工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for コレット

コレットに誘われて

2010年 12月 1日

コレットをめぐって思いがけぬ人と人とのつながりが生まれています。映画の公開に合わせて『シェリ』の新訳を刊行するという話にしても、十数年も前に出た文庫本1冊だけじゃ、プロモーションになりません、なにか形にしてくれませんか、という映画配給会社セテラ・インターナショナルのひと言に、つい、その気になってしまったからですし。わたしはどうやら、誘いに乗せられやすいタイプのようです。

銀座マキシム・ド・パリの朗読会は、レストランとセテラ、池袋コミュニティ・カレッジ、そして版元の左右社と共同の手作り企画でした。マキシムの豪華なベル・エポック風ディナールームは、もとよりイヴェント会場ではありませんから、当日は、関係者がそれぞれコレットの写真パネルやパソコンやピン・マイクまでもちこんで、なんだか学園祭のような雰囲気。レアやシェリが出入りしたような空間で、レアやシェリが好んだにちがいない昔風のヘルシーでしっかりした肉料理をいただいて───デザートの甘く冷えたサクランボのスープは想像以上に美味でした───それから『シェリ』の翻訳を会場の皆さんとともに読む。わたしにとっても、心浮き立つ贅沢な時間でした。

コレットは晩年に文壇の重鎮になってからも、厳めしい研究者たちが君臨するアカデミックな世界には近づこうとしなかった。だから、わたしも大学の外に出て「プロモーション」をやろうと思っているわけです。それにしても朗読などとは無縁だった教師が、いきなり何を思いついたのやら、とお考えでしょうね。10月のエッセイでもご紹介しましたが、あらためてプルーストの文章を引用しておきましょう。

今回は、書店にならんだばかりの吉川一義さんの新訳で───既訳をおもちの方も、ぜひ岩波文庫を手にとってみてください。力強くイメージを喚起するみごとな日本語、読書の導きになる簡潔な訳注、研究者の目でひとつひとつ丁寧にえらんで解説をつけた豊富な図版。すばらしい出来栄えだと思います。

母がジョルジュ・サンドの散文を読むときは、〔…〕その声から注意ぶかく卑小な気取りはすべて排除し、そこに力強い流れが入りこむよう工夫したうえで、まるで自分の声のために書かれ、すべてが自分の感受性の音域に収まるように感じられる文章に、その文章が求める自然な愛情と、豊かで優しい気持をたっぷり注ぎこんだ。文章をふさわしい口調で読むにあたり、言葉では示されていないが、文章が生まれる以前に存在し、その文章を書き取らせたはずの温情あふれる調子を見出したのである。

『失われた時を求めて』の語り手にとって、幼いときにお母さんが、こんなふうにして読んでくれたジョルジュ・サンドは、理想の書物、理想の朗読となるのです。そうしたわけで、こと朗読にかんしては、発声や滑舌や演技の訓練よりもっと大切な、何かがあると思うのです。それを開かれた実践的な場で、参加者とともに考えてみようというのが、わたしの企画。

「声に出して読む翻訳コレクション」と銘打った新刊『シェリ』に、さっそく目をとめてくださったのは、アルク『翻訳事典』の編集部。先日、左右社も同席して、わたしの家でインタビューがあったのですが、朗読CDのコレクションなどをご披露しているうちに、すっかり話がもりあがって、今度は、アルクの編集部が主体となって、気軽なカフェで朗読会をやりましょうということになりました。

おそらく3月の初め、都内某所のお洒落なカフェで。詳細は1月刊行の『翻訳事典』あるいはアルクHPでどうぞ。それにしても、こんなふうにコレットがきっかけになり、いってみれば市民的な読書運動がひろがってゆくのは、本当に頼もしい。大学に囲い込まれた古典文学では、こうはいかないでしょう。

「朗読カフェ」の構想をあれこれ考えています。『シェリ』についても、まだまだ話題はありますが、短篇などの新訳も読んでみたいと思っています。テーマは、そう、たとえば母娘の関係とか。なにしろコレットの母親シドというのは、近代フランスの家族制度を語るとき、かならず言及される魅力的なプロトタイプらしいのです。今日でも、ちょっと教養のあるフランス人なら、自分の個性的な母親をシドになぞらえるのが手放しの自慢話であることは、暗黙の了解でしょうね。生身のシドと、コレットの文学のなかで「神話化」された母のイメージとのあいだには、無視できぬ距たりがあるともいわれますけれど、これはまあ、よくある話。さしあたりはモデル問題にはかかわらず、まずは作品を紹介してみたい。

