工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 活動報告・告知

人生最初のサバティカル あるいは「ヒロインたちの死生学」について

2013年 10月 1日

本日は、9月のエッセイへの追加として簡単なご報告を:

『近代ヨーロッパ宗教文化論―姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』の書影を掲載します。ブルーは聖母マリアの色、帯は濃い目のローズ、と編集者とデザイナーがずいぶん工夫してカヴァーを作って下さったので、帯付きのものを。少しずつお便りが届いていますが、全体を読破して著作の意図を完璧に理解してくれたのは、まだ若手研究者ひとりだけ。みんな忙しいものね。でも、こういう形で焦らず諦めずに広報活動をしたいと思っています。おかげさまで『ヨーロッパ文明批判序説―植民地・共和国・オリエンタリズム』も、じわじわと読者が広がりました。

近代ヨーロッパ宗教文化論

『近代ヨーロッパ宗教文化論』の「あとがき」に予告したペロー『昔話』は佳境に入って、ブックデザインの段階です。是非にとお願いした鴻池朋子さんの表紙装画が素晴らしい! 思わずドキッとして、手に取ってみたくなること、まちがいなし。刊行は10月末。羽鳥書店とエスパス・ビブリオの肝いりで、11月22日(金)に、鴻池さんとトークセッションをやることになりました。近刊案内とイヴェント・リリースは以下のとおり(申し込みが始まりました)。鴻池さんの原画も掲載されていますので、とにかく見てくださいな。このアーティストの「狼頭巾ちゃん」がどんなに神秘的で、怖くて、可愛いか。。。
http://www.hatorishoten.co.jp/
http://www.superedition.co.jp/blog/2013/10/11-6.html#more

『近代ヨーロッパ宗教文化論』についても、すでに読んでしまった若手研究者とのトークセッションが予定されています。こちらは場所・日程など未定。

このサイトは放送大学の東京渋谷学習センターにリンクされていて、学生さんのアクセスもかなりあるようです。そこで、ついでの広報活動:
2学期の面接授業は、すでにいっぱいのようですが、「246セミナー」の最終回、来年の3月8日(土)に「文学と朗読と音楽」というゼミをやります。話題はペローが中心で、ミュージシャンの青年が特別参加。学習センターのチラシで確認してください。

*  *  *

2013年 9月 9日 

聖書でいうところのsabbaticusすなわち「安息日」だと思えば、ちょっと嬉しいですね。放送大学の学生指導はまだ1~2年つづけることになりそうですが、いよいよ来年の春からは制度的なストレスから完全に解放された日々が始まります。なにしろわたしが40代半ばで東京大学に着任したころの「研究休暇」にはルールも何もなかったし、語源であるところの6年働いたら1年休むなんて話は夢のまた夢。さかのぼれば30代のわたしは6人家族の食事をつくっておりました。朝は5合のお米を炊き、昼はラーメンを10個ゆで、夕食の自家製コロッケは30個! 今さら昔の家事のパワーに自分で感心してみてもしょうがありませんけれど。

20代に結婚や出産を経験しているから30代に6人家族になるのでありまして、結果としてわたしは長期休暇とも在外研究とも無縁な人生を送ってきたわけです。生活の感覚はむしろ、仕事や育児や高齢者介護のあいまをぬって放送大学で修士論文を書こうとしている女性たちに近いかもしれません。いずれにせよ一世代下の研究者、20代の後半から30代の半ばまで、数年はヨーロッパに留学して研究に専念することが、ほぼ就職の条件となっている若者たちとは「ワーク・ライフ・バランス」がまったく違う。だからこそ、この歳になって、いよいよサバティカル! という新鮮な感動を味わったりもするのでしょう。

もっとも、いま述べたようなことは、あくまでも個人的な事情。研究者・大学教師として一生お給料をもらってきた人間が、こんなことを言い訳にするわけにはゆきません。東京大学を退任する年に学位論文として上梓した『ヨーロッパ文明批判序説―植民地・共和国・オリエンタリズム』の続篇に当たる書物『近代ヨーロッパ宗教文化論―姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』が同じ東京大学出版会から9月20日に刊行されることになりました。ちょうど10年目、人生の節目でもありますし、一仕事したという実感を久々に味わっています。

