工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 今後の構想

語りかける、優しいことば

2011年 5月 4日

若葉の季節。心のどこかに痛みと不安をおぼえていても、いつのまにか季節はめぐってゆきます。3月11日に書き上げていたのに、このサイトには掲載しなかった文章を読み返してみました。阿佐ヶ谷の「朗読カフェ」で話した内容とか、回をかさねればもっと和やかな雰囲気が生まれるはずとか、いつものように前向きの台詞がならんでいます。あの日以来、語ることばを失ってしまったという感覚を多くの人が共有しているのではないでしょうか。

そんななか、友人の管啓次郎さんからチャリティーの本を出そうというお誘いがありました。原稿料はなし、売上げの一部を震災の義援金にするというアイデア。さらに「朗読時間にして5~10分以内が望ましい」という条件がついています。そう、つまり「声に出して読む」ことが想定された書物なのです。声と文学というのは、わたしのかかえる大切なテーマ。はしたないぐらいの勢いで賛同してしまいました。

文字が印刷される以前に、ひとまず音声として鑑賞される文学とは、どのようなものなのか。太陽王ルイ14世の治世を頂点とする17世紀は、古典主義の時代というだけでなく、文芸サロンの黄金期でもありました。才知あふれる貴婦人たちの閨房で、詩人や作家が手書き原稿を読みあげて、聴き手があれこれ感想を述べる。それは批評と創造が一体となった希有(けう)な文学空間なのだ、と碩学マルク・フュマロリが指摘しています。シャルル・ペローの『昔話』は、ラ・ロシュフコーの『箴言集』やラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』やラ・フォンテーヌの『寓話』がそうであるように、よりすぐりの紳士淑女たちの会話から生まれた集合的な作品だというのです。

さてペローの散文昔話のなかで『仙女たち』はとりわけ簡素な物語。高慢で意地悪で姉娘ばかり可愛がる母親が、妹娘をこきつかって泉に水を汲みにやる。そこへ、みすぼらしい村の女があらわれて、水を飲ませてほしいという。妹娘は「いいですとも」と優しく答え、親切に水甕をささえてあげるのです。たったこれだけのことなのですが、村の女というのが、じつは仙女。そして「あなたが何かをいうたびに、一輪の花か一粒の宝石が、口もとからこぼれおちるようにしてあげましょう」というのが、仙女の贈りもの。

予想されるように、姉娘のほうは、仙女に悪態をつき、その罰にガマガエルやマムシが口から飛びだしてくるようになる。妹娘は王子に見初められてお妃となり、姉娘はみなに嫌われて森の奥で息絶える。

不作法な姉娘へのお仕置きも、親切な妹娘へのご褒美も、どう考えても過剰ではないか、それに、口をひらくと花や宝石がこぼれたりしたら、話しにくいだろう……などと理屈をこねるひとには、昔話を読む資格はありません。合理性と因果関係にこだわる近代小説に、散文芸術の普遍的な規範を見てとるのは浅はかなこと。フュマロリによれば、古典修辞学には、女性的で豊穣な言葉の綾(あや)を花にたとえ、男性的な雄弁は雷土(いかづち)になぞらえる伝統があったとか。花のようなことば、宝石のようなことばが、花になり、宝石になる。これぞ、昔話の魔術的ロジックというものです。

『仙女たち』の類話は、イタリアやドイツにもありますが、そこでは妹娘の親切なおこないから教訓がみちびかれる。いっぽうペローの昔話では、行動ではなく、ことばが主題。優しく正しいことばには、ダイアモンドほどの価値がある。それはお妃にもなれるほどの素養なのだという寓話です。文芸サロンの男女がフランス語の純化と洗練ということに思いをはせながら、真心のこもった平明な口語表現を讃えている。創造と批評がおたがいに目配せする、とでもいいましょうか、なかなか高級でお洒落な仕掛けがあるわけです。

