工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for バルザック

若者よ、本を書こう!(その1)

2008年 3月 1日

研究者たる者、紀要論文以外は書くべからず、商業誌などに寄稿して品格を疑われるような軽挙は慎むべし、と指導教授に厳命されている若手もあると聞きますけれど、わたしの人生観はこれまでも、どちらかというと破壊的でした。あえて「若者よ、本を書こう!」という企画を立ち上げます。まずは3月刊行予定の著作の「後記」から抜粋を。

若手研究者が自力で小さな本を刊行できる媒体をつくりたい。何を夢のようなことを、といわれるだろうけれど、教授たちが若者たちのまえで人文科学の低迷を嘆いてみてもはじまらない。それよりは、何でもいいからやってみよう、というだけのことだ。

状況をさぐろうと日本学術振興会の出版助成の申請書類を入手して、呆然とした。対象となるのは、COEや大型科研の共同研究を背景とした論文集か、さもなければ大教授の筆になる重厚な専門書だろうか。それも出版社が確定して全面的に協力するというのでなければ、こんな複雑な書類など書けない。小振りな課程博士の論文を書いただけで、「つて」も実績もない若者が、不況に悩む出版社を説得し、さらには「本刊行物が学術の国際交流に対して果たす役割」などという書類の項目を埋められるものか、考えていただきたい。

そこで、経緯ははぶくが、放送大学の学長裁量経費から出版助成を醵出していただいた。申請書には「出版に協力する用意のある編集者・デザイナー・印刷製本業者のネットワーク、書籍作りのノウハウ、助成金の可能性を前提としたコスト計算の方法、等、〈書物の構想から出版までのトータルなモデル作り〉を行う」と書いた。その意図に偽りはない。

じじつ、本を作るための経費の計算法や、デザイン性のある本を低コストで作る手法など、いろいろと小柳さんから知恵をさずけてもらっている。ここにも呆然とするような数字の話は少なからずあって、やはり決め手となるのは発行部数、つまりマーケットで獲得できる読者数であるらしい。それゆえ、この本が物理的にも造本のモデルになるとは考えないでいただきたい。とりあえず手順の感触は得られたが、次なる課題はコスト・パフォーマンス。原稿用紙換算で200枚から250枚ていど、新書版の学術書という構想が芽生えている。すでに職場の若き同僚たち、教え子世代の研究者たちに声をかけはじめているのだが、この先は「現物=原稿」が出てこないことには話が進まない。

編集者の小柳学さん、ブックデザイナーの鈴木一誌さんとは、長いお付き合いになります。お二人のお力添えで、東京大学在職中に『Résonances』、放送大学では『Open Forum』という学生論文集を創刊したのですが、このときの人間のネットワークをさらに発展させようというのが、今回の企画です。

「隗より始めよ」の精神で、著書を1冊、『ランジェ公爵夫人』と同時に刊行します。バルザックの新訳は、ジャック・リヴェットの映画公開と同時刊行、わたしの評論集には書き下ろし「ランジェ公爵夫人」論が入る――というわけでいくえにも「あやかり」のイヴェント性を狙っていますから、いかにも「品がわるい」といわれそう。さらに。

たまたま年度末の発行というタイミングになりましたので、放送大学の学長裁量経費の予算執行に余裕があるかもしれないと思いつき、石弘光先生にご相談したところ、温かいご配慮をいただきました。なんてさもしいの、と叱られそうですけれど、大学の内部に出版助成の慣例を作るのは、研究環境の整備という意味で、ひとつの前進でしょう? それにまた、手頃な価格と美しいデザインのおかげで、一人でも多く読者の手に取ってもらえれば、それが書物の仕合わせというものでしょう?