『夜明け』という作品は、老いを予感する年齢のヒロインが、年下の男性の愛を拒み、独りで生きてゆこうと決意する物語。『シェリ』の発表から8年後、50代半ばのコレットは、腰を据えて「女の諦念」を描き出すいっぽうで、私生活では貪欲に、生涯の伴侶となる年下の男性を受けいれている。とにかく一筋縄でゆかぬところが、いかにもコレットらしいのですが、その『夜明け』の冒頭で、語り手は自分の母親が以前に書いた手紙を紹介し、自分はこのような母の娘なのだ、と誇らしげに宣言しています。

それは田舎に住む母が、コレットの二番目の夫の招待を断ったときの手紙です。大切にしているサボテンが、もうじき薔薇色の花を咲かせるようだから、そしてこの貴重な花は、4年に1度しか開かないそうだから、わたしは今、旅に出るわけにはゆきません、せっかく愛しい娘にゆっくり会える機会をつくってくださったのに、申しわけありません、でも、わたしはもう4年後には生きていないと思うので……という文面。

棘だらけの熱帯植物のうえにかがみこみ、熱いまなざしをそそぐ母、翌年には世を去ることになる老いた母の姿を、語り手は鏡に映った自分に重ねてみるのです。ぬくもりと隙間風、そっと突き放す仕草と強烈な執着が、不思議な静けさのなかで同居するような、なんとも微妙な人生の二重奏。ここに「自立した女どうしの健全な母娘の関係」などという型どおりのレッテルを貼ってしまうのは、あまりに粗雑だろうという気がします。

幼いころの思い出をつづった『クロディーヌの家』や、亡き母にささげられた『シド』などの短篇を、いくつか読み解くうちに、「新しい母親」の娘としてのコレットが見えてくるかもしれません。

今回の写真は、新訳刊行のお祝いという気持をこめて、幼少のプルーストにまつわるイメージを……。
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コレット+ココット

2010年 11月 4日

ウェブサイトの波及効果もあるらしく、先日の公開ゼミには学外の方々、とりわけ映画関係、出版関係の方々も参加してくださって、開かれたキャンパスというイメージになりました。『わたしの可愛い人―シェリ』の字幕翻訳を担当なさったベテランの古田由紀子さんと、生まれて初めて字幕監修をやったわたしとのトーク・セッション。あのときの聴衆は、このサイトを再訪する可能性も高いので、会場の発言を思いだしながら、つづきのおしゃべりです。

女の諦念がすべての執着に打ち勝って、6年越しの愛に決着をつけることになる大団円。小説のレアは、自分を「婆さん」というどぎつい言葉で形容するけれど、映画のレアは「老いた女」という。どんなふうに訳語をえらぶのか、という質問がありました。古田さんのお答えは:ミシェル・ファイファー演じるレアについては、映像が凋落する女の美をそれなりに美しくまとめようと配慮しているのだから、それにふさわしい穏やかな言葉をよりそわせる、というもの。この感覚、よくわかります。

小説の場合、老いの残酷な刻印を、どこまで露出させるのか、という迷いはつねにありました。うら若い娘と結婚したシェリが、心の安らぎを見いだせぬまま数ヶ月を鬱々と暮らし、あるとき前触れもなく深夜にレアの家に闖入する。その翌日のやりとりです。

「だからさ、わかるでしょ、ヌヌーン、そんな生活が何カ月もあってさ、それでぼくはここにきたんだ、そしたら……」
 彼はあやうく口許まで出かかった言葉にぎょっとしておし黙った。
「それであんたはここにやってきて、ひとりの婆さんを見いだしたってわけよね」彼女は弱々しいけれどおちついた声で言った。
「ヌヌーン、ねえ、ヌヌーン!……」
 彼はいきなりひざまずいて彼女に身をすりよせた。その顔には、なにか失敗をしでかしてそれをごまかす言葉が見つからなくなった子供の困惑した表情があった。
「それであんたは、ひとりの婆さんを見いだしたってわけよね」レアがくり返した。「あんた、いったいなにが心配なの、坊や?」

