工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 論文(レポート)の書き方

書かなければ読めるようにはなりません

2009年 3月 17日

卒業の季節になりました。いつものことながら、あっという間だったなぁ、という感慨があります。学部の卒業研究はわずか数カ月、修士過程でも2年のお付き合いですから、ひとりひとりの歩みをじっくりと見守る余裕はありません。それでも、生涯学習を志す人たちとふれ合う醍醐味は特別のもの。ひと言でいえば、教育の原点に立つ歓び、ということになるでしょうか。

いろいろな学生さんがいます。唖然とするほどの読書家も、言葉を使うことは慣れているメディア関係の人も、論文を書くためには、やはり別の思考法、別の文体を求められる。コピーライターの人に、コピーライターみたいな文章は書かないで下さい、なんて不躾なこといっても、相手はオトナだから、ちゃんと意図を汲んでくださるようです。だいいち、そういう話は例外中の例外で、10人のうち9人は、長い文章を書くのは生まれて初めて、専門書は手にとったこともない、というところからスタートするのです。

わたしはミッション系の女子大、研究者養成機関でもある国立大学、そして放送大学、とそれぞれに特徴ある環境に身をおいてきたのですが、教育の手応えという意味で、率直に面白いのは、やはり生涯学習機関でしょうね。とにかくスタートの地点とゴールの地点では、本人のパワーが違う。

パワーというのは、たとえば文章力。さらに重要なのは、書かれたものを読む力。自分で書かなければ読めるようにはなりませんよ、というのは、わたしが放送大学の学生さんたちを励ますときによくいう言葉なのですが、裏を返せば、書いてみると、ほら、読めるようになるでしょう? という問いかけです。

映画好きの人は、文章を書いたことで「映画が見える」ようになったといいますし、多くの人が、霧が晴れたようにすっきりと「本が読める」ようになった、と述懐します。文章力と読解力が相乗効果で高まってゆくような回路を自分のなかに作ること。これを「知性のパワーアップ」と呼ぶことにしましょう。論文を書きおえた人が、ますます本気になって、生涯学習への意欲を高めていれば、わたしは教師冥利につきる、というわけです。

書けば読めるようになる、というのは、じつは、わたし自身の実感でもあります。教員としてのわたしは40代の後半に教養課程のカリキュラム改革に携わり、つづいて大学院重点化というドラマに遭遇しました。専門は○○です、とかいって、フランスの作家の名を挙げて涼しい顔をしていられる境遇ではなかったのです。文学以外の領域について謙虚に学ぶ、ともかく読んだことのない種類の本を読む、そのために何かを書いてみる、という20年来の習慣を、この先もずっと守ってゆきたいと思います。

そうしたわけで、ケベックとか社会学や政治学の研究書とか、この3カ月ほど「新大陸」でいささか途方に暮れておりました。そろそろ予備の学習は一段落。少しは読んだり書いたりのパワーが身についた、語彙が使えるようになったという気がします。次なる課題は「ライシテ」の基本書を1冊翻訳出版することですね。

ところで「ライシテ」と「文学」は、わたしにとって「二本立て」ではありますが、これらのテーマも相乗効果、お互いを刺激し合っているのです。「カトリック」を知ることでフロベールの宗教性や反教権主義が見えてくる。プルーストは「共和国」の作家であり、その小説には「ライックな感性」が読みとれる。。。

日本語力

2007年 12月 16日

「文体の苦患」などという日本語は見たこともないとお思いでしょうか。フランス19世紀の文豪フロベールが書くことの辛さを指していう言葉で、原文は affres du style―affresとは死ぬほどの苦しみという意味です。『ボヴァリー夫人』の作者は、よほど遅筆だったらしく、書簡には、「山をころがしているみたいに疲れた」「ペンは重たいオールのよう」「1週間に、5~6ページ」「1日7時間はたらいて、1月で20ページ」といった呪詛の台詞が書きつらねてあります。

わたしなどが愚痴をいってはいけませんね。すでに原稿用紙1万枚ぐらいの文章は書いているはずなのに、相変わらず失語症の患者のようにパソコンのまえで呻吟している自分が情けない。と、毎日のように意気阻喪しているのですけれど。

本年度開講した「世界の名作を読む」の講義はおかげさまで評判がよく、2学期になってますます履修者が増えました。成績評価は記述式で、これなら大学の文学のレポートとして恥ずかしくないという課題がならんでいます。もちろん教材の丸写しは不可。自分で考えて、自分の文章を書いてほしい。履修者の皆さんは、とても苦労しているようです。