本作りのノウハウとコスト計算、さらにはマーケットの仕組みなどを、書き手も理解しておくことで、さまざまの工夫ができるはずだと思うのです。小柳さんと相談しながら、おりにふれて具体的な情報を発信してゆきますが、とりあえずは自分の話。

「会社」ではなく、「編集者・デザイナー・印刷製本業者のネットワーク」で本を作ってもらったのは、初めてですけれど、とても新鮮な経験でした。著者印税はなし。出版助成金は50万円です。思わず手に取りたくなるような造本の書物を、定価は抑えて提供し、発行部数は大胆に。というわけで、わたしたちの「野心的で良心的」な経費の概要(見積もり)を、ここに公開します。シロウトが一目で理解できるようにと、小柳さんが作成してくださいました。そのまま若手の著書に当てはめるわけにはゆきませんけれど、ここから先が、工夫なのです…。

ちなみに評論集のタイトルは『砂漠論――ヨーロッパ文明の彼方へ』――前著『ヨーロッパ文明批判序説』の〈彼方〉を、例によって、いささか方向音痴ながら、迷走しつつ探索するという恰好の書物になりました。

工藤庸子著『砂漠論』刊行経費の概要
■造本
版型:A5並製 頁数:248頁 本文 4色×8頁 2色×16頁
■経費
印刷・製本代(紙代含む)
1,430,000円
文字組版代 (800円@1頁 800円×248頁)
198,400円
本文頁作成費 (200円@1頁 200円×248頁)
49,600円
出力費 (100円@1頁 100円×248頁×3回)
74,400円
訂正費 (100円@1頁 100円×248頁)
24,800円
造本装丁
120,000円
校正 (0.5円@1文字 0.5×132,000字)
66,000円
編集費 (1000円@1頁 1000×248頁)
248,000円
管理費(倉庫代等)
24,000円
打ち合わせ費
80,000円
小計
2,315,200円
消費税
115,760円
総計
2,430,960円
■助成金
500,000円
■著者印税
0円
■部数
2,500部
■原価(一冊あたり)
約772円
(経費-助成金)÷部数=
(2,430,960円−500,000円)÷2,500部
■定価 (原価の3倍とする)
2,300円

今、フランス語の教師であろうとすること

2007年 10月 20日

10月7日に芦屋大学で行われた日本フランス語教育学会のシンポジウムに参加してきました。「フランス語教育と人文・社会 <知>―L’enseignement du français et le « Savoir » des Humanités」というタイトルで、オーガナイザーは立花英裕さん(早稲田大学)。水林章さん(上智大学)、澤田直さん(立教大学)は学会の中心的なメンバー。外部から招かれたのが、内田樹さん(神戸女学院大学の、というより『下流志向』の、と紹介しましょう)。そして、わたし、という5名のパネラーでした。

学会メンバーの3名からは、どのような方法で人文科学や社会科学の「知」をフランス語の授業に導入しているか、具体例のプレゼンテーションがありました。現代ヨーロッパの時事的なテーマや身近な博物学的な風景を素材にした授業の方法が示され、初歩的な言葉の学習において、いかに異文化の固有性に迫ることができるか、という話題提供がありました。こんな授業を受けられる学生たちは仕合わせだなあ、というのが、わたしの感想です。

内田樹さんからは、「フランス語はなんの役に立つ?」という問いに現場の教師はどう答えられるのか、という問題提起がありました。じつのところ、消費者マインドを身につけてしまった若者たちと教師との困難な向き合いは、現代世界の縮図ともいえる。それは教育という営みに固有の問題というよりは、グローバル化時代の「自由主義」と「市場原理」の力学を再現しているからです。

もっとも消費者になったつもりの子どもたち、若者たちは、けっして「自由」に選択しているわけではありません。世の中に流通する「紋切り型」にしたがって「選ばされて」いるだけだということを、たとえばフロベールなどは、ちゃんと知っていたわけですが。

さて戦後日本の外国語教育の変遷を3つのステップにわければ、「文法・講読」から、「実用会話」の時代に、そして、今日、あらたに「知的」な路線が浮上しているのではないか。これも、あまりシンプルに図式化すると「紋切り型」になりますが、それにしてもNovaなどの巷の会話学校が、大学の語学にとって脅威になるという話も、このところ、あまり聞きません。