内容については、このサイトでも折にふれてご紹介していますけれど、今回は構成について一言。四部からなる書物の「第Ⅰ部 ヒロインたちの死生学」と「第Ⅲ部 姦通小説論」はフローベール『ボヴァリー夫人』を軸として、バルザック、モーパッサン、プルーストなどを論じたものですが、長年の宿題であったシャトーブリアンの『アタラ』や『キリスト教精髄』を今回はようやく視野に入れることができました。「第Ⅱ部 ナポレオン あるいは文化装置としてのネイション」では、そのシャトーブリアンを中継として、ナポレオン体制における宗教政策と民法制定のプロセスを見てゆきます。「神の掟=カトリック教会」と「人の掟=民法」の調整役をナポレオンの側近として務めたのは、賢人ポルタリスでした。19世紀を通じ、いや今日も、社会と家族のありようや人の生死を律する道徳的な価値という意味で、聖と俗二系統の「掟」のつばぜり合いはつづいています。「第Ⅳ部 ライシテの時代の宗教文化」では、プルーストとともに、文化遺産として20世紀にひきつがれる宗教的なものについて考え、ジェンダー秩序の変容を射程に入れて幕となる――われながら盛り沢山だとは思いますけれど、論理的な思考の流れのなかで、避けて通れぬテーマや不可欠の議論を、可能なかぎりの誠意をもって組み立てました。いわゆるエッセイ集、論文集ではありません。

ここで話題はがらりと変わり、たまたま先日(9月6日)の朝日新聞に「葬祭学」が脚光を浴びているという記事がありました。「婚活」ならぬ「終活」なるものが、ブームになっているそうで。あらかじめ当事者が死に方や葬儀のスタイルまでをデザインし、家族など「旅立ち」を支える人びとも、定められた演出に参加する。そのために「知の技法」ならぬ「死の技法」を習得するのが「葬祭学」であるようです。

記事には宗教学者・植島啓司氏のコメントが添えられており、東日本大震災によって、避けられぬものとしての「死」に自然に向き合うという、価値観の揺り戻しがおきている、との指摘がありました。記事を読んだ印象からすると、むしろ人間の死がイヴェントとなり、ビジネス・チャンスと化してゆくように思われて、これで本当に「自然さ」や「人間性」が保証されるのだろうか、と疑問をおぼえますが、それはまあ、宗教学の責任ではないでしょう。

人の死の「イヴェント化」ということであれば、ヨーロッパでその兆しが認められるのは、19世紀の初頭です。長いあいだキリスト教の世界では、人の生死を管理するのは教会の役目でした。洗礼をほどこして信徒の台帳をつくり、教会の墓地に教区の住民を埋葬したのですから当然です。ところがフランス革命をへて国の管轄下に「戸籍」がつくられ、都市部では公営の墓地も設営されるようになると、まずは「死の世俗化」という現象がおきる。今日でもフランス人のほとんどは教会の介添えがあるところで永眠したいと考えているようですから、ここでいう「世俗化」とは統計的な問題ではなく、質的変化です。

フィリップ・アリエスによれば、カトリックの伝統において、聖職者の執り行う「告解」や「終油」など臨終の儀式では、死にゆく当事者が中心人物だった。そして「死」とは神に召されることなのですから、人びとは地中に眠る亡骸も神さまにおまかせし、その存在すら忘れることができたというのです。ところが19世紀、人口増加にともない教会の墓地も飽和して、墓地の拡張や移転が大々的におこなわれるようになると、腐乱し、あるいは白骨化した死骸がぞくぞくと日常的な都市空間にあらわれる。人の死は天国への旅立ちであるという確信がゆらぐ一方で、教会の役割が形骸化して、しだいに「死者の弔い」という営みが前景化されてゆく。「葬祭」というイヴェントの主役は、じつは死にゆく当事者ではなくて、日々の生活を生きる遺族のほうなのです。墓地にはこれみよがしの華麗な霊廟が建てられ、涙ながらの美辞麗句が墓碑銘として墓石に刻まれる。フランスでは、墓地文化の絶頂は世紀末だそうですが、ご存じのようにパリのペール・ラシェーズは、今や観光名所となっています。

以上は「国家と教会」の力関係が変わったことによる「死に方」の変化。もうひとつ「宗教と科学」の関係も考察の射程に入れる必要があるでしょう。ご存じのようにカトリック諸国の生活習慣によれば、臨終の人の枕辺にはかならず聖職者と医者がつきそうことになっている。両者の力関係が拮抗するのは19世紀半ば、『ボヴァリー夫人』の時代です。この小説のヒロインは、俗物のカップルである神父と薬剤師、そろって役立たずの3人の医者に看取られて死ぬ。「死生学」の観点からヨーロッパ近代を理解するための教材として、これほど贅沢で示唆に富む小説はありません。