ラテン語中心の権威主義的で男性的な博識に対峙するものとして、サロンの会話を土壌とするフランス語顕揚運動がおきた時代です。あらたな機運の牽引力になったのは、知的で優雅な女性たちであったという話。なかなか魅力的でしょう? 歴史的な展望を立てれば、大きな広がりをもつ問題です。たとえば「新旧論争」とその後のギリシア・ローマ的テーマの変遷とか、革命後のスタール夫人までつづく文芸サロンの伝統とか。ついでに大風呂敷をひろげますと、『失われた時を求めて』におけるゲルマント公爵夫人の「サロン幻想」が、この辺りに根っこを張っていることは、まちがいないと思います。プルーストの愛読するセヴィニエ夫人の書簡もサン=シモン公爵の回想録も、この時代に生まれた口語表現のうるわしい成果でありました。

さてさて、こんなむずかしい話はやめにして、管啓次郎さんのチャリティー本のために『仙女たち』の翻訳を見なおして、聴いただけですっきりわかるイントロを書かなければなりません。優しく語りかけるようなことば……むずかしいですね。

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朗読カフェと妖精物語

2011年 1月 8日

新年おめでとうございます。

今年の新しい企画は「朗読カフェ」───作品についての気軽なレクチャーと、シロウトではありますがわたし自身の朗読と、さらに参加者との自由なやりとりと。以上3つの柱を考えています。発想はフランスの「歴史カフェ」や「哲学カフェ」に学んだもの。

日本では「科学カフェ」「サイエンスカフェ」の活動が、他の分野に大きく先行しています。Wikipediaによれば、「科学カフェ」とは1992年にパリではじまった「哲学カフェ」をモデルにして、1997年から1998年にかけて英仏で同時に広まった活動で、カフェのようなくつろいだ空間で、ゲストスピーカーと参加者が双方向的にコミュニケーションをとりながら科学を語り合うのだそうです。わが国では2004年に京都ではじめられた「科学カフェ京都」(特定非営利活動法人)が先駆だとありましたので、サイトをのぞいてみました。「技術における意志決定プロセスの民主化をめざす」と銘打った組織の全容と圧倒的な動員力に、それこそ茫然としましたね。大小の「科学カフェ」はNPOだけでなく企業の主催する活動もくわわって、わが国でも急成長をとげているようです。

とはいえ大それた夢は、わたしにはありませんし、もともと文学は技術とも経済力とも無縁です。思い切りこぢんまりと手作りで、ただしお洒落な感じでやってみたいと思います。Webで調べてみると「朗読カフェ」を謳った活動もずいぶんあるようですけれど、おそらくはほとんどが愛好会的な集まりで、ヨーロッパの「カフェ」のように一般の市民と現役の高校教師と引退した大学教授が同じフロアで交流するというような場ではなさそうです。

せっかくカフェのマダムをやってみようというのですから、メニューも自前。読むのは自分で翻訳した作品です。これが左右社の出版企画「声に出して読む翻訳コレクション」につながっているわけ。すでに予告したように初回はコレットの『シェリ』ですが、これまでの催しと重ならないようにページをえらび、母と娘をテーマにした短篇なども新訳でご紹介します。

2011年3月6日(日)の午後、阿佐ヶ谷のカフェRUSTLE(駅から徒歩5分)にて。定員25名というのは、なごやかにお話できるという意味で、ちょっとした贅沢ですけれど、いっぽうの参加費は、コーヒーとケーキの実費です。なにより大切なのは雰囲気とコンセプト。ヨーロッパの先例から知恵を借り、全員が「ヴォランティア・モード」で気楽に参加して、楽しみながら本を読む時間になるように、ゲストスピーカーとしても工夫したいと思います。詳細および申し込みはこちらから
http://sayusha.com/sayusha/Colette.html

今回の「朗読カフェ」を左右社とともに企画してくださったアルクの雑誌『翻訳事典2012年度版』(1月15日発売)に関連記事が掲載されています。じつは翻訳者として本格的なインタビューをうけたのは、昔々トロワイヤの歴史小説が大ヒットして以来のこと。老後は───ボケに敗退するまで───気長に古典の翻訳をやりたいと思っていますので、なんだか応援してもらった気分です。