シェリがあわてて飲みこんだ「婆さん」という言葉を、レアは弱々しいけれどおちついた声で反芻したのです。小説の翻訳として、ここは「老いた女」ではありえない。これまでもレアは、仲間の女たちについては平気で「婆さん」という言葉をつかっているのですから、語彙はむしろ日常的なのですが、ここでは「婆さん」という語彙の石ころのように無粋な物質性が効果を発揮するはずです。ひと言いいそえれば、vieille femmeに相当する日本語のパレットに、たとえば「老いた女」「婆さん」「老女」「老婆」という語彙がある場合、これを4つのカラーのように使い分けようという話。小説の幕切れで、縦長の鏡にうつるレアは「老女」です。

50歳を目前にして現役の「ココット」の輝きを失わぬレアが、こうしてひそかに「婆さん」というレッテルを引きうけます。女の人生のもっとも哀切な瞬間といえましょう。コレットの小説には、酷薄な一面があるとわたしは感じています。訳文には作品の解釈とも同調する個人的な「感じ」が反映されており、こうした次元で「翻訳者」は「演出家」になるのかもしれません。

ところで映画は風俗を贅沢に見せてくれるという意味で、外国文学の補助教材にうってつけ。とりわけ「ココット」(高級娼婦)という職業については、プルーストの映画化―1983年の『スワンの恋』と1998年の『見いだされた時』―よりも、即物的にわかりやすい資料になっているという気がします。

ゼミでとりあげた場面は2つ。まずは温室のようなサロンで、引退したココットたちが談笑しているところに、70代の女と10代の少年からなるグロテスクなカップルが登場する場面。そして南仏のホテルで休暇をとっているレアが、なぜか「プロフェッショナル」として行動してしまうエピソード。

筋骨隆々の「大馬鹿者」をレアが自分の部屋に招じ入れる場面について「あとでレアはお金を受けとるのでしょうか」という質問があり、「ココットは小銭はうけとりません」とわたしは答えたのですが、それ以来、なんとなく考えつづけています。ほかにアイデアがないから仕方ないとはいえ、「高級娼婦」という訳語は、やっぱりわかりにくい。娼婦の定義とは、女性という「セクシュアリティ」をお金に換えること。「高級」であればあるほどに「安売り」はしないのです。

コレットを読んでいると、たえずプルーストが念頭に浮かびます。なにしろ『失われた時を求めて』はあれだけ長い作品ですから、それこそ全部、詳細に書いてあるのですよ。スワンがオデットにお金をわたすようになったいきさつから、だんだんと贈り物が派手になり、ついには結婚という最も安定した経済効果が贈与されるまで。商品化されたセクシュアリティとしてのココット、というテーマで、じつは今回「コレット+ココット+オデット」と3つ韻を踏んだタイトルのエッセイを書こうと思ったのですが、これは新書ネタほどのスケールになりそうな話題なのであきらめました。

ところでココットがわからないとフランスの世紀末とベル・エポックの文化はわからないという説があるようです。これを男性がおっしゃると、あら、そういう話がお好きなのね、などといいたくなるのは、たんなる皮肉。それにしても「ココット」という職業、そして「裏社交界」と呼ばれる社会空間を、文化的な付加価値をもつ時代の副産物として片づけるわけにはゆきません。

そもそも男性の「セクシュアリティ」をめぐる批判的な議論がないのは片手おち。19世紀のブルジョワ階級が醸成したモデルでしょうけれど、家庭では貞淑な妻、一歩外に出れば浮気な商売女と二股をかけることが、男の甲斐性のようにみなされる風土がありました。これをみごとに形象化したのがフローベールの『感情教育』で、舞台は世紀半ばのパリ。主人公のフレデリックはアルヌー夫人に思いをよせながら、ご亭主のアルヌーに囲われたロザネットにも手を出してみる。ライヴァルの「二股方式」を忠実に見習おうとするわけです。こんなふうに「コレット+ココット+オデット+ロザネット」と話題をひろげれば、ハードカヴァーの単行本が出来そうですけれど、それにしても、この押韻は偶然でしょうか。

要するにいいたいのは、「姦通小説」にせよ「ココット」にせよ、華やかな文化遺産として愛でるだけでなく、社会の「ジェンダー構造」を分析してほしいということです。異性への憧れとマゾヒズムがないまぜになったような感想文や、セクシュアリティをめぐる消費者マインドが透けて見える、したり顔の論説を読むと、いきなり話を飛躍させ、西洋近代の延長上に日本の現代社会があり、それで今でも女の子たちは苦労をしているわけですよ、と啖呵を切りたくなったりするのですから、困ったもの。

