工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 共和国とライシテ

「宗教文化」について

2013年 7月 26日

9月末刊行予定の著作が再校の段階で、本日は久々に机のうえゲラの束も姿を消したので、一息ついているところです。

7月22日から教皇フランシスコが、カトリックの祭典「世界青年の日」に出席すべく、ブラジルを訪問しています。この国は世界一のカトリック人口をかかえる一方で、信仰の凋落は著しく、1980年には信徒数が国民の90%を占めていたのに対し、今日では70%以下になっているらしい。それに問題は数だけではなく、信徒の一人ひとりが人生をいかに生きるかについて、教会が指導力をもっているか、じっさいに「教導権」を行使できるのか、ということですからね。ブラジルは何十年か前に「解放の神学」という農民や貧困層を基盤とした社会運動を立ちあげた国。そのせいか「カトリック教会の長女」とかいって乙に澄ましているフランスにくらべると、なんだか野性味が感じられます。

先日、BSのフランスのニュースで、マルセロ・ホッシ神父Padre Marcelo Rossiのミサを特集したものがあり、何なの、これ?! これでもカトリック??? と驚愕しました。さっそくネットで調べてみたら、面白い論文に巡りあい、大いに納得しました。山田正信「カリスマ刷新運動――プロテスタントの伸展に抗うブラジル・カトリック教会」(天理大学)。現象の記述から分析の論理構成まで、じつに明晰で、こういうものに一瞬でアクセスできる世の中なのだから、若者だって人文系の学問の凋落、とか、嘆いているヒマはないと思うのだけれど。論文は以下のサイトで読んでいただくとして、ここでは現象そのものの面白さを紹介したいと思います。
http://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/15yamada.pdf

なにしろお洒落な女の子たちが夜行バスに乗って遠隔の地から馳せ参じるのです。論文の解説によれば、マルセロ・ホッシは元体育教師で身長は2メートル近く、体重は100キロ。とりあえず碧眼の美丈夫といって差し支えないカトリックの聖職者が、福音派の伝道師のごとく、会衆とともに両手をふりかざして、歌って踊る。その情景をニュース番組で見て、わが目を疑いましたね。

教会は元工場だったという巨大な建造物で、YouTubeで見つけた下記のサイトによれば、野外のロックコンサートのようなイヴェントもやるらしい。日本のアマゾンでもCDを売っているほどで、この「カトリック界のポップスター」たる神父さま、子ども向きのテレビ番組で「主のエアロビクス」などというものまでやっているそうです。つまりビジネス的にも成功した活動で、わたしの見たニュースでは、教養も生活水準も中流か、もう少し庶民的か、と思われる中年女性や若者が、教会の売店にあふれ、感激の面持ちで、書籍やDVDほか、さまざまの「宗教グッズ」を買いこんでおりました。
https://www.youtube.com/watch?v=uhQcg9hpgwU&list=TLcyKWzLsuQHA

現在、世界中でもっとも急成長を遂げているのは、イスラーム系の宗派ではなくて、ペンテコステ派なのだそうです。どうやらマルセロ・ホッシ神父の「カリスマ刷新運動」は、その系統であるらしい。「ペンテコステ」は「精霊降臨」と訳されますが、イエスの復活から50日が過ぎたころ、集まって祈っていた信徒たちが聖霊に満たされて――まず嵐のような音が聞こえ、それから炎の舌が一人ひとりの頭上に降りてきて――各自が「異国の言葉」で語り始めたという不思議なお話です。新約聖書の「使徒言行録」で語られるこの出来事を字義どおりに再現し、さまざまの「異国の言葉」ならぬ「異言」(グロソラリア)、つまり誰にも意味の通じない言語を憑依状態の信徒が口にする。これが「精霊降臨」の証しであるというのですから、神学という学問を土台とした伝統的カトリックの対極、まさに新興宗教的な福音派プロテスタントの典型と思いこんでいたのです。

山田論文によれば、カトリックの「カリスマ刷新運動」は、北米の大学でペンテコステ運動との接点から1967年に誕生したものであるとのこと。民衆に開かれた教会活動を推進するという趣旨の第二バチカン公会議(1962-65年)における公文書を基盤とし、当初からローマ・カトリックの教義に沿った運動であることを謳っている。じっさい1973年には教皇パウロ6世により、さらに20年遅れたものの1994年にはブラジル司教会議により承認されているのだそうです。

それにしても、フランスの司教会議では、まず承認されないだろうな、と思いましたね。なぜってフランスは「言語文化」の国だから。ニュースでの紹介も、そもそも南北アメリカは福音派の本場だから、こんな合いの子のような信仰が……という感じで、軽く皮肉なものでした。さて、ここで話は先回のエッセイにつながるのですが、オリヴィエ・ロワに言わせれば、どこの国の言葉でもなく、習得したこともないのに、なぜか語ることのできる「異言」ほどに、グローバル化の時代の「脱文化」「脱テリトリー」を象徴するものはない。それというのも本来、言語とは「文化」の結晶のようなものであり、これに対して「異言」とは「文化」との絆を断ち切られた言語。じつは世界中のどの地域でも話されていない言葉が、なぜか世界中で通じる「普遍言語」になるという奇妙に倒錯した話です。この現象そのものが、ヴァーチャル空間を浮遊する宗教の「脱文化」という今日的な風景を、この上なく明快に象徴しているとオリヴィエ・ロワは指摘します。

ところで「脱文化」déculturationという言葉は「インカルチュレーション」 inculturationの対義語です。宗教と文化の断絶という問題が浮上したのとほぼ同じ時期に、キリスト教が「福音の文化的な受容」という意味で「インカルチュレーション」と言い始めたようなのです。岩波『キリスト教辞典』によれば、ローマ教皇が公式にこの言葉を使ったのは1985年だとか。おそらく「カリスマ刷新運動」は、宣教活動に一定の実績を挙げたところで、土地の文化、とりわけ民衆文化への根づきという意味で――すなわち「インカルチュレーション」の好例として――ローマ教皇庁によって認知されたのでしょうね。ごく最近までカトリック教会は、儀式典礼はラテン語で、ミサの形式も厳密に定められていたにもかかわらず。