ノウハウを教えてほしい、参考書ありますか? という質問が来ます。いちばんの「参考書」は、もちろん印刷教材ですけれど、あえて言うなら文学について書かれた上質の文章であれば、すべてが「参考」になるはず。求められているのは、まさに「日本語力」なのです。

文学の営みには、ノウハウなんてありません。だからフロベールは、シジフォスの神話のように苦しんだ。でも「日本語力」つまり「文章力」は、トレーニングして、鍛えれば、それこそ筋力のように、おのずと身につくのではないでしょうか。

放送大学に着任して4年目。大学院の学生さんたちを見ていると、つくづくそう思うのです。正直のところ、この人に原稿用紙100枚以上の論文が書けるのだろうか、と初めは思ったりもします。ところが、課題を出すたびに目をみはるほどに上達する人がいる。たいていは「文体の苦患」タイプの人です。つまり、自分で納得できないから、何度も何度も書き直して、やっぱりダメですよね、という顔をしている人。納得できないのは、もっとほかの書き方、もっと上質な表現があるはず、と直感的に見抜いているからではないでしょうか。

ところで「コピペ」をやる人、つまり借り物の断片をならべる人は、一見それらしいことを書くけれど、進歩しません。主語述語の関係さえ混乱しているのに、これで見栄えのする文章を書いたつもりになっているのだろうか! と添削しているうちに腹が立ってきたりします。

さて情報公開の意味も兼ねて、「世界の名作を読む」の採点システムについてお話しましょう。それぞれの担当章の先生方が、信頼のおける若手の研究者を紹介してくださり、その方たちの協力を得て、作業をしています。採点の原則を決め、疑問点はメールでやりとりし、最後に主任講師がチェックして印鑑を押す。採点協力者の方たちは、本当に誠実にコメントをしてくださるので、じつは、わたしが目を通しながら感心しています。

それにしても、自分で考えて、自分の文章を書くというのは、本当に大変なことなのですね。じつは今回、履修者はかなり増えたのに、通信指導問題を送ってきた人の割合は、相当に減少してしまいました。あまりに印刷教材の引き写しが多いので、大学生のレポートなのに、こんな要求をするのは恥ずかしいなあ、と思いつつ

印刷教材や参考文献の丸写しや抜粋のみからなる解答は不可とします。

と、設問に書き加えました。それで困った人たちがたくさんいたのでしょう。

なにしろ日本の国語教育は、考えて書く「文章力」の訓練をやってこなかった。さらに受験産業は、逆に思考力を圧殺するような、空疎な抜粋の技術ばかり開発してしまったのではないでしょうか。わたしたちが闘っている相手は、お粗末な教育制度であって、履修者の皆さんではありません。

じつは「丸写し」や「抜粋」でさえなければ――とりあえずは初歩的な「感想」であっても――不可にはせず、添削してお返しします。トレーニングをしなければ、筋力もつかない、というかむしろ衰えてゆく。たぶん「日本語力」も、そうしたものだろうと思いませんか?

大学のレポートって何?

2007年 7月 5日

「世界の名作を読む」の通信指導問題に関するコメントです。

1.印刷教材の丸写し、引き写し、抜き書き、等、要するに「コピペ」は不可!

残念ながら予想以上にありました。大学受験の弊害でしょうか、他人の口まねをして、言葉を引き写しておけば、なんとかなるという悪しき指導が、どこかでなされているのでしょうね。

① 大学で求められるのは、ひとりの大人として主体的に考えること。
② それが達成できるのは、言葉や文章が自分自身の思考の道具になったとき。

もちろん、これは容易いことではない。でも、これこそが教養教育の究極の課題ではありませんか。そのために履修者を個別に指導する態勢があるから、放送大学はカルチャー・センターではない、と言えるわけ。来学期の通信指導問題には――ちょっと恥ずかしいなあと思いつつ――「コピペは不可!」みたいなことを、設問の注意書きに添えることにしました。

2.「ですます調」ではなく「である調」で書く。

「文体」とは「考える姿勢」です。
「エッセイ」という注文であれば、あれこれ思ったことを楽しくおしゃべりするという調子で、ひっきりなしに「…と思いました」「…と感じました」とくり返すのも自由ですが、でも、やはり上手とはいえませんよね。

