工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

Archive for 外国語学習

「普遍」と「特殊」あるいは「契約」としてのライシテ? (付録:面接授業「シャンソンで学ぶフランス語」テクスト)

2008年 11月 25日

相変わらず考えています。11月末にJean Baubérot氏が来日するというので、羽田ゼミの聴講生(?)としては、6~7月のブログにつづくリポートを。2004年の「スカーフ禁止法」を方向づけた「スタジ報告書」については、すでに話題にしましたが(6月18日)、そのテクストを読みながら、気になる語彙を拾ってみました。

まずは第1部のタイトルに「ライシテ、普遍的原理、共和国の価値」とあるのですけれど、これが「自由・平等・友愛」みたいに並列された語彙なのか、等号で結ばれているのか、それとも三角形の内部に論理構造があるのか、謎なのです。ここで「普遍」というのは、世界中どこでもア・プリオリに通用する絶対的な真理という意味?おそらくさほど単純な話ではない。

この「普遍」を説明している文章が「スタジ報告書」にひとつだけあります――「ライシテは普遍的な目標であって、宗教の教義と社会を律する法の両立が求められる」(テクスト段落:1.2.3)。なるほど。しかし、なぜライシテは「普遍的な目標」なのでしょう?

一方ではparticularité, singularité, exceptionといった語彙を使って「フランスの特殊性」とか「例外としてのフランス」などとよく言いますよね。ウェブで検索してみるとわかりますが、郊外暴動やライシテ関連の用例が圧倒的に多いはず。社会や歴史の具体的な側面において、フランスにはフランスの固有性=特殊性がある、ということであれば理解できます。1905年に、いわゆる「政教分離法」が制定された当時、これがフランスという国家とカトリック教会との「離婚」という決断の法制化であったことは、まちがいないのですから。

「報告書」にも、「ライシテはフランスの特殊性か?」という問いかけがあります(2.3)。答えはもちろん否。この問いは、ライシテがヨーロッパの一般的な選択であるという議論の導入にすぎません。要するに、経緯は個別的であっても、理念にまで高められたライシテは「普遍的な価値」である、ということ?

(付言するなら「スタジ報告書」は、むしろparticularité, singularité, exceptionといった語彙を周到に避けながら、議論を進めようとしているように見えます。語彙の「不在」もテクスト分析の対象としなければなりません)

あるいは、こう言いかえることもできるでしょう。ライシテを「共和国の価値」と認める者たちが「フランス共和国」の市民である、と。同語反復のようですが、なにしろ「報告書」にはpacte socialという語彙が3回、pacte républicainは、なんと7回も出てきます。ルソーの「社会契約」に依拠しての「共和国契約」が想定されているのでしょう。pacte laïqueという表現も1度だけあらわれます。「ライック契約」ではなく「ライシテ契約」と訳しておきます。

「ライシテ契約」によって成立する「ライックな共和国」?いずれにせよ「普遍的」という形容詞が「原理」という名詞に寄り添うことができるのは、この「原理」が、永続的で拘束性をもつ契約行為としてのpacteによって「承認」されているからではないでしょうか。この先の議論は、手に余りますが。

ところで「ライシテ契約」という概念の提案者、少なくとも推進者は、ほかならぬジャン・ボベロであるらしい。未読ですが、1990年出版のVers un nouveau pacte laïque? Seuilがあるほか、2000年に刊行されたJean Baubérot, Valentine Zuber, Une haine oubliée. L’antiprotestantisme avant le « pacte laïque » (1870-1905), Albin Michelには、ご覧のとおり、この語彙が括弧付きで副題に添えられています。巻末の語彙解説には、「ライシテ」とは本来、(国家と宗教の)闘争的な関係を想定したものだが、「契約」に拠って立つ者は、対立する陣営に「交渉不可能」な価値があるときには、これを尊重する、とあります。

というわけで、「スタジ報告書」は、こうした語彙運用の現場を分析する素材として、なかなか面白いのですが、ついでにもう一つ。ケベックで言われるところの「穏当な妥協」« accommodements raisonnables »というのが、何度か出てきます。ボベロも「折り合いをつける」ことは「契約」のマナーであると言っている。