しかし、だとすれば「異言」とは、オリヴィエ・ロワがいうように「脱文化」の象徴なのか、それとも文化への根づきの手段であり、その証拠とも言えるのか。ブラジル司教会議の内部でも「異言」の正統性については認めるか認めないか、意見が分かれたままであるようです。わたしは文学好きだから、まずは言語の問題が気になるわけですが、山田論文を読んで、なるほどと頷いたのは、じつはミサの方式です。

マルセロ・ホッシは、聖体顕示台を捧げもって、信徒のあいだを歩いてしまう。その間、神父に寄りそう会衆は「あたかも聖体顕示台から放たれる光を受けるように、ろうそく、数珠、写真、塩、労働手帳などをかざして」いる。これぞ「カリスマ=霊的賜物」が信徒に授けられる「もっとも神聖な時間」であり、「聖なるもの」との「直接的な接触」が実現する特権的な瞬間であると論文には記されています。なるほどこれは、カトリック的だなあと思いました。

考えてみれば「インカルチュレーション」などという言葉がない時代から、この制度的宗教は、したたかな底力を見せながら、文化的な根づきへの努力を重ねてきたのです。ヨーロッパ近代とは、たんなる宗教衰退の時代ではない。むしろ政治と切り離された宗教が、文化の領域で自由を獲得し、飛躍した時代だともいえる、それは「コングレガシオン」(教育や福祉など社会的な活動に携わる修道会)のめざましい発展などからも見てとれる。これが、わたしの持論です。

バルザックやフローベールやモーパッサンの作品で「終油の秘蹟」や「初聖体拝領」などの断章を読むと、市民社会に生きる一般の人が「聖なるものの顕現」をいかに経験するか、という切実な問題に、小説家が正面からとり組んでいることがわかります。宗教的な事象を相対化して捉えるようになった男性知識人にとって、とりわけ女性や庶民が経験する「カトリック的な神秘」というのが、大いなる関心の的だった。今日なら「スピリチュアリティ」の経験と呼ぶでしょう。ただし、この言葉も、19世紀には今日的な意味合いで使われてはいなかった。

こんなふうに歴史をさかのぼってみると、近代に蓄積されたものの延長上に、ポストモダンの現象が醸成されるという経緯が、明瞭に見えてきます。とはいえここで、カトリックとプロテスタントの対比に話題を限定してしまったのでは、グローバル化の時代は把握できません。たまたま本日(7月24日)のニュースでは「宗教文化」の時事問題が目白押し。

ちょうどロシア正教の記念典礼というのがありまして、これは今日のロシアがキリスト教の文化圏に入るきっかけとなった「ルーシの洗礼」から、今年で1025年という話。グルジア、キプロスなど、合わせて15カ国の独立正教会の総主教たちがモスクワにつどい、正装して荘厳華麗な救世主キリスト教会の内陣に現れた光景には、迫力がありました。ご存じのようにロシア・東欧における宗教の復興はめざましい。ただし、正教会は、ある種の福音派や原理主義的なイスラームなどのグローバル化路線とは、まさに正反対の道を辿っているように見える。つまり、国家と手を結び、国民アイデンティティの文化的象徴となることを目指しているように思われます。崩壊したイデオロギーの代替を、宗教がつとめるということでしょうか。

最後は、ユダヤ教の「超正統派」(ハレーディーム)――というより、あの黒い帽子に三つ編みの頭髪、髯を生やした黒いスーツの男たち、といったほうが、イメージがわきますよね。イスラエルでこの宗派は、信仰生活に専念することを理由に、兵役義務を免除されていたのですが、特権廃止の方向で、国会で審議されるとのこと。「超正統派」はきわめて閉鎖的な集団を作っており、宗教学校に通い、テレビは見ない、職業訓練はいっさいなし、結婚相手も自由にえらべない、子どもはなんと7人(!)もうけることが義務づけられている……。

子沢山の話でまず思いだしたのは、ケベックにおけるフランス人入植者の歴史。現代ならヨーロッパにおけるムスリム、アフリカ、ラテンアメリカ系の移民や労働者の生活習慣。人口統計と宗教文化の動静は深く係わります。ニュースでは、イスラエルにおける「超正統派」は人口の一割と言っていましたが、どうなのかなあ。一世帯の児童数も、じっさいにはそう多くはないようだし、国から例外的な保障を得ていても、生活は楽ではないらしい。

イスラームにかぎらず、さまざまの宗教・宗派をめぐるドラマが世界中で展開されています。わたしたちは大学生のころマルクスを読んで、宗教などは前世紀の遺物と考えてきた世代ですから、なおのこと目を奪われるのかもしれません。それにしても、昔の宗教がそのまま復活したわけではないのです。「信仰」の内実が問われる以前に、「文化」としての宗教が可視化されており――さらなる可視化の権利を求める者もおり――かつては想像もできなかったような風景が地球上に広がって、時には深刻な摩擦が引きおこされている。きっと皆さんもお気づきのことでしょう。

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「学際性」と「共和国の歴史」をめぐるマジメな話

2012年 4月 19日

桜が散って、新学期になりました。昔話から始めましょう。昔々、えーと35年ぐらい前でしょうか、東京大学仏文科の大学院の面接試験で、さる先生が、さる受験生に「どうしてフランス19世紀の作家は法学部出ばかりなんでしょう?」と、いきなり質問したのだそうです。その受験生は法学部出なのですけれど、「そりゃいくらなんでも絶句するわよねえ」と話を聞いたわたしは笑って相づちを打ち、その一方で、じつはずっと考えつづけておりました。

さる先生は大学の要職をつとめられたのちも「評論家」として先鋭なお仕事をなさり、法学部出の受験生のほうは、現在、要職をつとめながら、しっかり研究をつづけておられますけれど、それはどうでもよくて、この質問は「さすが!…」と感嘆すべき切り込みなのです。当時は「学際性」などという言葉は影も形もなかった。これは笑い話ではありません。