さて、マキシム・ド・パリの朗読会の準備をしなければなりません。メニューはコレットのレシピなのですが、とりわけ楽しみなのが、Soupe de cerises ―語感が素敵ですし、やけにシンプルなレシピなので、本当に美味しいのかしら、と以前から思っておりました。

コレットは、自分で野菜を作り、お料理もやって、美食エッセイを書いた人。台所をさぼりたい日には、ハムを一切れ、残りもののチーズ、なんて具合につまみぐいするのもわるくない、作るのは「桜ん坊のスープ」のみ、という話ですから、レシピが簡単なのは当然ですけれど、とにかく文章のオチがいい。C’est effrayant ce qu’on peut ingurgiter quand on ne mange pas…「きょうは食べないなどといいながら、ついついingurgiterしてしまうのだから、困ったもの」というときの、ingurgiter ―フランス語の辞書ではavaler avec avidité, souvent en grande quantité. 仏和辞書では、「がつがつ食う」「むさぼり食う」。言葉の美食家コレットの訳語としては、もうちょっと美味しそうな日本語がほしい。。。
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コレット三昧(3)

2010年 10月 2日

『シェリ』の原稿が手をはなれ、来年度開講の『世界の名作を読む』(改訂版)の収録がおわり、印刷教材7章分を入稿して、さあ、これで当面はノルマから解放! という気分のときに何をやるか? プルースト『失われた時を求めて』の全巻朗読(CD 111枚)をiPodのスピーカーでかけっぱなしにして、のんびり家事をやっています。蛇口をひねれば声は聞こえなくなるし、ときには聞いているつもりで考えごとをしていたり……、なんとも散漫な聴き手ではありますけれど。

気に入りの断章が耳に入ってきて「星から星へ」という鮮烈なイメージを思いだしました。作曲家のヴァントゥイユや画家のエルスチールについて語り手がいうところは、むろん文学についても参照できる話であって、強引に要約すると:かりに私たちが翼をもち特殊な呼吸器をそなえて広大な宇宙を横切れるようになったとしても、同じ感覚をもちあるいていれば、火星や金星にも地球上の物と同じ外観を与えてしまうだろう。生命が若返るような、本当の旅というのは、あらたな風景を求めにゆくことではない。別の目をもつこと、他人の目をもって宇宙を眺めることなのだ。それを可能にしてくれるのが、ヴァントゥイユやエルスチールの芸術であり、おかげで私たちは本当に「星から星へ」と飛翔することができる……。

この芸術家の目を借りれば、未知の宇宙が、さながら星々のあいだ遊泳をするかのように見えてくる。そのような確信をわたしにもたらす作家といえば、まずはプルースト。そしてフローベール。さらにコレット。十数年まえに訳した『シェリ』を一語一語みなおして、長い解説を書いたことで、すくなくともコレットの目と身体感覚を多少は自分のものにできたような気がしています。

次元をかえて、「声に出して読む翻訳コレクション」の構想について語りましょう。すでに岩波文庫という「権威ある器」におさめていただいた翻訳を改訳するなどは不遜なこと、という厳しいご批判はありました。でも新しい書物が誕生すれば、かならず作品は若返り、読者層は広がります。大切なのは「コレットの文学」であって、翻訳者の立場などではありませんし、さらにいうなら、映画の公開というチャンスにめぐまれた2010年の秋に、どうしたら新鮮なコレット像を日本の読者に手わたすことができるのか、という問いでしょう?

放送大学で得た収穫のひとつは、番組制作をとおして音声と文学の関係を考えたこと。「世界の名作を読む」の改訂版では、いくつかの作品を自分で翻訳し、朗読しています。ちなみに『失われた時を求めて』の冒頭近くに、語り手がまだ幼かったころ、ベッドでお母さんがジョルジュ・サンドの作品を読んでくれたというエピソードがあります。お母さんの読み方は、作家の文章が書かれる以前の、つまり文章が書かれる源泉となったはずのaccent cordial(井上究一郎訳は「心の格調」、鈴木道彦訳は「心のアクセント」)に一体化して、独特の憂愁や優しさを見いだし、リズムや緩急の変化を生みだしながらune sorte de vie sentimentale et continue(井上訳は「感情のこもった、持続的な一種の生命」、鈴木訳は「どこまでもつづくいとしい思いのこもった一種の生命」)を文章にあたえる、というもの。抽象的すぎるでしょうけれど、これが初心者でシロウトのわたしが思い描く朗読の理想です。