ひと言で言えば、共和国原理の再確認とカナダの(オランダ、ベルギー、アメリカの、ではない)多文化主義への目配せ、というのが、「スタジ報告書」読解の結論です。見当違いかもしれません。

最後にもう一つ、脱線です。「ライシテ」とは「原理」なのか、「イデオロギー」なのか、「制度」なのか、「政策」なのか、「歴史的事実」fait historiqueなのか、「社会現象」なのか、「文化」なのか……。もちろん、色々な議論があるのですけれど。

それは「感性」sensibilitéの問題でもある、と、ある歴史家が言っているのですね。「メンタリティ」なら思いつくけど、そうか、なるほど「感性」か……。さすが、わが尊敬するルネ・レモン様です。でも、そういわれるとコレットの身体は、たしかに「ライック」ですよ。「信仰」の有無とは異なる位相の問題構成で、「共和国の小説」を読み解くことができるでしょうか。

*  *  *

さて、面接授業クリスマス番組(?)のための付録です。12月6日(土)7日(日)に東京世田谷学習センターで行われる恒例の「シャンソンで学ぶフランス語」のテクストを慌ただしく立ち上げることにしました。昨年はわたしが授業報告を書きましたが(2007年12月18日の記事)、このサイトにアクセスする学生さんも増えてきたようなので、今回は内容を予告します。

講師は笠間直穂子さん、エストレリータ・ヴァセルマンさん、そしてわたし。言葉を学びながら多様な文化に親しむという授業の構想に合わせ、今回も、笠間さんが工夫して以下のような曲を選んでくださいました。「これぞシャンソン」というスタンダード・ナンバーから、現代の知的でお洒落なポップミュージックまで。自慢ではありませんけれど、わたしたちがシャンソンをとおして皆さんを誘おうとしている世界は、ゆたかで奥深いのです。履修者は頑張って予習をしてください! PDFをここに。

Charles Trenet : La mer - L’âme des poètes
フランスでもっとも愛されているシャンソン歌手といえば、シャルル・トレネでしょう。明るく親しみやすいメロディと歌詞は、フランス語の勉強にも適してい ます。今回は、数ある名曲のなかから、「海」と「詩人の魂」を取りあげます。「海」は自分で歌えるようになるのが目標です。「詩人の魂」はイヴェット・ジローが歌ったバージョンも聴いてみましょう。

Barbara : Ne me quitte pas
バルバラは自作曲も魅力的ですが、今回はジャック・ブレル作詞作曲の「いかないで」を聴きます。日本語版でご存じの方もいらっしゃると思います。物語性のあるブレル独特の世界を、バルバラはどう「解釈」しているでしょうか。

Keren Ann : Que n’ai-je ?
若手女性歌手ケレン・アンの曲を聴いてみましょう。タイトルは古風なフランス語ですが、歌詞はそれほど複雑ではありません。さまざまな動詞を使った表現を学ぶことができます。アルバム「Nolita」の収録曲です。

Francis Cabrel : Je t’aimais, je t’aime, je t’aimerai
作詞作曲ともに丁寧な仕事で知られるフランシス・カブレル。ロングセラーアルバム「Samedi soir sur la terre」からの一曲です。歌い方がはっきりしているので聞きとりやすいと思います。動詞時制のおさらいに有効です。

Alain Souchon : J’ai dix ans
人気歌手アラン・スーションの初期のヒット曲です。「ぼくは十歳」というこの曲には、子どもが使う口語表現や言葉遊びが含まれています。辞書に載っていない単語も出てきますが、あまり気にせず、子どもの世界を楽しみましょう。

笠間直穂子

シャンソンで学ぶフランス語

2007年 12月 18日

12月15日と16日に行った面接授業のタイトルです。恒例の年納めという感じで。といっても、まだ2回目ですけれど。シャンソンを5つか6つ選び、聴き取り練習、発音練習、語彙や文法の説明、テクスト分析、文化的な解説、などなど。教室の反応を見ながら、即興で展開する講義。今年のレパートリーは、こんな感じでした。

Prévert, Desnos
Piaf, Hardy
Rossi, Malik

6曲の歌詞は、こちらをご覧ください。(PDF)