20世紀初頭、プルーストの『失われた時を求めて』には、医学によって病人の主体性と精神性が剥奪されてゆき、ついには極限的な苦痛に苛まれる肉体そのものと化してしまうさまが、酷薄ともいえる筆致で描かれています。語り手をふかく愛した祖母の臨終を語る断章なのですが、これを読むたびに、わたしは切実な恐怖をおぼえ、これぞポストモダンの今日的な情景ではないか! と自問してしまうのです。

フローベール以前をふりかえれば、バルザックはカトリック信仰をもち、医学や近代科学にも信頼を置いていた。『谷間の百合』のモルソフ夫人は心身の苦悶の果てに魂を救済されており、その亡骸は、夕暮れの田園の詩情に浸されて神々しい安らぎを見せる。これに対してボヴァリー夫人は、干からびてゆく「死骸」として描かれてしまう、文学史上はじめてのヒロインでしょう。ちなみに純化されたカトリック的な死の理想とは何かを確認したければ、やはりシャトーブリアンまでさかのぼらなけれなりません。

生身の人間の臨終と死を間近から見つめ、具体的かつ総合的に記述するメディアなど「小説」以外にはなかったのです。たぶん今日でも同じでしょうけれど。というわけで『近代ヨーロッパ宗教文化論』の「第Ⅰ部 ヒロインたちの死生学」は、古典の名著を素材に、現代にも相通じる身近な問題を考えようというもので、じつは、本をただせば「新書の企画」でした。分厚い本ではありますが、肩肘を張らずに読んでいただければ幸いです。

ところで、このサイトで以前のエッセイ(2010年 2月 22日)にも書いたことですが、フランスの国民文学は圧倒的に「姦通小説」が多く、しかもヒロインが死ぬ。これに対してイギリス小説を代表するのは、もっぱら「婚活小説」です。大震災のあと、ある種の覚悟をもって2年で書き上げた書物が手をはなれ、先取りのサバティカル・モードになっているものですから、このところジェイン・オースティンを熱心に読んでいます。持参金つきの嫁探しに余念のない青年牧師の辛辣なポートレイトに、思わず笑いを誘われながら。

10代のわたしはイギリスの女性作家が好きでした。今でも読んでいるだけで、じんわりと楽しいのですが、それだけでなく、英仏の比較は、カトリックとプロテスタントの相違という重大な問題につながります。カトリック聖職者の独身義務とか、告解や終油など「秘蹟」の定義とか、修道会あるいはチャリティによる女子教育とか、さらには今日的な「死生学」の論点まで……。「宗教文化」についてはこの先も、いろいろと考えることがありそうです。

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R.MINAMI

ろうそくの炎と何かのはじまりについて

2011年 9月 2日

『ろうそくの炎がささやく言葉』──美しい本ができました。編者は管啓次郎さんと野崎歓さん。海外の作品もふくめ、詩や小説、エッセイなど、いずれも10分以内で読める短篇をあつめたアンソロジー。寄稿したのは31名ですが、表紙の銀盤写真を提供してくださった新井卓さん、ブックデザインの岡澤理奈さんもふくめると、ちょうど33名。偶然とは思えぬ数字です*。

rosoku

楽しげに、にこやかに、そしてしっかりと、これだけの陣容を操ってくださった勁草書房の女性編集者に心からの敬意をおくりましょう。だって、かりに大学人の業界でシンポジウムをやって、なかには気乗りのしない先生もいるのに、とにかく33本の原稿をあつめようと思ったら、いったい何年かかると思います? あ、「女性編集者」は差別的といわれるかもしれないけど、それとなく、男じゃ無理だろう、といいたいわけです。

この出版は東日本大震災の復興支援チャリティをかねています。でも、それだけの動機で、すらすらと原稿が書けるはずはない。あの日以来、ひとりひとりが、それぞれの持ち場で絶句して、頭のなかが空っぽになり、ひと月、ふた月とつづく灰色の不安のなかで、この先何を書けばいいのだろう、でも日々を生きていかなければならない自分に、書くこと以外、いったい何ができるだろう、と自問自答していたのです。

この書物に何か特別のものがあるとしたら、言葉に祈りがこめられている、ということではないでしょうか。そこには被災者という特定の集団にむけた同情や共感をつつみこむ、もっと漠然とした感情がある。とても切実だけれど、どこかおぼつかぬ、祈念のようなものがある。人間にとって言葉は命の水のようなものでしょう。わたしたちはそれを信じています、そして泉から汲んだこれらの言葉たちを、目には見えない相手にむけて差しだそうとしています。