「声に出して読む翻訳コレクション」の第二弾はシャルル・ペローです。目下、ラ・フォンテーヌやモリエールなど、同時代の作家をふくめ、どっぷりと朗読にひたりながら翻訳をやり、解説を書いています。ペローは「アカデミー・フランセーズ」の辞書(初版)の編纂に当たった中心的なメンバーでもありますが、いっぽうで「モリエールの言語」といえば「フランス語」を指すことはご存じの方も多いでしょう。17世紀のフランスで「古典文学」とともに開花した「国民的な言語」の活力にふれることができる。これも翻訳者の特権ですね。

近代小説を中心に学んできた者にとって、昔話というジャンルは、それこそ遠い昔の話のように思われるかもしれませんけれど、たとえばプルースト。語り手の記憶に甦る最初の幻想的な光景は、ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンの伝説で、これが大貴族ゲルマントの家系を神話的な時空にまで遡らせる仕掛けになっている。悪役ゴロの名は「青髯」とならべてありますが、これは、ほら、ペローでしょう。それから、かの名高きマドレーヌのエピソードの直前に、「ケルトの信仰」の話が出てきます。亡くなった人の魂は、動物とか植物とか無生物とか、下等な存在のなかに囚われの身となっており、ある日、偶然にわたしたちがそのそばを通りかかって、呼びかけに答えると、魂が甦るという話。これはそのまま「見いだされた時」につらなるテーマです。

じつはプルーストの「甦り」がカトリック的なものではないことが気にかかっているのです。それはギリシア神話の「甦り」とも違うのではないか。もしかしたらヨーロッパの民衆が語り伝えた超自然や神秘や奇跡など、つまり伝説、民話、昔話、メルヒェン、妖精物語なども源泉となっているのではないか───そんなふうに勝手に推論しているわけです。まず思いだされるのは、アスパラガスが妖精になるという話。フランソワーズの台所は、お伽の国なのですね。この「夢幻劇」はたしかに『真夏の夜の夢』の系譜であって、なにしろケルト系の妖精は、フランスのそれとちがって、変身する者、いたずら者が多い。妖精にも、お国柄というのがあるようです。グリム兄弟などは、民話を収集しながら意図的に、ドイツの国民的アイデンティティを立ち上げようとしたわけですし。

ちなみにペローでは、カボチャを金色の馬車にする仙女だけでなく、「青髯」の小部屋の鍵や「親指小僧」の「七里の長靴」も妖精です。そんな雑学をいろいろ身につけると、プルーストの幼少期の初々しい想像力に最初にすりこまれた愛らしいモティーフを、いろいろ探しだすことができそうな気がしてきます。この話はきりがないので、いずれまた。次回からは、シャルル・ペローの『昔話』についてのエッセイを連載する予定です。

写真は今回もプルーストもの。幼いマルセル少年の寝室には、ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンの伝説を映しだす幻灯が置かれていました。
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声と教育

2010年 4月 18日

「あなたは本当に好きなんだねえ」と友人にいわれたことが何度かあります。好きっていうのは、教育の現場のこと。人間一般が好きか、といえば、わたしの本性は引きこもり。人前に出るのも苦手だし、とりわけ「飲み会」のような賑やかなあつまりは、年齢のおかげで遠慮をしなくてすむようになってからは、きちんとご遠慮するようになりました。

たとえていえば、美味しい食材をまえにした感覚でしょうか。若いころに習熟していた技術から比喩を借りれば、美しい毛糸を目にして、できあがりのニットを思い浮かべる感じ。今年も何人かの学生さんたちと大学院や学部のゼミで出会うことになりますが、それぞれの研究計画を読みながら、こんな調理法はどうかしら、こんなデザインにならないだろうか、などと考えていると、わたしむきの仕事だなあ、とあらためて思います。