1880年代まで、大学における専門教育は、じっさいのところ医学部と法学部だけだったと指摘しているのは、フランス民法学の泰斗ジャン=ルイ・アルペラン。どうしてそのような事態になったのかというと、まず1804年にいわゆる「ナポレオン法典」が制定された。ただ法律ができたって、今の日本では話題にもならないけれど、これは文字どおり、近代国家フランスの礎(いしずえ)です。アルペランの解説をメモ風にまとめると:

1800年から1804年にかけて民法典編纂作業の主要な議事録が公開されたことは、それだけでも画期的だった。法典が公布された当時、初版は1月で8万部が売れた。つづいて民法典をあつかった大衆的な書物が大量に出回った。法学部の学生が暗記するために韻文形式や一覧表をつかった参考書、女性向け、聖職者向けの手引き、なかには「教理問答集」まであった。さらにカリカチュア、通俗版画、そして文学……。

文学となればもちろんバルザック。『ペール・ゴリオ』から一例を(鹿島茂さんが新訳のタイトルを『ゴリオ爺さん』からこう改めたこと、賛成です)。父性の権化のような人物が臨終の床で、娘たちに会いたい、あの子たちを力ずくで連れてきてくれ、とかき口説く台詞です――「正義はこっちにあるんだ。人情も、民法Code civilも、みんなこっちの味方のはずだ。あたしは抗議したい。父親がないがしろにされるようでは国は滅びますぞ。そんなことわかりきっているじゃないか。社会も、この世も父親を軸に回っているんだ」

粉の買い付けと製麺のことしか知らぬ庶民のオヤジさんが、死に際に民法をもちだしても、それがジョークにならず通用するという状況を想像してください。ナポレオンの天才的なプロパガンダ活動により、法典に描かれた「父権的」な家族イメージがたちまち国民に浸透し、これに見合った「言語文化」が生成していったという意味です。

さて、つづく話題は、大学を頂点とする教育制度の大改革であるべきでしょうけれど。ちょっと回り道をして、ナポレオン研究の現状から(いつもの大風呂敷です)。フランスではムスリムのスカーフ問題とも絡み、政教分離法制定100周年を記念する研究活動が2005年を中心に盛りあがりました。その1年前の2004年はナポレオンの戴冠と民法典制定の200周年。第一統領ナポレオンは1801年にローマ教皇とのあいだに締結した政教条約(コンコルダート)と国内向けの立法「付属条項」によって、カトリック、カルヴァン派とルター派のプロテスタント、そして一足遅れながらユダヤ教が、4つの「公認宗教」として共存できる絶妙なシステムを作りあげた。

それなりに安定して1世紀つづいた「公認宗教体制」を根底から見直したのが、1905年の「政教分離法」だったわけですから、要するに19 世紀市民社会の祖型はナポレオンの頭脳から生まれたといってもよい。さまざまの意味で第一帝政の全体像が更新される出版物があるという事実は、例によってアカデミー・フランセーズのインターネット配信ラジオCanal Académieでキャッチしています。「ナポレオン」で検索すると50本ぐらいの番組がヒットするのだから、おのずと研究の活況も伝わってくる。

ナポレオン学のナポレオンみたいな感じのするジャン・テュラールJean Tulardは、1999年に増補版の出た『ナポレオン事典』の編纂とか、2005年に政府の肝いりで開催された人文・社会科学アカデミーの政教分離法100周年記念シンポジウムの委員長とかをやった大物ですが、話術も巧くてCanal Académieの常連、最近の番組では学校教育のなかにナポレオンが正しく位置づけられていないと批判していました。

大きな流れでいうと、アルペランが法学部の隆盛について1880年代までと時代を区切っているのには明確な理由があって、その後は第三共和制の大学で、歴史学が王座に就くからです。1789年の革命以来、一度も長期政権を築くことのできなかった共和主義にとって「共和国の歴史」を記述することは、それこそ国家の基礎を安定させるための喫緊の課題だった。もっとも単純化された物語としては「王党派=保守主義=カトリック」と「共和派=進歩主義=政教分離(ライシテ)」をそれぞれに標榜する「二つのフランス」があって、旧弊な前者が先進的な後者によって克服された、というのが「共和国の歴史」です。大革命のときに「王殺し=父親殺し=神殺し」をやってしまったフランスは、その後1世紀をかけてこの基本原則に見合うライックな国民国家を着々と設営したという「目的論的」téléologiqueな歴史記述ができあがる。

この紅白両陣営の戦いのような見取り図によって19世紀を理解すると、第一帝政から王政復古、ブルジョワ王政、第二帝政という大きな運動の、何か本質的な部分が、余計な夾雑物や障害物とみなされ抜けおちてしまうように思われます。これに対してナポレオン研究者たちの視点からすると、革命後に「父権」と「教会」は近代的な方式で再建されており、フランス19世紀の社会は民法典と公認宗教体制という二つの柱によって支えられていた。それなのに教育の現場では、あいかわらず教条主義的な二元論の「共和国の歴史」が教えられているのではないか、と不満をもらす向きもあるわけです。

せっかくだから、ジャン・テュラールの『ナポレオン事典』大判2000ページからひとつだけ「ポルタリス」の項の冒頭部分を紹介しましょう。

民法典と政教条約(コンコルダート)――二つの「御影石の塊」に喩えられる偉業だが、前者の草案を練り、後者の実施を可能ならしめたのは、たった1人の人間、ポルタリスである。いずれの場合も、孤軍奮闘というわけではなかったが、つねに卓越した役割をはたしていた。彼はまず、第一統領により指名された4名からなる委員会の一員として1800年に民法典の起草を再開し、4年でこれを完成させた。コンコルダートの交渉に当たったわけではないが、1801年に諸宗教関連事項を担当する国務大臣に任命されてから1807年に死去するまで、効果的かつ有能にフランスにおける宗教的な活動を再建すべく陣頭指揮をとった。今日では大衆的な知名度は高くないけれど、この「ホメロス的な老人」――1800年には54歳になっていた――を尊敬する同時代の人びとにとって事情はちがっていた。失われつつある視力を補って余りある驚異的な記憶力に人びとは感嘆した。彼の演説の才、精神の高潔、倫理的な廉直、そして宗教的な信念を高く評価した。ボナパルトは、このように信頼の篤い人物が全霊をもって自分に仕えることで、どれほどの益を引きだすことができるかを、ただちに見抜いたのである。

