工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

新装開店いたしました

2009年 5月 7日

綺麗でしょう? デザインだけではありません。気持も新たに、と夢を語るまえに、昔話を少し。

わたしの30代は、バブリーな時代でした。売れっ子の文学部教授はホテルに「カンヅメ」になって執筆なさっていた時代。5年ぐらいは、もっぱら「ユリイカ」や「現代思想」で最先端の評論の翻訳をやっていました。といっても偉い方々に断られた仕事が、回り回って若手に降ってくるのですから、専門など関係ないし期限も半分ぐらい。原稿を送った日に貧血を起こした懐かしい無理難題は、J.イポリット「ハイデガーとヘーゲル」です。

アンリ・トロワイヤの歴史小説を4冊、立てつづけに出版した経緯は省略。それからフロベールの書簡を編集し、好きなだけ訳注をつけるという贅沢な本を作る機会にめぐまれました。筑摩書房の淡谷淳一さんは、編集の神さまと呼ばれた方。恐るべき慧眼・博識のエピソードを、先輩たちから山ほど聞かされたものです。ともかく物言いの丁重な紳士でした。大変失礼でございますが、この訳文は…などと指摘されたら、もう胸がどきどき。『ボヴァリー夫人の手紙』という書物のタイトルも淡谷さんがつけてくださったものです。

神さまのような編集者にお目にかかるときには、早めに約束の場につくようにしておりました。すると次回は、淡谷さんが、もっと早くおいでになる。これ、イタチごっこ、というのでしょうか? という笑い話になって、教えていただいたところによると、意地でも相手より先に来るという方針を貫かれたのは、ボードレール研究の世界的な権威で今は亡き阿部良雄先生だそうです。おしまいには、30分も前倒しになってしまって、時間をお約束する意味がなくなりました、と。

ちなみに、業界では有名な話なのか、それとも、冗談だったのか、今でもわからないのですけれど、淡谷さんは、喫茶店でホットミルクをお飲みになるのです。コーヒーもお酒もいっさい召し上がらない。なぜ? とうかがったら、淡谷さん、嬉しそうなお顔で、貴女だけに、そっと教えてあげましょう、じつはわたくし、酒乱だものですから…。つづく酒乱のエピソードは、わたしの秘密。

友人たちが集まれば、そんなバブリー時代の思い出と長年の出版不況にくわえてこの頃は、信頼関係を築いた編集者たちの退職が話題になります。書物への情熱と文学の素養にかけては、なまじの大学教師など太刀打ちできないという方々。先行きの不安を語り合うこともまれではありません。

それはそれとして、年寄りであろうと若者であろうと、愚痴をいうヒマがあったら、ひとりひとりが「手を変え品を変え」何かしら工夫して、アイデアを提供すればいいのですよ。というわけで、本日の本題、このサイトの構想について。

放送大学に着任して5年、個人サイトを立ち上げて2年が経過したところです。ウェブ空間への親和性をもつ集団は、おどろくほどの速度で増殖しているという実感があります。こんなささやかな「ネットワーク」でも、思いもかけぬところから、反響が返ってくることがあるのです。文芸誌に寄稿したエッセイは、文芸誌を購入する人にしか読まれません。一方、インターネットには、ボーダーがない。書物の世界で生きてきた人間にとって、これは不思議な経験です。

これまでは、放送大学の教材制作とその紹介にエネルギーを傾けてきましたが、独り本を読み、ものを考え、書けることを書く、という夢に向けて、人生設計をシフトしてゆきたいと考えています。念のために言い添えれば、生涯学習の現場は、この設計図にちゃんと組みこまれているのですけれど。

本を読み、考え、書くという作業をネット上で積極的に公開してゆこうと思い立ちました。それが「閲覧室」のコーナーです。手始めに「スカーフからキルパンへ―今、ケベックが面白い」(2009年 2月 2日)で予告した論文の抜刷全文を掲載しました。「政教分離」は、次の成果につなげたいと考えているテーマです。

見てのとおり、瀟洒な小冊子というデザイン性の提案でもあります。お世話になったのは今回も、友人の小柳学さん(左右社)。若い研究者を紹介すると、にこにこして企画を練り始める編集者です。昔、わたしもこんなふうに、淡谷さんから、本作りの「手ほどき」をしていただいたのだなあと思います。

「新装開店」のデザインは、放送大学で出会った大洞敦史さん。わたしは文章を書き、表層のイメージなどに色々と注文をつけるだけ。編集者的な作業や情報の整理、ページの構築など、とりあえず好きなようにやってみて、といったら、あっという間にスキルが向上して、こんな具合になりました。つまりコラボレーションですね。ところで彼ほどの読書家は、正直、見たことがない。でも学校秀才とは、まったく別のタイプ。じつはひそかに「パチプロ少年」と呼んでいるのですけれど、その名の由来については、大洞くんの個人サイト、とりわけプロフィールをご覧ください。

パリの写真がすでに500枚ほど手元にあります。毎回、エッセイの最後に添えますので、お楽しみに。撮影してくださったのは、外国語の教材制作でも活躍してくれた留学生の中田健太郎さん。

タイトルの背景も、中田さんの写真です。éternel imparfait の意味? 永遠に未完成なるもの、と読めば、生涯、学びつづけることの暗示にもなりますし、それはそれでいいのですけれど、じつは、これ、フランス語の時制、半過去です。淡い光にみちたグレーの空は「半過去色」…と思ってえらびました。この話は、いずれまた。

チュイルリー公園・春

K.NAKATA

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