そして33名のコラボレーションにも特別のものがある。いえ、それが特別のものになるように、今こそ、何かをはじめましょう──核になる方々は、そう考えておられるにちがいない。その意気込みに感動しています。一冊の書物が刊行されて、書店から書斎に直行する、というだけの時代ではないのです。朗読会、書店やほかの出版社もまきこんだブックフェア、プロモーション・ビデオなど、いろいろな企画がつぎつぎに生まれ、ウェブ上でも谺のように反響が広がっているようです。ここで8月21日の青山ブックセンターでの催しについて、一参加者として感想を。

執筆者の身体が目の前にあり、その肉声によって言葉がとどけられるというのは、まちがいなく刺激的な経験でしょう。会場を暗くしてスポットライトとろうそくの灯火だけにしたのもよかった。聴く人と語る人が静かに向き合えるような気がします。でも、この企画の醍醐味は、やはり、いろいろな朗読がある、ということなのですね。

詩人や作家が書斎で自分の作品を読みなおし、声に出して推敲している現場を、そっと覗き見してしまったような満足を、ひそかにおぼえた方がいるかもしれません。聴衆のまえで自作を読むことを、率直に楽しんでいる執筆者もおられました。これは会場につどう人たちが自然に分かちあえる健康的な感情です。執筆者のなかには、バンドや朗読活動や執筆などをくみあわせ、独自の芸術活動をしている方もいるとのこと。ほかの作家の作品とみずからの文章をミックスして爆発させる言葉のパフォーマンスもありました。意味を破壊することは、あらたな創造だという強烈なメッセージ。いずれの場合も、声や呟きや叫びが発されて、そこに聴き手がいるからこそ立ちあがる文学の現場、出来事としての文学といえましょう。

それで、わたしは? わたしは詩人でも作家でもないし、もともと人前で何かをやりたいという人間ではありません。でも、放送大学で音声と文学のことは、いろいろと考えました。シロウトなりに狙っている線は、幼い息子にジョルジュ・サンドを読み聞かせるプルーストのお母さん。ささやかながら取り柄があるとすれば、作品世界を知りぬいていること、そして心をこめて言葉をとどけようとすることかな。

それにフランスの朗読文化については、ちょっとしたCDコレクターですからね、その話をしましょう。ジャック・デリダのFeu la cendre**──まず著者のイントロがあって、書物とは異なるscénographie sonore(音声の舞台装置)の構想が語られる。ややこしい話はともかく、要は書かれたテクストを読むという通常の朗読とはちがう声のいとなみなのですけれど、キャロル・ブーケの深い声、ちょっと一本調子で真正面を向いたような声が、とてもいい。ひとつひとつの言葉が、身体の奥から発されていて。さすが哲学を学んだという女優、きっとデリダへの共感が並のものではないのでしょう。1987年の収録とありますから、書物の出版と同時。デリダの声はもちろんのこと、ブリッジにおかれた不思議な人声のような音響効果をふくめ、じつにしっくりと全体が調和しています。

もう一つはジャック・アタリのアンソロジー。25 の断章からなる5枚組CDで、じつは「アタリ、ハヤワカリ」みたいな安易な気持で入手したのですが、小説の抜粋がたくさん入っているのが、ふーん、という感じで新鮮でした。このCDにも著者自身の朗読がふくまれていて、アタリにせよ、デリダにせよ、声に出して読むという行為を創造的な活動の一部と考えている。日本では、朗読はアナウンサーや声優におまかせ、というところが未だにあるようで残念ですけれど。アタリのCDの最後のトラックに、音声アンソロジーを作成したことの感想を聞くインタビューが入っているのですが、そこでアタリは、とにかくメディア環境も変わったのだし、書物を読むことに困難をおぼえる人たちのためにも、これは本当にいいと思う、それにもともと聴き手のいるところで声によって物語ることは、書物を書くことに先行するいとなみだった、と答えています。

朗読のプロフェッショナルかアマチュアかは問わぬことにして、書物と声と、そして光や音響や音楽を組みあわせ、いろいろなことをやってみましょう。たいていの本好きは、最終的には静かな書斎の読書をえらぶでしょうけれど、でも書物が人の出会いをつくるというアイデアには──さまざまの意味で共同体が失われている時代だからこそ──大きな魅力がありますよね。