『シェリ』もすべて音読して、訳文に手を加えました。耳で聴いただけで、場面の展開や、印象のつらなりが、自然に再現されてゆくように。語彙の選択よりむしろ、語順や句読点の工夫です。フランスにかぎらず欧米では──いや、じつは世界中の文学についていえると思うのですけれど──文学作品が誕生するプロセスにおいても、これが鑑賞される場面にも、朗読といういとなみが深く係わっている。いいかえれば原典は音読を想定して書かれているのに、翻訳は黙読が前提になっている。これが朗読会や音声メディアで翻訳物がとりあげてもらえない大きな理由ではないでしょうか。

「訳者解説」では、そうした翻訳の工夫についても報告しましたが、ほかに、どんなことを書いたかというと:
①いわゆる韓流とコレットについて。女性が自分の年齢もかえりみず若者の美を愛でることは「見苦しい」という文化的規範が、日本でゆらぎはじめたのは、ようやく10年ほど前のことですからね。1世紀おくれています。
②コレットと同世代の日本の女性作家たち、とりわけ「青鞜」の平塚らいてうについて。そして「一人称にてのみ物書かばや。われは女(おなご)ぞ」と高らかに謳った與謝野晶子について。
③女性作家による「ココット」(高級娼婦)をヒロインとした小説──これはジェンダーの歴史と文学史における画期的な「事件」であるはず。デュマ・フィスの『椿姫』は男の身勝手と自虐的な願望が透けてみえるという話は、先回のエッセイにも書きましたけれど、コレットは、それまでの男性作家による「娼婦もの」にお決まりの構図を完全に反転させた。まさに新しい宇宙を見せてくれるほどの力業だと実感しています。ただし、これを論証するためには、コレット論では足りない。ヨーロッパ近代文学を土台にして大きな枠組みを構築する必要があるでしょうね。
④ 深尾須磨子のコレット論。生身のコレットに親しんだ唯一の日本女性でしょう。菜園に植えた薄荷の匂いにむせながら、ふたりで飲んだお茶。サロメさながらの存在感。「ひもじい」と叫ぶほどに旺盛な食欲、スポーツや畑仕事にも熱中する……、健康で貪欲で鋭敏な身体と「小石がちの小川のせせらぎ」のような不思議な声をもつ異国の女性作家が、まさしく「一人称」の視点から描かれています。

……という具合に、ずいぶんと欲張った「文学講義」なのですけれど、じつは、このシリーズには「世界の名作を読む」のサブ教材としてのねらいもあります。それで「放送大学叢書」と同じ、軽くてすっぽり手に入り、文字もゆったりして読みやすい版にしてもらいました。ただし「講義」とはいえ「専門家」の権威とは無縁。むしろ翻訳とセットにして作品の読み方やアプローチの実例を提案し、作家の世界へといざなう、とでもいいましょうか。むかしの文庫本の解説には、作家の伝記や文学史の基礎知識をふまえて粛々と……というタイプのものが、すくなからずありましたが、それはもうWikipediaでじゅうぶん、と、ある編集者がいっておられた。そのとおりだと思います。それに、十数年まえとまったく同じコレット像が、同じ宇宙の同じ星として見えているのであれば、訳者としても、新しい書物を世に送る資格はありませんものね。

朗読の話にもどりましょう。日本の朗読文化は、まさに文化として未熟なのだろうという気がします。発声や発音を訓練し、あとは、ひたすら「感情をこめて」読めばいい? そんな簡単なことではないはず。的外れな「思い入れ」は、聴く者を白けさせるだけでしょう。作家のaccent cordialを見いだすこと。それぞれの文章にune sorte de vie sentimentale et continueをあたえること。求められているのは作品への深い共感、理解しようとつとめる謙虚な姿勢、そしてゆたかな文学の素養です。プルーストの思い描く「理想の朗読者」とは「理想の読者」なのであり、そのモデルは、語り手のお母さんにほかなりません。

さて、プルーストを引き合いに出したあとで、畏れ多いのですが、コレットの朗読イヴェントをご紹介しておきます。11月17日(水)、場所は銀座のマキシム・ド・パリ。食いしん坊のコレットのレシピのランチだそうです(小さい声でつけたせば、放送大学の学生さんは、同じ投資をするなら、面接授業を履修して、本を買ってちょうだい、というのが本音ですけどね)。コレットは文学作品を世に送りだすためなら、舞台でも、映画でも、朗読でも、トークでも、なんでもやりました。わたしは訳者としてのお手伝い。70を過ぎても「新しもの好き」だった作家のエネルギーと気っ風のよさに学びたいものです。
http://www.cetera.co.jp/cheri/news/index.html