この授業、若手の担当講師、笠間直穂子さんとわたしのほかに、ヴァセルマン先生も参加するという贅沢な構成です。もちろんブレインは笠間さん。彼女が惚れこんで、来日したときの通訳から歌詞の翻訳までやってしまったというコンゴ出身の歌手、アブダル・マリックをとりあげたのは、ちょっと冒険でした。なにしろun jeune noir qui pleure un rêve (夢を泣く?)とか、un jeune noir qui meurt sa vie bête(愚かな生活を死ぬ?)とか、作文の時間に書いたら叱られることまちがいなし、というフランス語が並んでいる。ただしアブダル・マリックは大学で哲学・文学を学んだインテリです。Gibraltarの歌詞を緻密に読むと、これが日常のフランス語を反転させながら、意味の乱反射する不思議なポエジーを生みだす仕掛けであることがわかるはず。

せめて人間らしく生きたいと願う人びとが、貧しいアフリカから豊かなヨーロッパをめざし、死の危険を冒してジブラルタル海峡をわたります。しばしば悲劇に終わる密航のドラマを背景に置いて読んでみましょう。ストラスブールの郊外で、犯罪や麻薬に染まって少年時代を過ごした黒人が、イスラームの神秘主義哲学スーフィズムに目覚め、師に教えを乞うために、ヨーロッパからアフリカに向かう。つまりジブラルタル海峡を、反対方向にわたろうという歌です。le merveilleux royaume du Maroc(まばゆいモロッコ王国)に向け、船が進んでゆくところで幕。光にみちた世界への旅立ちという結末は、紋切り型のヨーロッパとアフリカの関係、その明暗の対照を、くるりと逆転させてしまったことになるでしょう。

こんな読解が、出席者たちからの質問や発言をとおし、しだいに形成されていく。さすが「大人たち」の集う教室です。イスラームと対になって、今回はカトリック信仰が話題になりました。

ジャック・プレヴェールと言えば『枯れ葉』―― あの哀愁にみちた優しい言葉の使い手は、じつは過激な反教権主義anticléricalでもありました。ひとことで説明するのは難しいのですが、権威としての宗教に反抗する人間です。カトリックの祈祷や儀式を素材にして、それこそアルフレッド・ジャリそこのけの、破壊的なパロディを演じています。アニメ通の方ならご存じでしょうが、『王と鳥』のメルヘンは、暴君との闘いという緊迫したドラマもはらんでいるわけです。

とりあげたのはDéjeuner du matin ―― お望みなら、ここでも「坊さん嫌い」のエピソードを紹介できるのですが、それはともかく。フランス語を教えておられる若手の先生は、ぜひ、以下のサイトをご覧ください。「お勉強用」の模範的フランス語。これなら、たいていの大学で教材にできる。
http://www.ph-ludwigsburg.de/html/2b-frnz-s-01/overmann/baf4/prevert/dejeuner.htm

エディット・ピアフは映画化されたばかりだし、話し出したらきりがありません。『愛の賛歌』はこちらをどうぞ。http://www.youtube.com/watch?v=1gTGmbA40ZQ

その『愛の賛歌』とフランソワーズ・アルディのTant de belles chosesは、どこかで谺を返すようなのです。愛と死を歌うシャンソンだから? むしろ「天国=空」と「この世=地上」という垂直の軸をもつ空間構造がよく似ているからかもしれません。この話をなさったのはヴァセルマン先生(黒板を大きく使って、フランス語と日本語チャンポン)。そうした空間構造は、フランス語の表現そのものに、内包されているのですね。いつもながら、フランスの教育では、テクスト分析の手法が生きている、と感じ入り、ついでに「世界の名作を読む」の通信指導のことを思いだし、ちょっとばかり、うらやましくなりました。

ロベール・デスノスはシュールレアリスムの詩人。1本足の象さんとポンテオ・ピラト(キリストの処刑にかかわったユダヤの総督)の話は、なかなか楽しいのですが、長くなりますので省略。しめくくりは『きよしこの夜』の斉唱でした。

帰り道。木枯らしの吹きすさぶ暗い住宅地を並んで歩きながら、「来年も、いいネタが見つかるかしら」とわたしがつぶやいたら、笠間さん、にっこりして「まだまだ、いくらでもあります!」