大学の外国語教育を脅かしているのは、何か別のものであるはず。学会に出席してみれば、教育の方法がますます洗練され、上質なものになっていることを実感できる。つまり他にいい商品があるから大学の人気がなくなるのではない。そうではなく、教育制度そのものが市場原理にさらされているのであり、この経済・政治・社会的なシチュエーションに、教員はもっと意識的であることが求められるのではないか ―― わたしはそんなふうに考えているのです(1991年、当時の文部省による教養教育の「大綱化」以来、カリキュラム改革のなかで、健全な市場原理がプラスに作用したことは確かなのですが、事はそれにとどまりはしなかった)。

3年半まえに「社会人」の教師となったわたしは、大学は社会のなかにあるという当たり前の事実に、ようやく目覚めたという気がしています。

1.「外国語はなんの役に立つ?」という問いに対しては、教師が実践的に学ぶ面白さを「見せる」のが正攻法。これはシンポジウムのパネラーに共通した了解でした。だからこそ、何があろうと、教育の現場は愉しいのです。それは議論の前提ですが。

2.「(役に立つらしい英語以外の)外国語を、なぜ学ばなければならないの?」という問いにも、教員は答えなければなりません。つまり「学ぶと色々面白いことがあるよ」というだけでなく、「学ばないと困ることになるよ」という立論。前者は、「自由選択」の科目を、後者は「必修」の科目を根拠づけることなる。いうまでもなく、これは開講数と人事ポストに連動する議論です。

3.わたし自身は、カリキュラム改革とそれにつづく「自己評価」「外部評価」を、まさに渦中で経験した世代です。当然ながら、これぞという立論はありません。それでも、ひと言。「評価」とは「作文」であり、「数値」の裏付けが必要です。現場を守るために、教員は制度的な戦略を身につけるべきでしょう。

4.「作文」は、大学の内部だけでなく、社会にアピールしなければなりません。大学が「市場原理」にさらされていることの脅威とは、まさにこれ。

追々、考えてゆきたいと思います。
今、フランス語の教師であろうとする人たちとともに。

*  *  *

今回はマジメな話ばかりでした。最後に余談を。じつは秋晴れの今日、ようやくバルザック『ランジェ公爵夫人』の翻訳二度目の作業を終えたところです(cf.「翻訳三昧」)。

“il n’y a que le dernier amour d’une femme qui satisfasse le premier amour d’un homme” つまり「男の初めての愛を満足させるのは、女の最後の愛」という意味の「捨て台詞」で終わる小説なのですが、やっぱり惚れましたね。翻訳の夢というものがある ―― ついにはテクスト(作家ではなく)と同衾して作品を夢に見たという感覚。

翻訳三昧

2007年 9月 10日

「ボヴァリスム」bovarysmeという言葉をご存じですか。人間は、自分の今のありようとは違うふうに自分を想像する力をもっている。Pouvoir qu’a l’homme de se concevoir autre qu’il n’estというのが辞書の定義です。言葉の由来は、フロベールの『ボヴァリー夫人』ですが、ヒロインのエンマは、貴婦人になった自分や、麗しの王子に熱愛される自分を想像し、現実への不満をつのらせてゆく。身のまわりの凡庸な風景への嫌悪とロマネスクな想像世界への逃避をともなう病的な症状を指し、心理学的な用語としても定着しています。

現実嫌悪は別として、小説を翻訳する醍醐味は「ボヴァリスム」の陶酔にあるのではないでしょうか。なぜなら「自分以外の者になる」ために、これほど確実な方法はない。わたしはもともと学問的な人間ではありませんから、頭を空っぽにして小説を翻訳しているときは、じつに愉しい。いちばん気分が昂揚するのは、なんといっても、女の啖呵を訳しているときです。メリメの『カルメン』より。

*  *  *

寂しい谷間にさしかかっておりました。私は馬をとめました。「ここなの?」女はそう言って、ひらりと地面におりました。そしてマンティーリャをぬいで足下に投げつけ、片方のこぶしを腰にあてると、そのまま身じろぎもせず、私をまじまじと見つめるのです。