放送大学の学生さんにも、朗読をやっているという人たちはすくなからずいるようなので、仲間であつまったときに、かわるがわる『ろうそくの炎がささやく言葉』の短篇をえらんで読んでみない? と勧めています。もうひとつ、冗談ではなくて、こんなアイデアはいかがでしょう。仲間うちの朗読会に、カラオケの個室をつかう。音楽をBGMにするわけ……。教材制作でやってみたのですが、この朗読のバックにどんな音楽を流したらいいかな、と考えるのは、とても面白いですよ。ある種の作品解釈ですし。

『ろうそくの炎がささやく言葉』については10月8日(土)の「ふれあい講座」がわたしにとってのメイン・イヴェント。放送大学の学習センターって、どんなところ? とお思いの方、どうぞ気楽にお越しください。それとは別に、管啓次郎さんに誘われて──JRにも乗らない人が飛行機に乗って──はるばる高知に行ってきます! 日程は9月17日(土)で、ご案内はこちら

* 思いきり俗っぽい注をつけるなら、イエス・キリストの寿命、シャルル・フーリエの『四運動の理論』、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』、フローベール『ブヴァールとペキュシェ』の幕開けの路上の気温、そしてチリの落盤事故……。

** 書物は男女のディアローグではなく、デリダの過去の著作の引用をふくめ、複数の声部が左右のページに配されている(ジャック・デリダ『火ここになき灰』梅木達郎訳、松籟社、2003年)。

rosoku

文学を彷徨させる?

2011年 7月 8日

昨年の春に放送大学の世田谷学習センターの客員教授になり、最初に考えた企画がフランス語講読ゼミ、つぎに作品を声に出して読むという方式の公開ゼミでした。5月には管啓次郎さんの『斜線の旅』を紹介する小さなイヴェントをやって、次回はホンモノに来ていただきましょうね、と皆さんに約束したのでした。

それから、いろんなことがあって、管さんは『斜線の旅』で読売文学賞を受賞して、お忙しいでしょうけど、春にはかならずセンターに来てくださいね、などといっているうちに、あの大震災。チャリティー出版企画というのをただちに立ちあげたのは、さすがです。タイトルは『ろうそくの炎がささやく言葉』──管啓次郎さんと、同時に受賞なさった野崎歓さんとの共編です。

被災地への思いと言葉をつむぎだす者たちの控えめな矜恃とが一体になった、美しい本ができるだろうと心待ちにしています。8月の刊行後も、朗読会の催しなどが各地でつづけられるとのこと。企画の全体が、ろうそくの炎のように優しく洗練されたデザイン性につらぬかれていることは、以下のサイトで、じっくりとたしかめてください。
http://lemurmuredesbougies.tumblr.com/

そんな経緯もあって、今年は世田谷学習センターの「ふれあい公開講座」の枠組で、その通称「ろうそく本」の出版企画によりそうような構想を立ててみました。


(クリックするとチラシをダウンロードできます)

前半のトークセッションでは、管啓次郎さんと旦敬介さんが、わたしのお客さま。後半は『ろうそくの炎がささやく言葉』の朗読セッション、そして歓談のひととき、という配分です。

まずはなぜ、管啓次郎さんと旦敬介さんか、というきわめて重要なポイントをご説明いたしましょう。ロートレアモンとランボーかな。これは褒めすぎ? だったら不良少年? 古い? それに失礼かな。それじゃ家出少年……。気がついたら功成り名を遂げてお腹の出た中年になっていた、などというヤワな方たちではありませんよ。

昨年の公開ゼミで読んだ管さんの『斜線の旅』の巻頭エッセイは、こんな文章でしめくくられています──いままさに落ちようとする太陽をイグアナのようにありのままに見つめながら「ここがフィジー、」とつぶやいて、ぼくの旅にはまたひとつの読点が打たれたのだった。

旦さんが昨年の暮れに出版した『ライティング・マシーン──ウィリアム・S・バロウズ』は、こんなふうにはじまります──ナイロビに住んでいたとき、一週間ほどザンジバルに行って帰ってくると、アパートが荒らされていて金目のものが全部盗まれていた。

ね、ふたりとも、ホンモノの旅人でしょう? それで、公開講座のことをお願いして、タイトルはどうしましょう、とご相談したら「文学を放浪させる」というご提案があり、でも、じつは「ふれあい講座」は地元の町内会の方たちもお誘いするの、とにかく目立つ地名を三つならべて「放浪させる」という話は副題にしてくださいな、ということで、こんなかたちになりました。