もっとも好きだからうまくゆくという保障はまったくありませんし、教員と学生との交流は、大学という制度の拘束や権力構造によって、思いがけぬ逆風にさらされることもある。教育の現場に固有の、かけがえのない価値があるとしたら、それは学ぼうとする者どうしが出会う機会を提供するから。ただそれだけでしょうね。そして、さまざまのことを学ぶ意欲という点では、わたしはまだ、衰えていない……。

大学にかぎらず、市民的な活動も、この10年ほどで、見違えるほど盛んになりました。地域、対象、テーマ、メソッド……さまざまの個性や基盤をもつ自主的な教育活動が展開されているようです。教育と銘打ってはいないけれど、贅沢な啓蒙活動だなあ、と思った一例を。もっとも、これは幕引きの報告なのですけれど。

作家の古井由吉が新宿のバーで10年来つづけてきた朗読会が、お開きになったという記事、ご覧になった方もあるでしょう(「朝日新聞」4月3日夕刊)。文学は追い詰められている、何かやってみなければ、という後輩の作家たちにうながされて、自作を人前で読むようになったとか。朗読会のおかげで文章が変わった、文学とは声なんだ、という作家の述懐が、記事の締めくくりになっています。

世田谷学習センターの公開ゼミというかたちで、わたしがやってみたいと思っていることも、ちょっと似ているような気がします。文学に特定はしませんが、書物を書いている人に、声で語ってもらおうという企画。今年は「多文化の共生」というテーマで、管啓次郎さんと秋にトークセッションをやる、という話は、すでに3月20日のエッセイで予告しました。せっかく大学なのだから、聴衆も学んでおきましょう、というのが、ゼミの意図。

豪華メンバーがならんだ国際シンポジウムなども、往々にしてそうなのですが、会場にいるのは、その場かぎりの消費者で、じつはパネラーたちも、となりに座った研究者の著作など、手に取ったこともない、といった寂しい風景は、めずらしいことではありません。それだったら、家で静かに本を読んでいたほうがいい。教室があり、声で語りかけてくれる人がいるのだから、聴く耳を育てたいと思うのです。

というわけで、次回、5月22日に予定された公開ゼミでは、管啓次郎さんの『斜線の旅』を読んでみます。とりあえずの朗読者は、わたし、ということで。

花屋
K.NAKATA

5月1日(土)午後 公開ゼミを開催します

13h30~15h フランス語教室
いろいろなレヴェルの学生さんに開かれた教室。参加者が、フランス語の魅力にふれた、新しいことを学んだ、さあ自分で勉強してみよう、という気持になってくれれば、と思います。でも、どうしたらよい? とりあえず、みなで発音してみましょう。言葉は声なのです! 
放送大学の教材「フランス語入門Ⅰ」「フランス語入門Ⅱ」についての質問コーナーも設けますが、参加者に守っていただきたいのは、話題を独占しないというルール。教室の雰囲気を見ながら、ごいっしょに工夫してゆきましょう。
参加資格:原則として放送大学の学生であること。放送授業「フランス語入門Ⅰ」面接授業「初歩のフランス語」「初めてのフランス語」等を履修し、発音の原則と文法の初歩に親しんでいること。登録の必要はありません。当日、気が向いたら世田谷学習センターにおこしください。
教材:聴かせたい朗読CDがある短いテクストを、その場で配布します。今回は、La Fontaine, La cigale et la fourmi
予習をしたい方は、Webにアクセスしてください。動画をふくめ、山ほど素材が出てきます。

15h20~16h20 生涯学習、研究計画、論文執筆などに関する公開ゼミ
参加者は、自己紹介をして、自分の関心や学び方の工夫、生涯学習に関する自主的な活動などについて、自由に発言する。プレゼンテーションの機会がほしいという学生さんたちの要望に応えることも目的です。形式にはこだわりませんが、これもルールは全体への目配り。発言は1人5分以内に。とりあえず出席はするけれど、黙って聴いている「オブザーバー方式」もあり、としましょう。

