきます。これに対してカトリックの「修道女」たちは、恋愛もせず結婚もしないという建前でしたから、当然のこととして、生身の女の人生については、沈黙を守りぬいた。信仰について告白すること以外は、想像すらできなかったのでしょう。

そうしたわけで、フランス近代小説は、キリスト教の信仰から距離をおいた男性たち、それも大方は、少なからぬ数の女性と交わりつつ結婚をしなかった男たちが担うことになりました。独身者のペンによる「姦通小説」? これも可能なアプローチの一つでしょう。

『大西巨人 闘争する秘密』

話は変わって、出版便り。若手の論文を「新書」で出版するというアイデアを左右社の小柳さんから聞いたのは、もう数年前のことでしょうか。せっかくならシリーズにしましょう、ということで、『砂漠論』の刊行にさいして「流動する人文学」というタイトルを考案したのが、2年前(「若者よ、本を書こう!」2008年3月1日4月1日)。

石橋正孝『大西巨人───逃走する秘密』は、このシリーズの新書版、第1号です。この人の文章と出会ったのは、十数年前、東京大学教養学部の学生論文集「ΣΥΜΠΟΣΙΟΝ」(2009年10月24日)創刊号を編集したときなのですが、文章が、そして文学を見る眼が、時とともに確実にオトナになってゆく。その印象は、大学の教員として生きてきたわたしには、率直に嬉しいものでした。

黒地に金の箔押し、グレーの帯というスマートな本作りには、いつものことながら感心します。書物を手に取る快楽というのが、たしかにあるのですね。小柳さんに、思わずナイーヴな質問をしてしまいました───どうしてこんな綺麗な本が1000円でできるの?

ケ・ブランリー博物館
K.NAKATA

世界の名作を読む

2009年 12月 25日

進行中の本のゲラ校正にとりかかるまえに、今年をしめくくるエッセイを。とはいえ、ふりかえってしんみりしたり、未来の抱負を述べたりするガラではありません。目先の課題としては、とにかく文学回帰。来年度は放送大学の教材『世界の名作を読む』の改訂版を制作します。

大学に市場原理が入ってきたのは昨今のことではありません。ヨーロッパ系の言語を防衛するための闘いは、考えてみれば、もう十数年はつづいているでしょう。東京大学の教養学部のカリキュラム改革が、1993年。その4年後の「自己評価」あたりから、それこそ休む間もなく、荒波が押しよせているような気がします。英語は別格として、複数の外国語を展開すれば「コストパフォーマンス」がわるくなることは目に見えている。この先も初修外国語は「事業仕分け」にとって、恰好のターゲットになるにちがいありません。

外国語としてのフランス語の地盤沈下と、文学の衰退は、さらには人文科学の後退は、シンクロナイズした現象です。でも、いつもいうように、愚痴をいうヒマがあったら、前向きの企画を立てましょう。あれこれ工夫してやってきたことを思いおこせば、わたしは三割打者といえるほどヒットを飛ばしてはいませんが、見苦しいファールや失点を、こんなところで公開しても仕方ないでしょう。つまり本日は、文学について少しは景気のよい話をしようというわけです。

放送大学の基礎科目『世界の名作を読む』は、ホームランとはいわぬまでも、まあ三塁打ぐらいかな。これのおかげで大学では外国語まで、ほっと一息ついている感じです。

世界の名作は知っていたほうがいい、という教養主義の原点のような提案と、贅沢な講師陣、そして5時間40分の朗読を収録したCD-R補助教材の新鮮さがセットになって、社会の潜在的な願望を掘りおこしたということでしょう。ドイツ文学は池内紀先生、アメリカ文学は柴田元幸さん、ロシア文学は沼野充義さん、というラインアップ。学習サポートHPには、IT教材のサンプルを立ちあげてあります。このサイトで、柴田元幸さんの『ハックルベリー・フィンの冒険』の朗読を試聴して、新訳のメルヴィル『バートルビー』のテクストをダウンロードできますので、どうぞ。
http://www.campus.u-air.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/index.html

『世界の名作を読む』の履修者は、毎学期1000名を超えています。通信指導問題は記述式で、一つのテーマを選択して1000字のレポートを書く。答案は、それぞれの作家研究で実績をもつ若手に協力していただき、丁寧なコメントをつけて返却します。放送大学の教育プログラムには、一般の大学の単位互換校も参入していますから、段ボールに入った山のような答案をチェックしていると、それこそ十代から上は上限なしの年齢層の日本語に接することになる。

日本語で表現する力をつけよう、という掛け声だけは聞かれるご時世ですが、そのための教育システムが、まったく提供されていない。これは胸が痛むほどの実感です。とりわけ仲間どうしの携帯メールしか、文章を書いたことのない若者たち。『ドン・キホーテ』が面白いのは。。。と書き始めて絶句する様子が、目に浮かびます。

文学を読むことは、他者の思考と向きあうこと。異質な言語に応答しようという意欲があるところで、はじめて人間と人間のコミュニケーションが成立するのです。それは社会人として、市民として生きる基礎的な知力のようなものでしょう。そして、これを身につけてもらうことこそが、教育の究極の目標ではありませんか?