「あたしを殺そうと思っているね。見ればわかるのさ」女は言いました。「占いに出ているんだもの。でも、あたしゃおまえさんの言いなりにはならない」

「お願いだ」と私は言いました。「理屈をわかっておくれ。おれの話を聞いてくれ! おきてしまったことは全部水に流す。だけどなあ、わかっているだろ、おれの一生を台なしにしたのはおまえなんだ。おまえのために、おれは泥棒になり、人殺しもやった。カルメン! 私のカルメン! あんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょに私の身も救えるようにしておくれ」

「ホセ」彼女は答えました。「おまえさんの話はできない相談ってものなんだよ。あたしゃもう、あんたには惚れてはいないんだ。で、あんたのほうは、あいかわらずあたしに惚れている。だからあたしを殺そうとしているんだろう。もうちっと嘘をつきとおしてみてもいいけどさ。でもねえ、わざわざそんなことをやるのも疲れちまったよ。あたしたちの仲はすっかりおわったんだ。おまえさんはあたしのロム[亭主]なんだから、おまえさんのロミ[女房]を殺したらいいんだよ。でも、カルメンはいつだって自由なのさ。カーリ[「ジプシー」が誇りをもって自らを指す用語]と呼ばれる女に生まれたんだ、カーリのままで死なせてもらいます」

「じゃ、おまえはルーカスに惚れているのか?」私は訊ねました。

「そうさね、あいつに惚れたよ、あんたに惚れたみたいにね、ほんのしばらくさ、それもたぶん、あんたのときほどじゃない。今じゃあ、なんにも好きでなくなったよ。おまえさんに惚れた自分も、つくづくいやになった」

私は女の足下にひざまずきました。女の両の手をとって、自分の涙でぬらしました。ともにすごした幸福なときを、ひとつひとつ思い出させようとしてみました。それで気に入るんなら、このまま盗賊でいたっていいとまで言いました。なんでもやる、そう、なんでもやる! この私を好いてさえくれるのならば! そうまで言ったのです。

女は言いました。「好いておくれったって、それはできないよ。いっしょに暮らしてくれったって、それはいやなんだよ」凶暴な怒りが私をとらえました。私はナイフをぬきました。女がおびえて、赦しをもとめてくれればよいのにと思いました。だがあの女は悪魔でした。

「最後にもう一度きくぞ」私は叫びました。「おれとやってゆく気はないか?」

「いやだ! いやだ! いやだ!」地団駄をふみながら女は言いました。

*  *  *

こんな台詞、ホントに言ってみたかったなあ……。そうつぶやいた瞬間には、ほとんどカルメンになっている、つまりse concevoir autre qu’il n’estなのですから、これは「ボヴァリスム」でしょう?

翻訳は夏休みに集中してやります。ピエール・ロティ『アジヤデ』のときは、まず旅行ガイドのような本をたくさん買い込んで、地図を広げ、まさに旅立ちの気分でした。

今年の猛暑はバルザックと「同棲」しておりました(というのが、わたしの不謹慎な用語)。本当に暑苦しい夏でした。『美しき諍い女』につづいてジャック・リヴェット監督が名作を映画化したものですが、来年の春、『ランジェ公爵夫人』が日本で公開されることになっており、その原作を文庫本で出版します。

小説の「野心」とはいったい何であったのか。あらためて考えこんでいます。修道院の構造とか、王政復古期の貴族階級とか、恋愛感情とカトリック教会のかかわりとか、フロベール以降の小説家だったら、こんな書き方はしないと言いたくなるようなページが、延々と、何十ページもつづくのです(「飛ばし読みのススメ」という「あとがき」を書こうか……)。

小説というジャンルは19世紀の半ばに分水嶺があって、そこで何かが本質的に変わってしまう。現代の視点からすると、バルザックの雄大な世界は、まさに「ハイブリッド」なのですが、もともと小説とは「何でもあり」のドラマチックな芸術ジャンルだった。フロベールはこれを一挙に純化して、審美的な形式に高めてしまったということなのでしょう。