16h30~17h30 オフィス・アワー
研究室で、個人指導や小人数の打合せをします。予約のある人を優先。

次回:5月下旬 公開ゼミ「異文化の共存」を予定しています。

フリーになりました

2010年 3月 20日

60半ばは人生の節目。考えたすえ、生き方の選択として、放送大学の専任を辞めました。これからは、本を読んだり、原稿を書いたり。そして、可能なかぎり生涯学習という現場の活動はつづけたい、と思っています。

4月からは、放送大学東京世田谷学習センターの客員という立場。職責は「センターの活性化」なのだそうですけれど、さあ、どうしたらいいでしょう? あれこれとメニューを考えました。

①公開ゼミ「多文化の共存」:あらかじめ読む本を予告して、読書会スタイルでおこなう研究会。なるべく参加者にも発言してもらい、知的に、なごやかに。上手くゆくかどうか、わかりませんけれど。当面は、長年の友人である管啓次郎さんの著作や翻訳を素材にしたいと思います。皆が内容に関心をもったところで、たぶん秋になってから、管さんと私の「トークセッション」をやります。手始めは、昨年の末に出た『斜線の旅』(インスクリプト)。読みやすく広がりのある書物です。

②フランス語教室:参加フリーで質問を受け付けるコーナーとゼミ型に分ける。対象は原則として、放送大学の学生に限ります。参加者の顔ぶれを見て、内容を考えましょう。頑張ってついてきてくれる人が何人かいれば、プルーストやフロベールをとりあげて、本格的な原典講読をやってみてもいいと思っていますが、これは希望者が名乗りを挙げてくれないと……。

③卒業研究公開ゼミ:人文系の分野について、研究テーマの探し方、研究計画の立て方、プレゼンテーションの方法、等の相談や指導を、ゼミ形式で行う。卒業研究を履修中の学生、すでに卒業研究を履修し大学院進学などを考えている学生も対象とします。

④残り時間はオフィス・アワー:掲示などで予告します。

とりあえずは企画のみ。大学で定められた教務的なプログラムではありませんから、運営の仕方も臨機応変、ということで。4月始めに、核となる学生さんたちと打合会をやり、定期的に、このHPで広報活動をします。

これまで面接授業や大学院・学部のゼミなどで出会った学生さんたちへ:
公開ゼミの活動的メンバーになってみようという方、以下のアドレスにご連絡ください。公開ゼミの連絡責任者は、昨年度、卒業研究を履修した大洞(だいどう)敦史さんです。打合会の日時などの情報をふくめ、回覧メールをお送りします。
hoppecke(アットマーク)goo.jp

そして最後にご報告。ご覧のように新しい本が登場しました。『宗教vs.国家──フランス〈政教分離〉と市民の誕生』(2007年、講談社新書)の延長上の仕事です。気がついたら、もう3年もたってしまって。。。

ドーメニル湖
K.NAKATA

面接授業「初めての韓国語」――共通教材の新シリーズです

2008年 12月 24日

「生涯学習」という言葉には、知的で洗練された響きがないと思われているらしいことは、いかにも残念です。本当は、学びつつ生きることほど、お洒落な人生はないと思うのですが。

放送大学に着任して早くも5年。素晴らしい出会いが、数えきれないほどありました。週末に卒業研究の口頭試問を終えたばかりで、ちょっと気分も昂揚しております。年々収穫が増えて、今年はとりわけ豊作でした。これまで一度も長い文章を書いたことがない、という履修者が、原稿用紙で数10枚、人によっては150枚ほどを、数カ月で書き上げる。着地した地点に広がる風景は、スタートの地点で見えていた風景と、まったくちがうはず。ひとりひとりの成長ぶりは、端で見ていても爽快です。

さて本日は、広報活動です。生涯学習者のための外国語教育。といっても、英語は条件が異なりますので、初めて学ぶ外国語(初修外国語)の構想について。放送大学は社会人の大学なので、制度的な問題も理解していただけるでしょう。