ポルタリスの演説集が2010年に復刊されており、それを読むと宗教と世俗の力学を調和させ、安定した市民社会のモデルを構築した「ホメロス的な老人」の思考法にふれることができます。カナダ法務省公式サイトの電子版も見つけましたので、記載しておきましょう。
Jean-Etienne-Marie Portalis, Discours et rapports sur le Code civil, Presses universitaires de Caen, 2010, http://www.justice.gc.ca/fra/pi/gci-icg/code/page05.html

ナポレオンの宗教政策が脚光を浴びるようになったのは、「共和国の歴史」の見直しがそれなりに進んでいることの証しといえるかもしれません。『ナポレオンと諸宗教』Napoléon et les cultes, Les religions en Europe à l’aube du XIXe siècle 1800-1815, Fayard, 2002の著者ジャック=オリヴィエ・ブードンJacques-Olivier Boudonは、この分野を代表する研究者のようですが、この辺りの話は、わが国の先駆的な研究成果である松嶌明男『礼拝の自由とナポレオン――公認宗教体制の成立』(山川出版社、2010年)をご覧いただくのがいちばんでしょう。かっちりした実証主義の歴史学です。

ちなみにジャック=オリヴィエ・ブードンは、ソルボンヌの近現代史講座教授なんですから、見方を変えればナポレオンの宗教政策を専門にしてもアカデミズムの頂点に立てる、つまり19世紀の公認宗教体制研究はもはやマイナーではない、ともいえそうです。それはともかくとして、この人もよくCanal Académieに登場するので、「ナポレオンの大学」をめぐる充実した論考に巡りあうことができました。これがあれば、35年前の質問に回答することができる。
Fondation Napoléonの公式サイトに掲載された電子版の論文Jacques-Olivier Boudon, « Napoléon organisateur de l’Université »
http://www.napoleon.org/fr/salle_lecture/articles/files/universite_Boudon_RSN464_mai2006.asp

さてブードンの上記論文については、メモ風に:

中世からの伝統をもつフランスの大学は、1789年当時、神学部、法学部、医学部を擁していたが、国民公会において特権階級を養成するものとして批判され、1793年9月15日の決定により「廃止」された。第一統領時代から教育制度改革にとりくんだナポレオンは、いわば「更地」に帝国大学を創ったことになる。新しい大学の組織は法学、医学、文学、科学、神学の5学部とされた。かつて「リベラル・アーツ」という枠組におさめられていた学問が、ここで文系と理系に分断されて今日の大学制度にまで至り、現代日本の受験生の振り分けから一般人の日常の思考法まで左右することになったわけです。

そこで肝心の法学部の話。全国に9つの法学部が設立されたが、パリの法学部は、すべての学問領域の大学生総数の4分の1を占めた。19世紀フランスの知的エリートの頭脳を学問的に方向づけた制度設計といえる。ある証言によれば、法学部の学生は医学部の学生とは一目で見分けがついて、法学部のほうが小綺麗で金持が多かったとか(バルザックの登場人物なら医者の卵のビアンションを思いだす)。卒業までに3年をかけて4回の試験を受けるのだが、授業は日に1時間か2 時間(フローベール『感情教育』のフレデリックがいい例だけれど、なるほどこれなら人妻のために時間を割く余裕はたっぷりある)。法学部出身者は司法・行政職に就くのが本来のコース。とはいえポストはかぎられていた(『ペール・ゴリオ』でラスティニャックを誘惑するヴォートランの台詞を借りるなら「フランスには検事長は20人しかいないが、その官職をねらっている奴は2万人もいる」というわけ)。結果として「国民文学」を代表する作家たちも、作品に登場する男性たちも、圧倒的な割合において、かつてパリの法学部に通ったという経歴をもつことになりました。

ちょっと気になるので、文学部も調べておきましょう。当時の文学部は、もっぱら教員養成機関とみなされており、学生数は少なく、しかも組織が全国に分散されていた。パリに文化の拠点があった19世紀、そういわれれば文学部で学んだ小説家とか、登場人物とか、思い当たりませんね。なにしろ1814-1815年度、ソルボンヌ大学に属する文学部の学生数は、わずか70名です。ただし歴史家ギゾーや哲学者ロワイエ・コラールなど、有名教授がソルボンヌの講壇に立てば、男性のみからなる聴衆がわんさとつめかけた。

わたしの世代の日本人が普遍的なモデルとみなしてきた「文学部」がいつ成立したかというと、世紀末に「歴史学」が勝利をおさめたのち、その後塵を拝するかたちで、古典から近代までをあつかう「実証的文学研究」がアカデミックな基盤を獲得したのです。今になってみると、わたしたちが大学院で習った「フランス文学史」は「共和国の歴史」によりそったものでした。19世紀には、皇帝も、王さまも、父親も、司祭も、神さまも存在した、徐々に何かが変わってゆくのはたしかだけれど――そんなことを考えながら「国民文学」を読みなおしているところです。

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ところで法学部出のエリートたちはどうなったかというと、ジュール・フェリーやワルデック・ルソーなど、第二帝政期には反体制の文筆家として活躍した法律家・弁護士たちが、第三共和制を立ちあげた政治家グループの主流です。この構図が塗り替えられるのは、両大戦間。1924年5月、左翼連合が躍進した総選挙の結果をうけて、ロンドン駐在フランス大使が、こんな台詞を口にしたそうです――「法学と政治学に高等師範学校が勝ちましたな」。アルベール・ティボーデが『教授たちの共和国』La République des Professeursという名著を書くきっかけとなったエピソードです(昔の文学部ではティボーデの『フローベール論』は必読書でしたけれど、時事問題への発言など視野にも入れなかった。それにしてもこの洒脱で高級な著作、きちんと理解するのは大変そう)。

1924年の選挙結果はじっさいの議員数としては、大学と高校の教授と小中学校の先生の合計が10パーセント弱、法律家・弁護士は27パーセントですから、法学部出はそれなりに健闘してはいるものの、全盛時代は終わったということなのでしょう。急進社会党内閣が成立し「左翼知識人」と呼ばれる種族がフランスを牽引することになる。第二次世界戦後、日本の知的エリートが信頼と共感をよせてきたのは、戦間期フランスで誕生したこの「教授たちの共和国」だったといえそうです。