10月31日、放送大学世田谷学習センターにおける公開ゼミ「コレット『シェリ』―小説・映画・翻訳」については、こちらをご覧ください。
公開ゼミのお知らせ(PDF)

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コレット三昧(2)

2010年 9月 7日

まずは放送大学の活動のご報告から。10月5日(火)、東京世田谷学習センター主催の研修旅行(横浜山手)は、おかげさまで、ほぼ満席になりました。つまり今回は宣伝ではなくて、前倒しのガイダンス。なにしろ猛暑のなか、わざわざ下見に行ってきたのですから、ちょっとは自慢しなければ……。横浜開港資料館は、午前中に見学する世田谷美術館とはまったくタイプの異なる文化施設。港町の風景にとけこんだ歴史的建造物、学芸員の方々の研究成果である企画展(PDF)と常設展、そして一般の市民に開放された閲覧室。これら三つのスポットを、自分の目でたしかめていただきたいのです。

とりわけ整理されたアーカイブが開架式で手に取れる「閲覧室」は、しっかり見てほしいですね。日本で初めて発行された日刊紙「横浜毎日新聞」の創刊号とか。何種類もある英字新聞とか。外国人の書いた見聞記や旅行記など「文明開化」の関連図書も書棚にずらりと並んでいます。本当の資料調査というのは、紙くずの山で宝探しをするような徒労感を伴うものだそうですが、こうした既成のアーカイブを活用すれば、資料を分析して論述するという研究の手法を、すぐにでも学ぶことができる。こういうものを見ると、思わず教師根性がうずいちゃうのですが、放送大学の学生さんに、お勧めの文化施設です。

自由行動は山手の丘へ。企画展で外人墓地の資料を見て、現場に足をはこぶ。そして観光とはちがう知的な散策を楽しんでいただきましょう。そうそう、地下鉄みなとみらい線の終点、元町中華街に「アメリカ山」にあがるエレベーターとエスカレーターが最近、設置されたのです。がらんどうのビルのてっぺんから表に出ると、えーっという感じにさわやかな視界が開け、そこから外人墓地は一息です。

もっとも山手の丘と元町のあいだは、それこそ歴史の時間が堆積する土地ですから、ほんとうは乗り物にたよらず、小さな記念碑などを見つけながら、ゆっくり歩いてほしい。それに───これは「研修」のガイドではありませんけど───ショッピングだって、元町の目抜き通りは知られたブランドのお店が多い。裏通りのこぢんまりしたブティックをのぞいて歩いたほうがずっとお洒落ですよ。

***

さて、本題のコレットです。10月初め刊行予定の『シェリ』を入稿したところ。とてもかろやかで美しい装幀になるはず。次回のお披露目のときに、音読を想定した翻訳とか、文学講義とか、いささか欲張りな書物の構想についてお話します。

本日は映画『わたしの可愛い人―シェリ』(http://www.cetera.co.jp/cheri/)の宣伝です。東急文化村、10月公開。まずミシェル・ファイファーのレアはわるくありません。五十路を目前にした女性が、色気も容貌もしっかりたもち聡明に生きる、という設定です。十数年まえに岩波文庫の『シェリ』を出したときから考えていたのですが、日本でやるなら、当時の吉行和子。

息子ほど歳のちがう美青年役のルパート・フレンドは、もちろん合格なのですけどね。で、日本でやるなら? 藤原竜也かな、とコレットを知りつくした友人がいっていました。わたしは、なんだかちがう。だれでも理想の「シェリ」のイメージをもっているものでしょう。

映画にしてしまうと男と女が同じ平面にならんでしまうので、小説の場合ほど明確にわからないけれど、これは女が自分の幸福を追い求め、自分の人生に決着をつける物語。しかもヒロインは「ココット」つまり「高級娼婦」なのですよ。男性相手の「遊び女」がヒロインの小説といえば、たとえば『椿姫』ですが、こちらは男の目線で健気(けなげ)な女をうたぐったり、捨てたりする話でしょう?『シェリ』の場合、コレットは続編を書く、そして居場所のなくなった美青年の自死によって、レアの世界の幕引とします。