今、外国語の教師であろうとすること

2007年 11月 15日

安易に先月と似たようなタイトルで登場しましたが、つまり漠然と考えつづけているのです。一般の大学では、いわゆる「第二外国語」が必修である場合、○○語の履修者が増えれば、おのずと◇◇語の履修者が減る。履修者の増減が領土争いになり、学内で心理的ナショナリズムの縮小版代理戦争もどきがくりひろげられる。大学の外部から見れば、いささか滑稽かもしれないこうしたドラマを、わたし自身も否応なく生きてきましたから、もちろん笑い事ではありません。

市民社会の視点に立てば、「どの外国語を学ぶのか」と考える以前に、「なぜ外国語を学ぶのか」という率直な問いがある。その回答は、当然のことながら、ナショナリズムの側からは――個々の言語の文化的アイデンティティを主張して優劣を競う側からは――やってこないでしょう。そこでスピヴァクの引用を。

外国語を学ぶこともわたしたちの想像力を喚起するひとつの〈営み〉である。もっとも意味を広げて考えれば、わたしにとってはこの「営み」という語が「変革のための活動」ということに一番しっくりくる。つまり想像力、哲学する想像力、読む想像力、これらがここでわたしが深く考えてみたいことだ。

外国語を学ぶことは想像力の〈営み〉である。それは哲学すること、書物を読むこと、あるいは文学や芸術、さらには人文学のすべてに通じる「変革のための活動」の一環なのであり、そこには知的な「喜び」があるはずだ。そうガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは言うのです。

出典は「人文学と変革のための活動」と題した一橋大学における講演です(朝日新聞社『論座』2007年12月号)。人文学はグローバリゼーションと相容れない。が、それは人文学の「強み」でもあるだろう。なぜなら人文学は、グローバリゼーションがもたらす画一化に対抗し、存在論的に貧しくなってしまった世界に〈代補〉的な効果をもたらすはずだから。

というわけで、人文学に内包される外国語の「有用性」は、しっかりと提示されています。先回ふれた紋切り型の「市場原理」が、もっぱら個人の「損得」を根拠とするのに対し、スピヴァクは世界にとって「有用」だと提言するのです。

このダイナミックな立論に、わたしが共感をおぼえる理由をふたつ。まずは、外国語学習の動機づけをナショナルな視点から解放していること。そして、外国語教育のヒエラルキーを解体していること。

「日常会話」から「国際会議における発表」という階梯のなかに、「習得すべき語彙数と文法事項」を配列せよ。履修者の「到達目標」に対する「達成度」が、外国語の「教育実績」として「評価」されることだろう。といった調子の――知の快楽から果てしなく遠い!――制度的要請に抵抗し、ながらく苦闘をつづけてきた語学教師の述懐です。

ここで思い出すのは、管啓次郎さんの『オムニフォン―〈世界の響き〉の詩学』(岩波書店)。スピヴァクの人文学と相通じるものがあると思うのです。屹立した学問の閉鎖空間を登坂するのではない。フラットに、どこまでも歩いていって、躍動する世界を学んでみよう。カタコトを発するだけで、世界は谺を返してくれるのだから。そう宣言する著者の実践的なポエティックは、うらやましいほどに爽やかです。

ところで。一方に、スピヴァクと管啓次郎さん。他方に、若手研究者たちの感性を活かしつつ立ち上げようとしている、この外国語と文学関係のポータルサイト。両者のあいだに、なにか関係があるのでしょうか? とりあえず、無関係ではない、と豪語しておきましょう。

今、フランス語の教師であろうとすること

2007年 10月 20日

10月7日に芦屋大学で行われた日本フランス語教育学会のシンポジウムに参加してきました。「フランス語教育と人文・社会 <知>―L’enseignement du français et le « Savoir » des Humanités」というタイトルで、オーガナイザーは立花英裕さん(早稲田大学)。水林章さん(上智大学)、澤田直さん(立教大学)は学会の中心的なメンバー。外部から招かれたのが、内田樹さん(神戸女学院大学の、というより『下流志向』の、と紹介しましょう)。そして、わたし、という5名のパネラーでした。