長くなりますが、本日は頑張って、その後日譚まで。ピエール・ブルデュー『国家貴族――エリート教育と支配階級の再生産』という分厚い2巻本の翻訳が刊行されました(立花英裕訳、藤原書店)。趣旨は副題からも読みとれますが、検討の対象はエリート養成機関「グランドゼコール」Grandes Ecolesで、調査の時期は1960年代から1980年代にかけて。ご存じのように、前段で名の出た「高等師範学校」Ecole Normale Supérieureは「大学」ではなくて、「理工科学校」Ecole polytechniqueと同様に、ナポレオンが強力に組織化した伝統ある「グランドゼコール」です。

今日では「高等師範学校」「理工科学校」出身の共和国の秀才たちは凋落し、官僚や実業家として国家の最上部に君臨しているのは「国立行政学院」E. N. A.や「高等商業学校」H. E. C.など、新興の「グランドゼコール」出身者たちであるといわれます。フランス通にとっては常識かもしれませんが、ブルデューは1989年に『国家貴族』を刊行して圧倒的な迫力でそれを論証した。ここは立花さんの「訳者あとがき」に依拠しつつ、ひと言でまとめてしまいますが、新しいエリートコースを構築したのは、過激な共和主義理念を警戒する「カトリック系ブルジョワジー」だというのです。

ブルデューは、それぞれの学校を個別に調査して、親の職業と得意科目の相関性とか、講演会に来てほしい著名人とか、共感をおぼえる思想的潮流とか、読書リストとか、膨大なデータを解析する。新しいエリートコースが好んで教材にしたり入試に出題したりする作家名の一覧は、わたしたち「外国」の「仏文科」が半世紀以上も信奉してきた「推薦図書リスト」とは、まったく違う! だからって困惑しているわけじゃなくて、事実そのものが面白いわけです。ブルデューの描く「国家貴族」たちが自分の信条を「カトリック思想」と名指すとき、その内実がなんであるのか、シャトーブリアンをどんな風に読んでいるのか、しばし茫然と考えこんでしまいました。

この頃の若者はヨーロッパを冷めた目で見ているなどといわれますが、フランスの大知識人に熱いまなざしを送った戦後世代と同じだったら、それこそ困ります。それにしても、ヨーロッパ近代をしっかりと批判的に読むことで現代世界が見えてくる。これは羽田正さんも『新しい世界史へ――地球市民のための構想』で指摘しておられること。ブルデューが『国家貴族』で分析した資料は、30年か40年も前のものだなどと、おこがましいことをいうまえに、まず一時代の重みをずしりと感じさせる本として読んでほしい。教育学や社会学だけでなく、歴史や文学を専攻する人たちも。教育システムが結局は大学に収斂し、一本化されてしまっている日本を客観的に考察するためにも、大きな文脈と外部の視座が役に立つだろうと思うのです。

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ライシテ、その後

2010年 7月 19日

このサイトは、当面、放送大学の(潜在的)学生さんがターゲットと考えています。一見むずかしそうな「政教分離」は、いわば「大学院ネタ」と位置づけておりまして、じっさい文化情報学プログラムの「異文化の交流と共存」という科目を履修した人が、関心をもつ研究テーマの一つではあるようです。

フランス式の「政教分離」を「ライシテ」といいますが、右に掲げた新刊書(3月刊行)、反応はどうかといえば……日本では、まずメディアの関心がアメリカにむかっているし、おそらくは宗教が緊急の検討課題だという意識も低いため、一般の読者には、なかなか原理原則をめぐる議論を届けにくいと実感しています。伊達聖伸さんとのコラボ-レーションで、注や用語解説や訳者解説など、ずいぶんと工夫したつもりではあるのですけれど。

それはそれとして、歴史や宗教学の分野からは、書物の誠意と訳者たちの努力を評価してくださる声がとどき、先日は、さる法科大学院の憲法ゼミで、この本の書評会がありました。法学部の研究者たちからお招きを受けたのは、生まれて初めて。とても新鮮で、励みになりました。そこで名前の出たフランスの政治学者セシル・ラボルドCécile Labordeのことを、本日はご紹介します。

ラボルドは、オックフォードで学位をとり、現在はロンドン大学の教授。すぐ入手できる音声資料はCharles Taylorとの対談(2009年5月、ダウンロードは
http://www.repid.com/Charles-Taylor-Conversation-avec.html)。議論がかみ合っており、じつに面白いです。ご存じのように───とは、残念ながらいえないかな───チャールズ・テイラーは「多文化主義」の論客であり、ケベックの「インターカルチュラリズム」の旗頭でもあります。

アングロサクソン系の国々の大方は、多文化主義と寛容の精神という二本柱で異文化の共存は可能だと考えており、フランス共和国のラディカルにして困難な「ライシテ」の実践を、冷ややかに見守っている。ラボルドはイギリスにいて、彼我の政治文化を知りつくし、英語圏・フランス語圏の読者を念頭においた政治理論を構築しています。

畑違いのわたくしも、ルネ・レモンを訳したおかげで、ちょっぴり「リーガルマインド」にめざめた感がありまして、2008年9月16日La Vie des idéesに掲載されたラボルドの「処女性とブルカ:非良識的な妥協」(Virginité et burqa : des accommodements déraisonnables ?)という文章には、たいそう啓発されました。そこで筆者のとりあげる、ふたつの事例とは:

① 通称「リール事件」───女性が処女であると偽って結婚したことがわかり、裁判所が結婚の「取消」を認めた。
② 通称「ブルカ事件」───外国籍の若い女性が、みずからの宗教的な信念をラディカルに実践し、フランス的な価値、とりわけ男女平等の原則を尊重しないとみなされて、国籍の取得を拒否された。

ご想像のように、いずれも当事者はムスリムの女性。フランスにおける世論は圧倒的に②を支持し①を批判したそうですが、皆さんは、どうお考えになるでしょう?

