工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

男と女 中心と周縁

2009年 9月 17日

女性の視点が重要だと思うのは、一般に女性のほうがマージナルな立ち位置から世界を記述することが上手であるからという理由によります――という文章は、このサイトに掲載してある『フランスの政教分離』を読んでくださった編集者の方に送った返信メールに、思わず書いてしまった文章。

学問の話だけではありません。大学の事務職でも、一般論として、そう。30代で係長や課長補佐になっている女性は、上司の見解を伝達するという顔をあまりしませんよ。つまり、自分の立ち位置をちょっとずらして、問題を抱えた教員や学生と管理組織とを半々に視野に入れ、「インターフェイス」をやろうという気構えがある。女性の職場は限られているのだから、教育とか出版とか、わたしの身の回りを見ていれば、有能な女性が結果的に多くて、平均的に「民度」(植民地用語!)が高いのは、当然なのかもしれませんけれど。

世の中、こんな(に)男ばかりでは、困るではありませんか、と思いつづけて、いつのまにか老境に達してしまった世代です――という文章も、勢いで、そのメールに書いてしまったのですが、ちなみにその編集者は、会ったこともない方で、もちろん女性。若い世代に期待しましょう。

さて、虫の居所が悪いと思われそうだから、話題を変えて:
センターかマージナルか、という主題を、本日は変奏してみます。
男は中心、女は周縁というほど、単純な話ではありません。

わたしは「耳学問」の人です。iTunesでFrance cultureの教養番組を自動的にダウンロードして、買い物や散歩のときにiPodで聞き流しているのですが、以前から気になっていたCanal Académieのインターネットラジオから、このほど、めぼしいものを大量にパソコンにとりこみました。

宗教的なフランスと「ライック」な――政教分離を徹底させた脱宗教的な共和国としての――フランスと。どちらが中心で、どちらが周縁的だと思いますか? 切り口によるでしょうね。国家にオーソライズされた大学や公的研究機関の学問は、とても「ライック」です。その一方で「文化遺産」patrimoineとしての知の集積には、カトリック的な感性に養われた伝統が、今も瑞々しく息づいている。アカデミー・フランセーズを頂点とする5 つの学士院の共同サイトをご覧下さい。
http://www.canalacademie.com/-Les-emissions-.html

「ギリシアのシャトーブリアン」(2006年4月)という番組を紹介します。二名のゲストの一方は、ジャン=ポール・クレマンという「専門家」でシャトーブリアンのオリエント旅行200周年を記念する催しの責任者。他方は、いささか挑発的な評論を出版して注目されたミシェル・ド・ジェジェールというジャーナリスト。

「旅行記」というのは不思議なジャンルです。じつはシャトーブリアンだけではない、スタンダールも、ネルヴァルも、ピエール・ロティも、ともかく19世紀の大作家たちが、「旅行記」となると、どうしてこう臆面もなくウソを書くのでしょう? 行ったこともないところに、行ったような顔をする。会ったこともない人に、会ったような顔をする。石井洋二郎さんの『異郷の誘惑』によれば、1791年にアメリカ合衆国を訪れた若きシャトーブリアンが、ジョージ・ワシントン将軍に会見したという話は、捏造なのだそうですよ。

Le menteur magnifique : Chateaubriand en Grèce ――というのが、ジェジェールの新刊書のタイトルです。「素晴らしい嘘つき」あるいは「カッコイイ法螺吹き」とでも訳しておきましょうか。シャトーブリアンのギリシア旅行について、その道筋、日程、エピソードなどを徹底的に調べて、ウソを暴いたという書物。

大御所のクレマンは、200周年記念の展示会で、ジェジェールの著作を活用したのだそうで、対談をやろうというのだから、学問的に認めていないはずはない。でも、いやしくもシャトーブリアンを語る以上、大学の先生が中心におり、ジャーナリストは周縁からの発言、という構図がチラチラと見えて、それだけでも可笑しい。先生は、とにかく本のタイトルが気に入らない、まるで我慢してゼミの発表を聴いているみたいに、高圧的なのです。ところが、そのマージナルな視線をもつジャーナリストの主張を聴いて、わたしは、なるほど! と思いましたね。

ご存じのように、シャトーブリアンは、読める書物はすべて読んでしまう人、ギリシア神話や聖書やおびただしい文献の引用が頭に充満している人物で、しかも、みずからをナポレオンになぞらえるほどの気概と野心をもっていた。自分が被造物の中心にいるという意識のもちぬしであったのです。そこで何がおきるかというと、訪れた土地(訪れるべきであった土地)を舞台に見立てて「主役=英雄」であるヒーローを演じてしまうというのです。

ある町でヴィルギリウスが熱病にかかったと知ると、その町でちゃんと熱が出る。沼地にまよいこむと、怪物ヒドラを退治するヘラクレスの気分。見たことのないスパルタの廃墟で、考古学者の陶酔に浸ってしまう。コリントスにも行ったことにして、そこで子どもたちが石を投げる場面があるのは、使徒パウロの伝道と迫害の物語を再現した記述。。。

ところで「旅行記」の著者は口を揃えて、他の本はダメだけれど、自分の作品には「本当」のことしか書いてない、と主張する。だから、話がややこしくなるのですが、いずれにせよ、ウソかマコトか、という話と、読む者を圧倒する文学の衝迫力とは別なのでしょう。

「世界の中心」にいる天才génieだけが、真実véritéを言語化できる。そんな思いこみが、ロマン主義の流れを汲む文豪にはあるようです。近代ヨーロッパの「倨傲」にはちがいないのですが、まさにそうした「文明の意識」を――ちょっとずれた位置、マージナルな視点から――捉えてみたい、それも「キリスト教文明」という切り口から。と、夢のように茫漠としたアイデアを練っております。当面は「ライックな共和国」というテーマで、基礎的な学習に勤しんでいるところ。

いずれにせよ、サイードの二番煎じみたいな告発だけでは、ダメなのです。キリスト教とイスラーム、男と女、中心と周縁、という二元論より、もうちょっと繊細で愉快な議論を立ちあげたいものです。


Café'

K.NAKATA

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