だから映画のラストで『シェリの最後』の結末をナレーションで伝えるという選択は、これもいいだろうという気がしています。クリストファー・ハンプトン監督によれば、そうしないと、レアは寂しく老境に入り、シェリは若い妻のもとに颯爽ともどってゆく、という妙な読解をまねいてしまう、じっさいレアはそんなひ弱な女ではない、というわけです。

息子ほど年齢のちがう美青年を愛でる───そう、「韓流」という言葉が誕生したときに、これって、一世紀おくれのコレットじゃない?と思ったものでした。いや、自分を律するという意味では、レアのほうが現代日本の五十代の女性より先駆的かもしれません。愛する以上は、相手に愛されて不思議はないと世間に思わせる女でありつづけること。これが「ココット」としてのレアの心意気でした。こんな具合に、娼婦を気っ風のいい女に仕立てることは、男の作家にはできませんよ。デュマ・フィスの『椿姫』なんて、男の甘えや身勝手や被害者意識が丸見えではないですか。それでも名作は名作なのですが。

けっして犠牲者にはならない女───ミシェル・ファイファーは、そうしたヒロインにみごとになりきった、というところで納得。キャシー・ベイツはシェリの母親。意地がわるくて食わせ者、だけど目がはなせない女、これも、はまり役でした。あとは、アール・ヌーヴォーのベッドや室内装飾や建築、ゴージャスな海辺のホテル、洗練された衣装、陽光を浴びる美しい自然、などなど、目の贅沢を楽しんでください。

ところで、もちろん例外の方々もたくさんいるわけですが、それにしても日本の男性は、フランス19世紀のロマン派みたいに処女幻想から抜けきれぬ中高年の方々か、あるいはいきなり草食系の若者たちか、全体が二分されているような感じがしません? 成熟した女の魅力がわかる男は成熟した男とみなしてあげますけど、とコレットならいうでしょうね。コレットのわかる男は素敵だといってあげますけど、と女たちがキャンペーンでもやるか。。。

閑話休題。
予告した公開ゼミの日程が決まりました。

コレット『シェリ』―小説・映画・翻訳

 映画『わたしの可愛い人―シェリ』(東急文化村)の公開と原作『シェリ』(左右社)の翻訳刊行に合わせたトークセッションです。ゲストは映画の字幕を担当なさった翻訳家、古田由紀子さん。これは「公開」ですから、放送大学の学生さんでなくても参加できます。学習センターを見学するおつもりでどうぞ。緑濃いキャンパスと宮沢賢治の小学校のような時代がかった校舎がとても好きなので、引退まであとしばらく、ここで町医者みたいな先生をやってみようかな、と思っているところです。

於:放送大学東京世田谷学習センター
日時:10月31日(日) 
時間:14h30~16h00

終了後、1時間ぐらい、出席者と自由にやりとりする枠を設けたいと思っています。どのぐらい参加者があるか全然ないか、見当もつかないので、いささか不安ではありますが、申し込み方式はとりません。当日、おこしください。参加の条件は、大学のゼミにふさわしいマナーを守るという一点のみ。
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コレット三昧(1)

2010年 8月 14日

「わたしの可愛い人―シェリ」が10月中旬に東急文化村で公開されます。スティーヴン・フリアーズ監督。ミシェル・ファイファー、ルパート・フレンド、キャシー・ベイツ、等の豪華キャスト。といわれても、映画は昔々「ゴジラ」を見たぐらいで……、というのは大袈裟としても、まじめな話、文芸作品の映画化というのは、原則として苦手です。『ボヴァリー夫人』で心から納得できたのは、オリヴェイラ監督の『アブラハム渓谷』───そう思って見なければフロベールの引用など見落としてしまいそうな作品ですけれど。

ところが、今回の『シェリ』は、なぜか、とてもいいような気がしています。そもそもコレット自身が、教条主義的な「文学至上主義」と無縁だったせいでしょうか。自作の小説を戯曲版にして自分でヒロインを演じてしまうとか。映画化とか。あるいはブロードウェイのミュージカルとか。とにかく小説の「複製」が生産されて、大衆にアピールする類似品が世に出てゆくことを楽しんでいた。文学的な感性という意味で、コレットは、明らかに「ポストモダン」の側面をもっています。