①の判断は、フランス共和国の司法が、処女性を結婚の「本質的要件」qualités essentiellesとみなすイスラームの価値観、すなわち「シャリア」の判断基準を導入したものであるから、大反対。②の判断は、当事者の過激なイスラーム信仰が「フランス的な価値」と相容れないのだから、当然もしくは仕方がない。これが、一般的な反応のようです。さて、セシル・ラボルドによれば:

① まず確認すべきは「ライシテ」が、公的な領域に関わる原則であるという事実。ところが結婚は、まさに当事者間の「私的な契約」であり、その「本質的要件」は個人の判断にゆだねられている。問題のケースは、性的経験を過去にもたぬ者同士の結婚が望ましいという点について、当事者の男女が合意して結婚したところ、女性が虚偽を述べていたことが判明し、男性が結婚の「取消」───「離婚」ではない───を申し立て、女性も「取消」という決着を望んだところから、裁判所の裁定が下された。

ちなみに、フランスで結婚の「取消」に相当するとみなされる「要件」とは、過去の離婚歴や性的能力の障害について相手に虚偽を述べることなどだそうですが、考えてみれば潔癖な当事者同士が、過去の性的な経験を、こうした「要件」の一つとみなして「契約」することを禁じる法的根拠は、どこにもないわけです。つまり司法の判断は、厳密にフランスの法にしたがってなされたのであり、イスラーム法とのすり替えだと騒ぐには及ばない。ということになります。

② ブルカの着用や厳格なイスラーム信仰が、フランス共和国への「適応不足」assimilation insuffisanteを証明するものであるとする主張は、充分な論拠をもたない。また男性と女性は能力において対等ではないと個人が考えることにも、違法性はない(そもそも性差別をする人に国籍を拒むなどという国がありますか?)。つまり、②の判断は、法的裏づけを欠いている。

ずいぶんと乱暴なまとめ方をしましたが、セシル・ラボルドの指摘は、正しいと思うのです。異文化共存という課題には、宗教にかぎらず、しばしばジェンダーの問題が絡みます。かつて植民地において、「文明人」になりたければ、「ヴェール」を脱いでイスラーム信仰を捨て、「男女平等」を高らかに謳いなさい、と女性たちに説教したフランス共和国の「パターナリズム」───「解放」という名目で、自らの価値観を押しつける抑圧的な介入───と無縁ではないものが、これらの事件をめぐる議論には、混入しています。

わたしが独り腹を立てている問題がありますので、ついでに書いておきましょう。どう見ても「スカーフ」の形状をしたものが、いつのまにか「ヴェール」と呼ばれるようになり、このところvoile intégralという呼称まで、公用語のようになってしまいました。「ヴェール=隠蔽するもの」というコノテーションは「オリエンタリズム」の長い歴史にかかわっており、そのうえintégralには「原理主義」への暗示が密かにまとわりついている。こうした語彙の運用は、無意識のうちに負のイメージを刷り込むという効果をもっています。言語的な感性を大切にしたいと思う者にとって、これは危険な「まやかし」です。

要するに、セシル・ラボルドのように、「ヒジャブ」は「ヒジャブ」と呼べばよい。このフランス人研究者に、わたしが敬意をおぼえるのは、ジェンダーの意識が覚醒していることはもとよりですが、フランスの共和国原理とアングロサクソンの多文化主義、その折衷型とみなしうるケベックの先進的な試みなどを、いわば等距離で視野にいれ、国際的なスタンダードで発言しているからです。ちなみに、ご紹介したエッセイの副題、「非良識的な妥協」ってなんのこと? とお思いの方。このサイトに掲げた「フランスの政教分離」をご一読くだされば、ケベックの「良識的な妥協」« accommodements raisonnables »のもじりであることが、おわかりなるでしょう。

頼もしいことに日本でも、さまざまの学問分野で、宗教と政治、あるいは宗教と社会の問題に関心をもつ若い研究者がふえているようです。どうぞ野心をもって、グローバルな展望で考えることに挑戦してください───わたし自身は、もう「時間切れ」の引退ですけれど。

ややこしい話が長くなりましたので、この辺で、放送大学に回帰して、以下は「公開ゼミ」での出会いから得た知識。イギリスで、こともあろうに(?)カンタベリー大主教が、司法の現場で「シャリア法」を導入することに賛成し、これに対してメディアが扇情的な批判の論陣をはるという出来事が2008年にありました。フランスのケースと、どこが似ていて、どこが違うのか……。

ご覧のように、教育の現場というのは、教員にとっても刺激的で勉強になるのです。立場は非常勤ながら、そうしたわけで、しばらくは、大学院の指導なども、つづけたいと考えております。

さあ、今年は何十年ぶりかで、会議から解放された夏休み!

「政教分離」とは、がらりと趣が変わり、「コレット三昧」のヴァカンスです。秋に東急文化村で公開される映画のこと、コレット・コレクションの翻訳のことなどは、次回に。

hpim2417 K.NAKATA

読書エッセイ:ジャン・ボベロ『フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史』

2009年 7月 6日
j.boberot_quesaisje? 三浦信孝/伊達聖伸訳、
白水社「文庫クセジュ」2009年5月

ついに、というべきか、ようやく、というべきか、第一線のライシテ研究者の著作が紹介された。フランスは、第二次世界大戦終了とともに誕生した第四共和政の憲法で、「社会的ライシテ」に基づく国家であることを宣言し、公教育は「ライック」であるべきことを謳っている。昨今も、公立学校におけるムスリム女子生徒のスカーフ着用から「政教分離法」百周年まで、関連の話題がメディアを賑わし、国民的な議論を呼び、圧倒されるほどの学問的成果を生んでいる。「ライシテ」を知らずして「共和国」を理解できるか! と啖呵を切ってみたくもなるのである。

1941年生まれの著者ジャン・ボベロ氏は、フランス国立高等研究院EPHEで「ライシテの歴史と社会学」の講座を1991年に立ち上げて教授を務め、同研究院の院長などのアカデミック・キャリアを積んだのち、現在も国内および国際的な研究交流、宗教・文化政策にかかわる諮問委員、社会的な発言、ひんぱんに更新されるブログなど、八面六臂の活動をつづけるかたわら、毎年のように新著を上梓しておられる。