ところが、説明文を書いているときに、「放浪させる」を「彷徨させる」と書きまちがえました。管さんが気づいてくださって、あ、そうか、と思ったのですけれど、言いまちがいには、無意識の動機があるって精神分析でいうではありませんか。わたしはどうやら「彷徨」のほうが好きらしい。なにしろ、すごい方向音痴で体力もないから「放浪」の旅に出るのは正直ちょっと恐いし。さて、ここからは先回につづきマジメな話。

戦後日本の知識人エリートにとってフランスの思想や文学は、新しい世界を牽引するアポロンの馬車のように見えていたのかもしれません。わたし自身も森有正の『遙かなるノートル・ダム』などを読みながら、いずれ「花のパリ」に留学する日を夢見ていた世代です。それほどに学問は「本場」をめざしており、辺境あるいは裾野からエッフェル塔の頂点へと上昇してゆくヒエラルキー構造がありました。

ところが、あるとき気がついたら、世界はフラットだった、いえ、そのように見えてしまった──それはやはり、年齢や世代の差というだけでなく、あたらしい感性を信じ、未知の世界にむけて自分をひらいてゆく度胸があったということでしょうね。管さんも旦さんも「文明のヨーロッパ」などには目もくれず、地球の反対側へ、地平線の彼方へと、すたすたと歩いていってしまったのです。

夕暮れ時、荒涼とした丘のはるかな稜線に影絵のように浮かぶ管さんの小さなシルエット、巨大なリュックをしょって、朝日が矢のように射しこむ密林の奥に消えてゆく旦さんの後ろ姿……わたしの空想ですけれど。

1980年代、学問の世界でもグローバル化は着実にすすみ、東京大学の教養学科に「中南米科」が創設されました。あの当時、ボルヘスやバルガス=リョサなどは、篠田一士のような重鎮によってヨーロッパ経由で輸入されたものでした。ところが若者たちは、ためらいもせず現地に直行した。ラテンアメリカ文学にかぎらず、アジアやアフリカ研究も、欧米の旧宗主国の由緒ある大学や研究機関に詣でることにはあまり熱意を見せなくなった、そして、まっしぐらに現地に行って生身の出会いを求めるようになりました。これはやはり素晴らしいことだと思う。きっと新鮮な経験だったでしょうね。

わたし自身はいろいろな事情がありまして、さあ、このまえJRに乗ったのはいつだったかしら、という生活をしております。過去においても自宅と職場を往復する生活は大差なし。でも、よくいわれるように「文学」はどこにでも行けるヴァーチャルな旅のようなものですからね。地球上の島や大陸や大洋や、あるいは17世紀フランスの文芸サロンや、あるいは女性の目で見た今日のアルジェリア……どんな時空にも、思う存分、彷徨うことができる!

ちなみに若手研究者には、闘う武器を身につけるつもりで一度はヒエラルキーの学問の手法をしっかり習得してほしいと思います。でも、先行論文に仁義を切っていたら、目標のページ数の半分以上が埋まってしまった博論などというのは、どこか寂しい。たしかに人文学には長くゆたかな蓄積がある。それだけに天空にそびえる雄峰のように登坂する意欲を誘うのでしょうけれど、学問が構築されすぎて、塔か砦のようになってしまったら、裾野や周辺とのコミュニケーションが断たれてしまうのです。

で、話はもどりますが、わたしは引退した人間の気楽さで、裾野や周辺を散策しようと思っています。たまたまテレビで北野武が、お笑い芸人は寝ても覚めても食べているときも24時間お笑いのことを考えていなくちゃいけない、といってましたけど、わたしも24時間文学のことを考える生活をやってみたい、そう夢見ているわけです。朝はっと目が覚めてまっ先に思いだすのが、会議や書類や人事のこと、などという野暮はなくなりました、おかげさまで……。

8月は、サイトの更新をお休みにします。
さまざまの想いが去来する夏、どうぞお健やかにお過ごしください。

「ふれあい公開講座」のチラシは、このサイトを管理してくださっている大洞敦史さんにお願いしました。美しい写真3枚は、管啓次郎さんに提供していただいたもの。どうぞクリックして鑑賞してください。

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無題

2011年 3月 16日

被災なさった方々に心からお見舞いを申しあげます。
黙示録的な光景が日常的な居間のテレビに絶えず映しだされる状況に、後ろめたさと浮遊するような感覚をおぼえつつ、時を過ごしております。空々しい話題を提供するよりは絶句したままでいたいと考え、このサイトは1月お休みさせていただきます。なお私自身は特段のトラブルもなく、大学院や学部の指導をつづけております。当面の活動については、ジュンク堂での山田登世子さんとのトークセッションが中止もしくは延期となりました。それでは皆さま、くれぐれもご自愛くださいますよう。