「である調」を使ってご覧なさい。背筋が伸びて、ちょっと頭が冴えた感じになるかもしれません。「世界の名作を読む」の設問は、原則として「誘導尋問」になっています。つまり答えのヒントやエッセンスは、放送教材と印刷教材のなかにあるのです。でも、丸写しはダメ。つまり「自分の言葉で書くこと」を心がけてほしい…。

3.要は、使用する「語彙」と書く「順番」の問題です。

教材もまた、それぞれの講師の「文体」で書かれていますから、一概には言えないのですけれど、まずはテキストをぐっとにらんで講師の考えていることを読みとってください。

① 設問に対する解答として、ここがエッセンスだと思うところはどこですか?
② その前後には「立論」が、つまりエッセンスを補強するための議論や例証がありませんか?

さて、あなたと講師とは別人格。同じ語彙を使って同じ順番で思考するはずはありませんよね。そこで『「引用の技」と「ふまえる」こと ― レポートの書き方』(2007年5月3日)をもう一度読んでみてください。大原則として、エッセンスとキーワードは「引用符」つきで引用すること。

わたしの提案する「練習」は、たとえば、こんな感じです。レポートの冒頭に印刷教材のエッセンスをもってきて、なぜなら、という立論部分を、順番を入れ替えたり、例証を付け足したりして書いてゆく。そして各章に添えられた作品の引用などを利用して、自分自身の解釈をつけ加えられたら、ほぼA評価ですね! もちろん、この順番は、いくとおりもある順番のひとつにすぎません。

4.A評価の絶対条件は日本語です。

日本語は、独りよがりで、主語と述語の関係がずれたりして、論理が迷走していても、なんとなく、読めてしまいそうな気がする言語であるようです。気取った「名文」のつもりらしい不可解な「迷文」との闘いは、しばしば修士論文の指導でもつづくのですが…。

「構文がわかりません」「意味が不明瞭」などという赤字が書き込まれた答案を受けとった方、自戒してください。まずは短く明快な文章を書くこと。短い文章が書けない人に、粘り強い文章が書けるはずはありません。

それにしても文学のレポートはむずかしい。一つの設問に一つの正解があるというよりは、むしろ設問について考え、書く力があるかを問われているのです。「AかBか」という設問があったとき、「どちらとも言えない、なぜなら…」と答えることもできるでしょう。繊細に思考するプロセスそのものが、文学のレポートの課題です(わたしの話は結局むずかしくなりますね。反省…)

「引用の技」と「ふまえる」こと ―― レポートの書き方

2007年 5月 3日

「世界の名作を読む」の履修者は、学期半ばの通信指導問題が気にかかりはじめたころでしょう。あまり深刻にならず、ナボコフ先生やナフィーシー先生の講義に参加していると想像してみたら?

あなたも「良き読者」になってみましょう。教材はそのための手引きです。
ただし。作品を読むだけでなく、大学のレポートを書くことが、あなたの課題であるはず。講義を聴いて教材を理解したことを示してください。

1.カギ括弧が引用のマークであることはご存じですね。作品や教材や参考文献にあるキーワード、あるいはこれぞと思う言い回しや文章を、括弧つきで引用してメリハリをつけましょう。

2.どの文献の引用であるかを明記することは、基本的なマナーですが、本文中に書く、括弧に入れる、注にする、さりげなく示唆する、等、さまざまの方法とコツがあります。

3.長文の引用は論文執筆には欠かせない技法です。たかが千字ぐらいのレポートや答案では無理ですが、文献の重要な一節を10行、20行と引用することもあります。その場合、改行してさらに1行空けるなどの視覚的な差異化が必要です(このサイトでは、さらに左に2字分の余白を置いています)。

4.いちばん大切なのは、語彙にせよ、言い回しにせよ、節にせよ、引用が論者の思考の流れのなかで活かされているかどうかということ。この話は、深入りすると卒業研究や大学院の論文指導になってしまいそう。引用の技を習得することは、人文学の究極の課題のひとつとさえ言えるのです。

5.あたりまえのことですが、引用のマークがないところ、つまり地の文は「まる写し」ではないというのが、執筆の礼儀です。自分の言葉で書くようにつとめましょう。

6.「ふまえる」ように指示すると、印刷教材のあちらこちらを抜粋してつなげただけの答案が時々でてきます。ひょっとして、どこかで、そんな愚かな指導がなされているのでしょうか。

あらかじめ宣言しておきますが、「コピペ」は「不可」です!