昨年の秋に来日されたとき、しばしご一緒する機会をもったが、表参道の街を歩きながら、ありとあらゆることを話題にし、骨董通りでは念願のコスプレ少女を見かけていたく満足し、レストランでは大盛りのアルザス料理をまえに健啖家ぶりを発揮された。これがポジティヴな知性、プロテスタントの感性というものであろうか、と――勝手なつぶやきにはちがいないけれど――大いに納得したのである。そのときの印象が、入手したばかりの書籍『インターカルチュラルなライシテ―ケベックこそフランスの未来?』Une laïcité interculturelle : Le Québec, avenir de la France? の威勢のよい文体とシンクロナイズした。これを一気に読みあげたせいで、わたしはケベックという新しいテーマ、そしてフィールドへの眼差しという社会学的な手法に目覚めてしまった。

さて本題だが、「クセジュ文庫」におさめられた『フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史』は――そうした個性がにじみでるというよりはむしろ――碩学の気迫がこもる基本書である。記述は凝縮されており、初心者が流し読みするのには、やや密度が高すぎると思われるかもしれないが、幸い親切な訳注がたっぷりとついている。じっくり読むべき入門書、一字一句が信頼に値する参考文献と定義しておこう。

「政教分離」séparationとも「世俗化」sécularisationとも異なる「ライシテ」laïcitéとは何か? 語彙の現代的な意味が定着したのは、第三共和政になってからだが、事の起源はフランス大革命にある。すなわち「人権宣言」に「良心の自由」が掲げられたときから、個人が信仰を実践する権利を保障するための枠組みを、国家がいかに提供するかが問われてきたのだった。

ジャン・ボベロは、その経緯を三つの段階に分けて分析するのだが、山場は1905年のいわゆる「政教分離法」にある。見取り図そのものは、Amazonで検索すれば500件以上ヒットするライシテ関連の出版物の大方に共通するものだろう。19世紀が、「フランス革命」をひきつぐ近代化路線と「カトリック教会の長女」への復帰という対立する選択肢のあいだで揺らいでいたのに対し、20世紀の幕開けと同時に、いわゆる「二つのフランス」の力関係に結着がついたという見方である。

歴史家ボベロの展望として特徴的なのは、「政教分離法」の準備段階でイデオロギー闘争が頂点に達したとき、アリスティッド・ブリアン他の法案起草者たちは、アングロ=サクソンの例を参照しながら、(宗教施設の財産を譲り受けることになる)「信徒会」の条件を検討したという事実に、ハイライトが当てられていることだろう。いわく――「ライシテをフランスで確立することができたのは、外国からの借用のおかげなのだ。共和国モデルを修正するアングロ=サクソン政治文化の要素が持ちこまれているのである」

コンパクトな著作ではあるが、1905年法が適用されてゆく過程こそが「ライシテの確立」に当たる、という後半の論述に紙面がさかれ、歴史の流れと具体的な政策転換が丹念に説明されていることも指摘しておこう。この1世紀、いくたびも論争が再燃し、とりわけ公立・私立の学校制度に関する新しい法律が導入されて、今日なお、イスラム教徒に対していかに「良心の自由」を保障するかという課題をかかえたまま「開かれたライシテ」が模索されている。

ところで1905年法を憲法に準じる特別な立法とみなし、そのテクストが字義通りに実施されることを求める「ライシテ原理主義」というものが存在する。メディアは単純な構図を好むから、スカーフ論争のときにも、そうした強硬派の声はひときわ大きく響いたのだった。これに対して、ジャン・ボベロの著作は、「ライシテ」が明文化された理想ではないこと、それは1世紀にわたり蓄積された法解釈に基づき、現場の変化への柔軟な対応のなかで運用されるべき「原則」であることを示唆しているのである。

スカーフ論争の時期のあるインタビューで、ボベロは、あなたはルネ・レモンと同じくクリスチャンであろう、と問われ、同じ宗派ではないが、と答えたうえで、さらに自分はプロテスタントとして発言しているのではない、あくまでもライシテ研究者としてふるまっている、と念を押している。

それはそれとして、同じ「クセジュ文庫」のために『世界のなかのライシテ』Les Laïcités dans le monde を執筆し、「世界ライシテ宣言」を起草してその署名運動まで行ったジャン・ボベロに、宗教社会学者として独特の姿勢と視野の広がりがあることはまちがいない。プロテスタントを研究対象とする著作から出発したボベロは、「ライシテ」の分析が共和制を理解する大前提であることを認めつつ、一方では、フランス共和国の内部に議論を閉じこめてはならないと考えており、その決意と旺盛な知的関心が、多様な活動の原動力にもなっていると思われるのだ。

教皇庁を頂点として聖職者がピラミッド型に組織され、教義の細部までが統一的に管理されたカトリック教会と、いってみれば群雄割拠のように新旧の大陸に展開されてきたプロテスタント系の諸教会との、本質的な相違のようなものが、おそらくはボベロの思考の基礎に組みこまれているのではないか。そうした特質は論述の細部にも見てとれるし、グローバル化の時代の欧州連合までを射程に入れた、この小振りな書物のスケールの大きさにもつながっている。

現代フランスの思想と政治文化に通暁した三浦信孝さんと、ジャン・ボベロのもとで博士論文を提出した若手研究者、伊達聖伸さんとのコラボレーションによる、この貴重な書物の出版を、心から嬉しく思う。と同時に、これはライシテ関連の翻訳書「第1号」であることを強調し、考えてみれば、むしろ遅まきのスタートであろう、といいそえておきたい。

このところ、大学の人文科学の分野では、宗教をめぐる学際的な研究テーマがCOEや科学研究費を基盤に着実な成果を挙げており、シンポジウムなども盛況であると聞く。しかしキャンパスを一歩でたとき、一般の読者の関心はどこに向けられているか。キリスト教世界にも、日本にも、宗教の問題はもはやない、イスラムの主張に耳を傾ければよい、といった短絡的な了解が、出版の世界にも流通しているのではないか。