とにかく手応えはあるのだから、焼け石に水のような作業であっても、この講義は、改訂版をつくって、あと何年かはつづけてみようと思い立ったわけなのです。15回の講義の半分ほどを、入れ替えます。サイトをご覧いただけばわかりますが、これまでは、ズシリと重い大作家が主流だった。こんどは、少年文学と童話を入れてみようかな。

そんなしだいで、ひ弱な文学少女であったわたしの心の糧はこれだったのだなあ、と、じんわり嬉しい気分になりながら、創元社の「世界少年少女文学全集」を引っぱり出しました。当時としては破格の豪華本でした。濃厚なピンクのハードカヴァーに色刷りの図版が入った表紙を見るだけで心がおどり、新しい巻がとどくと、読みおわるまでかかえてあるいたものです。渡辺一夫訳のラブレーとともに、ラ・フォンテーヌ、シャルル・ペローなどを入れた巻は、22回目の配本で、昭和29年の出版です。わたしは10歳。

ちなみにこの「少年少女文学全集」には、巻末に作家紹介のページがあり、ペローについては「韻文」と「散文」そして「新旧論争」などという専門用語?を平気でつかい(もちろん全部ルビつき)、さらには「童話集」が偽名で公表された経緯なども紹介して、堂々たる作品分析をやっています。これぞ「ゆとり教育」の対極! 日本の戦後をになう子どもたちに、ほんものの知識を手渡そうとする文学者たちの気概が、ひしひしと伝わってくる全集です。

さて話はもどりますが、いずれにせよ、好きな童話の「読み聞かせ」をやっただけでは、大学の講義にはなりません。さまざまの翻訳を入手し、童話、寓話、民話、昔話、神話、などの関連書を読みあさり、45分におさまるテーマの構成を考えてゆきます。常識的な路線だけれど、ペローとグリムをセットにしてみるか。。。

シャルル・ペローは、太陽王ルイ14世の宮廷に仕えた文人ですが、「童話集」が刊行された1697年は、アカデミー・フランセーズの編纂する『アカデミー辞典』の初版が完成した直後。このときすでにフランス語は、純化された言語としてヨーロッパ文明を代表し、啓蒙の世紀に君臨する力をたくわえています。

グリム兄弟の『子どもと家庭のための童話』は、1812年に初版が刊行されたのち、1857年の第7版まで改変をかさね、200篇を超える物語をおさめています。19世紀は、ナポレオンの帝国に蹂躙されたヨーロッパで、ナショナリズムの運動が昂揚した時代です。民間伝承の収集は、ネイションのアイデンティティを立ちあげ、言語のルーツをさぐる基礎作業でもありました。グリム兄弟は、『ドイツ語文法』『ドイツ語辞典』などの編纂を先導した第一線の文献学者だったのです。

ペローとグリムを分かつのは、1世紀以上の時の流れだけではありません。普遍言語を志向するフランス語vs.創出すべき国民言語としてのドイツ語。「プレシオジテ」などと呼ばれる宮廷文化の洗練と美意識vs.国民国家の市民が身につけるべき教養と道徳的な価値。こんなふうに単純化するのは、もちろん乱暴なのですけれど、作品の時代背景を描くヒントにはなりそう。

おわかりのように、近代ヨーロッパの生成という枠組みのなかで、ペローとグリムを読みくらべる方法がないか、考えているところです。携帯メールの大学生には、むずかしすぎる? 楽しめるところを楽しみ、吸収できるものを吸収してくれればいいのですよ。レヴェルを下げて、子どもあつかいすれば、履修者に歓迎されると思うなかれ!

この童話の話、放送大学主催の「新春公開講座」で頭出ししようと思っています。2月3日(水)の夜、だそうですが、いずれにせよ来月、このHPで「広報活動」をやります。なにせ「事業仕分け」の時代なのだから、覚悟を決めて、防衛のための実績をつくっておきましょう。

そうそう、ご存じの方もあるでしょうけれど、フランス語辞典のウェブサイト。ぜひこれを活用してください。1694年の初版『アカデミー辞典』までアクセスできるのです! このサイトを存分に活用しながら、シャルル・ペローを自分で翻訳して、新しい教材をつくります。やっぱり文学の仕事は、じんわりと楽しい。。。
http://www.cnrtl.fr/definition/

写真はリュクサンブール公園の焼き栗売りのおばさん


焼き栗売り

K.NAKATA