ガラスの靴

2010年 1月 16日

「メルヘェン」に浸っております。なんとディズニーの『シンデレラ』まで鑑賞してしまいました。マザーグースの例にもあるように、民間伝承は女性が語り手になることが多いので、役立たずの亭主というモチーフは豊富です。グリムの『灰かぶり』のお父さんは、実害はないといえばないけれど、なんともトンチンカンな行動をとりますし、ペローの『サンドリヨン』のお父さんは、いるにはいるけれど、まるで存在感がない。ところが戦後アメリカの大人たちは、そんな父親像を子どもに見せたくなかったのでしょう。ディズニーは、そっと早めに、この人物を死なせてしまったことに気がつきました。

こうした物語の「書き換え」を、たとえば面接授業では、話の糸口にできるかもしれません。現代のアニメや創作童話の教訓、あるいは19世紀市民社会の感性が許容した家族像の逸脱モデルなどをかたわらにおき、17世紀末、古典文学の絶頂期に宮廷で好まれた「昔話」の構造をさぐることができるでしょうか。シャルル・ペローの物語はとにかく過激です。『赤頭巾ちゃん』は狼に食べられっぱなし。『ロバの皮』では、実の父親が娘に結婚をせまる。『眠りの森の美女』は、せっかく王子さまと結婚して、玉のような子どもたちを生んだのに、お姑さんが「人食い」ogresseだったというのですから。

「民話」や「昔話」は、ブルジョワ的な世界観が称揚する価値とは異なるロジックをもっています。「神話」や「伝説」と重なる部分もあるでしょう。一方で、こうした長い伝統のあるジャンルから、光を逆照射してみると、近代ヨーロッパの形成に深くかかわった「小説」に固有のロジックも見えてくるような気がします。そこで、ご紹介したいのはマックス・リューティの分析。

『誰も寝てはならぬ』は、荒川静香が金メダルをもらったおかげで、着メロのダウンロード件数が一挙にはねあがったという曲ですが(と、リューティがいっているわけではありませんが)、このアリアをふくむプッチーニのオペラの素材となったのが、『トゥーランドット』というペルシアの民間伝承です。「謎かけ姫」という系譜の物語で、ご存じのように、謎を解けない求婚者がつぎつぎに殺されてゆくというのが幕開けの設定です。

ドイツ・ロマン派の先駆けとなったフリードリッヒ・シラーの戯曲ヴァージョン(1802年)から、トゥーランドット姫が、カーラフ王子にむかって、なぜ謎をかけるのか、その理由を説明する台詞を引用します。なにしろ長いのですが、まさに長さに意味のある熱弁を省略したら、文学の分析になりません。

まだ間に合います、王子さま。向こう見ずな企てはお止めなさい。無情だ、残酷だといって私を責める人は嘘をついているのです。それは天の神様がご存じです。私は残酷ではありません。自由に生きたいだけなのです。私は誰のものにもなりたくありません。どんな身分の低い人にも母親の胎内で天から与えられている権利を私は主張したいのです、皇帝の娘たる私は。アジア全体を通じて女性は卑しめられ、奴隷のくびきをかけられています。私は侮辱された同性の恨みを、威張っている男性に向かって晴らしたい。男性がやさしい女性にまさっている点といえば粗暴な力だけではありませんか。私の自由を守るために自然は武器として私に独創的な頭の働きと鋭い知力を与えてくれました。私は男のことなど知りたくもありません。男を憎み、男の高慢とうぬぼれを軽蔑します。男はなんでも貴重なものに手を伸ばします。気に入ったものは自分のものにしたがります。自然は私を美しい魅力で飾り、私に鋭い精神の働きを与えてくれました。卑しいものは価値がないので安穏に身を隠していられるのに、高貴なものは猟人の激しい追求を招きます。なぜこの世では高貴なものがそういう運命に陥るのでしょうか。美は人の獲物とされなければならないのでしょうか。美は太陽と同じように自由です。空に輝いて、あまねく人の心を喜ばせ、光の源であり、人の目の喜びなのです。けれども、何びとにも隷属せず、何びとの奴隷でもありません。

マックス・リューティ『昔話の本質───むかしむかしあるところに』
野村ひろし訳、福音館書店、1974年

なるほど、筋がとおっています。女性にとっては、胸がすくような台詞? まずは、アジアの女性蔑視を告発し、「近代的な個人」として自由への権利を宣言する。「合理的な自己弁明」というリューティの形容は当たっています。フランス革命後のヨーロッパ、その昂揚した時代性のなかでこそ、立ち上げられた議論といえそう(ただし、念のためいいそえるなら、大団円で姫は「謎かけ」に負け、男に支配される悦びを知る。プッチーニのオペラなど、近代のヴァージョンは、最終的には性差の「植民地主義」が透けて見える構造になっています)。