華奢な現代っ子のシェリと聡明で品のよいレアのカップルが英語で愛を語り合っている光景を、もしコレットが見たら、「なかなかいいわ」のひと言だったと思います。「日本語版もいろいろあってもいいわね」とコレットならいってくれると思って、「声に出して読む翻訳」というシリーズものを企画しました。とにかく文学や人文学は、機会があればいつでも誠意をもって、新しい素材を読者に手わたすように努めるべきだと思っているのです。

なにしろコレットは、放送大学むき! なのです。学歴は高等小学校ぐらいでしょうから、生涯学習の見本みたいな努力家ですし、後期高齢者の歳になっても、水準の高い仕事をしていますし。そうそう、文学の「複製」を歓迎するといっても、作家としての彼女が、売れそうな小説をてっとりばやく書き流していたという意味ではありません。

ある批評家が、コレットは「文体に、ちょうど牝猫がその毛並みに完全を期すように振舞う、あの勤勉さと同じ熱意をもって磨きをかける」と指摘しているのですけれど、これはコレットのフランス語に親しんだ翻訳者として、まさに言い得て妙という感じです。一糸の乱れもない文体をフロベールのそれになぞらえる人もいて、だからこそ、彼女は最終的に栄えあるゴンクール賞の審査委員長までつとめたのでした。2回離婚して3回結婚したとか、『シェリ』の物語をなぞるように義理の息子を愛してしまったとか、当時の市民的な良識からすれば、かなり破天荒な人生を送ったにもかかわらず、国葬という栄誉を贈られたのも、文学における功績が文句なしに圧倒的なものであったからにほかなりません。

現在、基礎科目『世界の名作を読む』の改訂版を制作中なのですが、その最終回を「女性と文学」というタイトルにして、ヴァージニア・ウルフとコレットをならべてみました。そこへ、ちょうどよいタイミングで映画の公開という話が舞い込んだわけ。面接授業にも活用できますし、作家に対して良質な関心が高まるように、ここは努力のしどころ、じゃありませんか。

この科目の印刷教材には、作品の朗読(もちろん翻訳)が数時間分、CD-Rのサブ教材と添付されています。ちなみにウェブにも2007年度版のサンプルが立ち上げてあります。
http://www.campus.u-air.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/index.html
今回は予算の関係もあり、一部のテクストを自分で朗読してみたのです。勉強になりましたねえ……。音声と小説テクストの関係を本気で考えることになりました。「音読」を想定した翻訳には、「黙読」を想定した翻訳とは異なる工夫が必要だということ。それが「声に出して読む翻訳」というシリーズの提案につながったのですが、この話は長くなりますので、次回に。

映画の公開に合わせて、映画配給会社(セテラ・インターナショナル)と出版社(左右社)とタイアップしたイヴェントがいくつか計画されています。左右社の新シリーズにおさめられる『シェリ』の刊行は9月半ばの予定。それから今回、はじめて映画字幕の監修という仕事をさせていただいて、これがとても面白かったので───映像と文字情報の読み取りという問題です───いずれ世田谷学習センターの公開ゼミで、その話をしようかと思っています。来年度1学期の面接授業はコレットですから、その予習(予告編?)にもなるでしょう。

コレットとは関係ありませんが、10月5日(火)、世田谷学習センター主催の研修旅行(横浜山手)についても広報活動をしておきます。企画責任者として名前を出したのは、後半の横浜開港資料館は学芸員のガイドをお願いできない組織なので、自分で資料を調べてガイドをしてしまおうか、と思っているからです。
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放送大学の学生さんを見ていると、外国のことに興味はあるけれど、外国語が苦手なので、という、文化的引きこもり(?)タイプの人が少なくない。文明開化は、日本語で読める資料は山ほどあって、しかもコスモポリタンな展望にふれることができますから、とてもいい研究テーマです。

もちろん個人的な関心という動機もあります。「女性と文学」についても「政教分離」についても、やはり日本との比較という視座は欠かせない。という当たり前の課題に、ようやく向き合う心のゆとりが、少しは出来てきたところです。ちなみに「政教分離」に関心のある方、ぜひ島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)を読んでみてください。わが国の「宗教的な事象」は本当に複雑でありまして───カトリック世界とは全く異なる方式で───公と私、祭祀と政治、天皇と神社、国家と地域社会、国民教育と信教の自由などの主題系が錯綜し、相互に絡み合っている。その特異性を解きほぐし、問題点を明らかにしてゆく手さばきに感服しました。そして(唐突な感想だと思われるかもしれませんけれど)、学問のグローバル化とは、こういうことなのだ、と感じ入りました。

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