さてわたし自身は、いかにも遅まきながら、すでに名を挙げたルネ・レモンの翻訳を、当面の課題と考えている。カトリック信仰をもつことを表明した歴史家は、対カトリック戦略として当初に構造化された「ライシテ」を、いかなる視点から捉えているのだろうか。これもまた、議論を共和国原理の外部へと開いてゆくための、そして宗教と社会の関係をマクロな文脈に位置づけるための、ひとつの道筋になろうかと思っているのである。

白鳥

K.NAKATA

初夏の夕暮れと永遠の半過去

2009年 6月 7日

éternel imparfaitの背景となっている空は、パリの曙。ではなくて、黄昏です。そして、わが空想のパレットでは、黄昏の薔薇色はコレットの色…。

暮れなずむ春の空、という表現は、日本語にもありますけれど、緯度の高いフランスの初夏の夕暮れは、名残惜しげな薄紅の雲が地平線にたなびいて、というような、そんな生やさしいものではありません。空いっぱいに透明な光が満ちるのです。そして、雨燕がさえずりながら宙を斜めに切っている。

éternel imparfaitは「永遠に未完成なもの」とも読めるけれど、じつはフランス語の時制。というところまで、先回にご説明しました。「半過去」imparfaitには、いろいろなアスペクトがありますが、そのひとつは、訳せば「…したものだった」となる。つまり英語ならwould とかused toという言い回しに当たります。

フロベールの小説では、この半過去が、それこそ延々と、果てしなくつづき、その連なりが独特の「悲哀」をかもしだすのだということを、プルーストが指摘して、これをéternel imparfaitと呼んだのでした。それをうけてナボコフは、フランス語に独特の、この時制があってこそ、ボヴァリー夫人の日常の反覆感や倦怠感が造形されると述べています。ロマネスクな出来事がなにひとつおきない結婚生活への失望は、あれこれと説明される以前に、「永遠の半過去」にささえられているという話。

ところでバルザックとフロベールを距てるもの、それはカトリック信仰ではないでしょうか。『ランジェ公爵夫人』の場合、愛しいひとを救出するために男が僧院の房室にしのびこむと、そこには恋に焦がれて息をひきとったばかりの修道女の遺体が横たわっている。あっけにとられるほど都合のよいオチなのですが、著者はそんなことに構ってはいない。終幕に「神は結末をつけ給う」というタイトルをつけて、平然としています。

エンマ・ボヴァリーの死は、「神に結末をつけてもらえない」ヒロインのそれであり、これはヨーロッパの歴史のなかで、新しいものなのです。「真理」あるいは「超越的な存在」へと昇華してゆくはずのない時の流れ、そこで凡庸な愛を生きなければならない女性の不幸。フロベールは、そうしたことを延々とつづく灰色の半過去に託したのでしょう。

それは無神論ではありませんし、たんなる宗教離れでもありません。フランス革命をへたヨーロッパでは、絶対的な「真理」とむすばれる「信仰」とは異なる次元に、相対的な「知」の対象である「宗教的な事象」fait religieuxという問題系がいっせいに浮上するのです。制度的宗教としてのカトリック、その批判である「反教権主義」、エンマにも濃厚に兆候があらわれる「宗教感情」という現象、等々が、教会に通わなくなった知識人たちの一大テーマになってゆく。たとえばミシュレ、フロベール、ゾラ、モーパッサン。

三島憲一氏が「大航海」(No.71「終刊号」だそうです…)の論考のなかで、ナポレオン戦争の終結後、ヨーロッパでは「再キリスト教化」の大きなうねりがおきたと述べておられます。トーマス・マンの小説やヴァグナーの信仰回帰に対応するフランスの例があるはずで、いずれにせよ、この200年、諸国民は宗教の軛から解放されて世俗化への道を邁進してきたのである、などという明快な物語はウソに決まっています。

そんなことを、いずれ書いてみたいと思っているのですが、とりあえずは、「政教分離」と「ライシテ」にかかわる小さな本を苦労しながら翻訳しております。著者ルネ・レモンは、カトリックの信仰をもつことを表明しつつ政治史・宗教史・現代政治などの分野で幅広く活躍してきた、文字通りの碩学です。この歴史家の展望が新鮮に感じられるのは、あえて単純化していえば、宗教の側に立つことにより、原理主義的な共和主義を相対化する、聡明な視座を確保しているからだと思います。

オバマ大統領のカイロ大学での演説(6月4日)には、くり返しコーランが、さらにユダヤ教のタルムード、そしてもちろん聖書も引用されました。その背景に、無限に大きな問題構成を読みとることができるのです。現代世界のプロテスタントとカトリックとイスラームが、それぞれの宗教をいかに政治的な文脈に位置づけているか、公的な場で宗教を可視化するマナーにはいかなる相違があるか、倫理的な判断と信仰の言説をいかに結びつけるのか、等々。

話は変わって、先月「新装開店」したサイト、おかげさまで好評です。「閲覧室」には評論集『砂漠論』の巻頭エッセイがあらたに掲載されました。論文抜刷『フランスの政教分離』に関しては、ケベックを研究しておられる方々から心強いお便りをいただきました。秋には何か面白い企画が立ちあがりそうな気配です。

つづいて「ICT活用教育」――放送大学の「外国語学習と異文化理解」のサイトには、面接授業の共通教材にベトナム語が登場。韓国語、ドイツ語、フランス語につづく、4つめの「手作り教材」です。南関東のセンターにおける12カ国語の初修外国語とその新しいプログラムについては、2008年 12月 24日のエッセイ後半をご覧ください。

世田谷学習センターでは、柏倉康夫先生の主催する「国際問題研究会」が活動を始めました。放送大学の学生さんにかぎらず、一般の方々に開かれています。センターは東横線の学芸大学駅から閑静な住宅街を歩いて10分ほどのところ。宮沢賢治の世界のような、昔懐かしい校舎が気に入っています。緑濃い木陰のテニスコートもありますし、日曜の午後、知的健康管理のつもりでお気軽にどうぞ。

パリの写真は、鮮やかな「マンガ専門店」を選んでみました。Shadowboxを使っていること、お気づきでしょうか。クリックして鑑賞してください。

マンガ専門店

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