さてマックス・リューティによれば、シラーのトゥーランドット姫は「特殊な問題と才能を背負った一個の人間」であるにすぎません。この雄弁な女性は「昔話」の主人公というよりむしろ、「小説」のヒロインたちに似て、個性的な顔立ちをしています。ここで大切なポイント───「昔話」の「謎かけ姫」というのは「役柄」にすぎないとリューティは指摘します。かりに「姫」が「世界」の象徴であるとしたら? たしかに「世界」は人間に難問を課して、これを解決できぬ人間を滅ぼしにかかる……。これがリューティのいう「メルヘェン」の特質です。本来それは、象徴と寓意による抽象的な世界なのであり、そこに贅肉のような描写や合理的な説明をもちこむのはまちがっている。

ところで「小説」は「歴史」と血を分けた兄弟のようなもの。時代性をになうという課題にめざめたことにより、国民的アイデンティティの創出という要請に応えることもできたのです。レアリスム小説が「何年の何月に、どこそこで、誰々さんが……」と書き始めることの重大さ、その認識論的な重みを、まずは強調しておきましょう。

これに対して「昔話」は、非歴史的、非時間的なジャンルです。「むかしむかしあるところに……」という始まりは、不特定であるがゆえに今も未来も包摂するような不思議な時間、どこにもない空間の扉を開いてくれる。だから「二人は結婚しました。二人は死んでいなければ、今でもやっぱり生きています」と物語が終わることは、固有のロジックにかなっているのです。

どうもわたしの話は、むずかしくなってしまうけれど、でも「昔話」のロジックが、むずかしいわけではありませんよ。世界の神秘や自然の驚異を小さな物語におさめた「昔話」を、心から楽しむことができるのは、民衆や子どもたちなのだから。立派な大人たちが合理性やプチブル道徳を求め、つまらぬリライト版の童話を歓迎するとしたら、それは「アレゴリー」を直感で理解する能力を失っているからでしょう。

そもそもフェアリー(フランス語はfée)が活躍する世界だということを忘れてはなりません。「仙女」と訳したり「妖精」と訳したりしますが、事物もféeになるのですって。『ロバの皮』では、仙女に知恵をつけられた王女さまが、求婚者である父親に、実現できそうにない難題をつきつける。その意味では「謎かけ姫」のヴァリエーションなのですが、王女さまは万策つきて、みにくいロバの皮で身をつつみ、王さまの法外な贈りものである美しい衣装を持って姿をくらましてしまいます。衣装箱は、王女さまのゆくところ、どこへでも地下にもぐってついてくる。なぜならそれはféeだから。素敵でしょう……。

シンデレラの靴もféeなのでしょうか。わたしが学生だったころ、靴の素材はverreではなくて、じつは同音のvairつまり高級毛皮なのだという説を聞き、感心したことがありました。文豪バルザックや辞書の編纂者リトレによる、いかにも合理的な解釈です。ところが、数ある「昔話」の系譜を検証した結果、現在では学説として、ガラス説が復活しているようです。考えてみれば、そうですよね。それじゃあ、足が痛いだろう、など理屈をこねる大人は、そもそもféeの世界で遊ぶ資格がない。『親指小僧』でも、チビの少年が人食いの大男の「七里の長靴」を失敬して、これをはくと、ぴったりと足に合うのですよ。

手元のPocket Classiques版の解説には、さすがのディズニーも(というのは、甘ったるい解釈が気に食わないというニュアンス)、ガラスについては忠実である、という注記がついています。でも、映画のガラスの靴は、まま母が意地悪をしたために、シンデレラの目の前で、こなごなに割れてしまうのです。これも民間伝承にはない脚色。しかるに「昔話」のロジックによれば、やっぱりここで「合理的」にガラスが割れちゃあ、まずいのじゃないかな……。

というわけで、文学に回帰すると、にわかに饒舌になるわたしであります。先月のエッセイで予告した童話を楽しむ夕べ、というふれこみの2月3日の企画については、こちらをご覧ください。ちなみに男性も歓迎です。
http://www.u-air.ac.jp/hp/o_itiran/2010/220114.html

赤頭巾

ギュスターヴ・ドレの赤頭巾ちゃんは、本当に子どもでしょうか?