「市場原理」の働くところ、コストはかかるのに投資効果が目に見えにくい科目は、定期的にリストラの嵐にさらされます。かつて東京大学教養学部のカリキュラム改革にかかわって、それなりに多様で新鮮な教育プログラムを立ち上げることが出来たのは、本当に幸運なめぐり合わせでした。しかるに、考えてみればその後はずっと、ひたすら「市場原理」との闘いでした。いじけているわけではありません。外国語と文学を担当する教師であることを、わたしは誇りに思っています。

この5年間に開発した様々の教材と、何ものにも替えがたい人間のネットワークを基盤にして、新しい「共通教材」を立ち上げます。関東一円で開講される初修外国語の面接授業は、さまざまの事情で変動はありますが、1年でおよそ100科目ほど。その運営が支離滅裂にならぬためには、一貫したヴィジョンのもとに、これを組織することが必要です。科目ごとに「共通教材」を制作し、これを共有したうえで、あとは担当講師の個性を活かした授業をやっていただこう。これが着任した年度の終わりに立てた企画です。

本年度、南関東の学習センターで開講されている外国語は、さまざまのレベルの英語のほか、中国語、韓国語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、アラビア語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、インドネシア語、フィリピン語(タガログ語)、ベトナム語の計12カ国語になりました。いずれの授業も、ゆたかな留学経験をもつ第一線の研究者が担当しています。

初歩の外国語の授業には、2つの柱があります。第一は、コミュニケーションの楽しさを実感できるような授業。これは一方通行の放送授業がかかえる限界を補うため。第二は、学問的な知見に支えられた文化論を臨機応変に導入する授業。受講者が経験を積んだ社会人だからこそ、担当講師の高い志が通じるという嬉しい印象を、わたし自身も、いくたびとなくもちました。

第三の方針として、あらたに「多言語主義」という言葉を掲げたいと思います。ひとつの外国語をマスターできるような教育システムを、残念ながら放送大学は提供することができません(それぞれの外国語に配分される放送授業は、わずか1~3科目です)。その代わり、というのも何ですが、初歩のレベルではあるけれど、たくさんの外国語に親しんでいただきたいのです。

目標は:
① 文字が読める/発音できる
② 挨拶や自己紹介ができる
③ その国の文化や歴史について、正しい基礎知識を身につける

ご記憶の方もあるでしょうが、横浜市立「いちょう小学校」とその「多言語主義」の試みに関する「朝日新聞」の記事を、以前にご紹介したことがありました(2008年8月12日のブログ)。その記事の見出し「10カ国語の『おはよう』」をもじって、「12カ国語の『こんにちは』」というモットーを掲げましょう。放送大学の学生さんたちにも、地域社会の「多文化共生」をめざし、能動的な市民としての異文化理解のマナーを身につけてほしいという意味です。

この課題に応えるためには、アジアの言語と文化に関する科目を補強することが欠かせません。手始めに、面接授業担当講師の方々が制作してくださった「初めての韓国語」の教材を、このサイトに立ち上げます(クリックしてください:「初めての韓国語(発音編)」「初めての韓国語(会話編)」)。

これまで面接授業の工夫と改善には、ずいぶん力を注いできました。低コストで即効性が期待されるという戦略的な理由もあります。ところで「市場原理」という勝てぬ相手と闘うために、もっとも強い味方は、このサイトを読んでくださる学生の皆さんです。

いかに講義の質を高めても、少数の参加者しかいない授業は「風前の灯火」なのですから。まずは、たくさんの外国語を片端から履修してください! 多様な言語と文化に親しむことにより、おのずとグローバル化の時代にふさわしい「異文化理解」の道が開けるにちがいありません。

さらにもう一点。以前から気にかかっていたことですけれど、サポートの意見、新しい科目の要望なども、積極的に学習センターの窓口や担当事務に届けるようにしてください。個人的な苦情やクレームばかりが教育の現場に持ちこまれ、創造的な努力が評価されること、いや認知されることさえないとしたら、それはいかにも残念な話ではありませんか。