学会メンバーの3名からは、どのような方法で人文科学や社会科学の「知」をフランス語の授業に導入しているか、具体例のプレゼンテーションがありました。現代ヨーロッパの時事的なテーマや身近な博物学的な風景を素材にした授業の方法が示され、初歩的な言葉の学習において、いかに異文化の固有性に迫ることができるか、という話題提供がありました。こんな授業を受けられる学生たちは仕合わせだなあ、というのが、わたしの感想です。

内田樹さんからは、「フランス語はなんの役に立つ?」という問いに現場の教師はどう答えられるのか、という問題提起がありました。じつのところ、消費者マインドを身につけてしまった若者たちと教師との困難な向き合いは、現代世界の縮図ともいえる。それは教育という営みに固有の問題というよりは、グローバル化時代の「自由主義」と「市場原理」の力学を再現しているからです。

もっとも消費者になったつもりの子どもたち、若者たちは、けっして「自由」に選択しているわけではありません。世の中に流通する「紋切り型」にしたがって「選ばされて」いるだけだということを、たとえばフロベールなどは、ちゃんと知っていたわけですが。

さて戦後日本の外国語教育の変遷を3つのステップにわければ、「文法・講読」から、「実用会話」の時代に、そして、今日、あらたに「知的」な路線が浮上しているのではないか。これも、あまりシンプルに図式化すると「紋切り型」になりますが、それにしてもNovaなどの巷の会話学校が、大学の語学にとって脅威になるという話も、このところ、あまり聞きません。

大学の外国語教育を脅かしているのは、何か別のものであるはず。学会に出席してみれば、教育の方法がますます洗練され、上質なものになっていることを実感できる。つまり他にいい商品があるから大学の人気がなくなるのではない。そうではなく、教育制度そのものが市場原理にさらされているのであり、この経済・政治・社会的なシチュエーションに、教員はもっと意識的であることが求められるのではないか ―― わたしはそんなふうに考えているのです(1991年、当時の文部省による教養教育の「大綱化」以来、カリキュラム改革のなかで、健全な市場原理がプラスに作用したことは確かなのですが、事はそれにとどまりはしなかった)。

3年半まえに「社会人」の教師となったわたしは、大学は社会のなかにあるという当たり前の事実に、ようやく目覚めたという気がしています。

1.「外国語はなんの役に立つ?」という問いに対しては、教師が実践的に学ぶ面白さを「見せる」のが正攻法。これはシンポジウムのパネラーに共通した了解でした。だからこそ、何があろうと、教育の現場は愉しいのです。それは議論の前提ですが。

2.「(役に立つらしい英語以外の)外国語を、なぜ学ばなければならないの?」という問いにも、教員は答えなければなりません。つまり「学ぶと色々面白いことがあるよ」というだけでなく、「学ばないと困ることになるよ」という立論。前者は、「自由選択」の科目を、後者は「必修」の科目を根拠づけることなる。いうまでもなく、これは開講数と人事ポストに連動する議論です。

3.わたし自身は、カリキュラム改革とそれにつづく「自己評価」「外部評価」を、まさに渦中で経験した世代です。当然ながら、これぞという立論はありません。それでも、ひと言。「評価」とは「作文」であり、「数値」の裏付けが必要です。現場を守るために、教員は制度的な戦略を身につけるべきでしょう。

4.「作文」は、大学の内部だけでなく、社会にアピールしなければなりません。大学が「市場原理」にさらされていることの脅威とは、まさにこれ。

追々、考えてゆきたいと思います。
今、フランス語の教師であろうとする人たちとともに。

*  *  *

今回はマジメな話ばかりでした。最後に余談を。じつは秋晴れの今日、ようやくバルザック『ランジェ公爵夫人』の翻訳二度目の作業を終えたところです(cf.「翻訳三昧」)。

“il n’y a que le dernier amour d’une femme qui satisfasse le premier amour d’un homme” つまり「男の初めての愛を満足させるのは、女の最後の愛」という意味の「捨て台詞」で終わる小説なのですが、やっぱり惚れましたね。翻訳の夢というものがある ―― ついにはテクスト(作家ではなく)と同衾して作品を夢に見たという感覚。