工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

ガラスの靴

2010年 1月 16日

「メルヘェン」に浸っております。なんとディズニーの『シンデレラ』まで鑑賞してしまいました。マザーグースの例にもあるように、民間伝承は女性が語り手になることが多いので、役立たずの亭主というモチーフは豊富です。グリムの『灰かぶり』のお父さんは、実害はないといえばないけれど、なんともトンチンカンな行動をとりますし、ペローの『サンドリヨン』のお父さんは、いるにはいるけれど、まるで存在感がない。ところが戦後アメリカの大人たちは、そんな父親像を子どもに見せたくなかったのでしょう。ディズニーは、そっと早めに、この人物を死なせてしまったことに気がつきました。

こうした物語の「書き換え」を、たとえば面接授業では、話の糸口にできるかもしれません。現代のアニメや創作童話の教訓、あるいは19世紀市民社会の感性が許容した家族像の逸脱モデルなどをかたわらにおき、17世紀末、古典文学の絶頂期に宮廷で好まれた「昔話」の構造をさぐることができるでしょうか。シャルル・ペローの物語はとにかく過激です。『赤頭巾ちゃん』は狼に食べられっぱなし。『ロバの皮』では、実の父親が娘に結婚をせまる。『眠りの森の美女』は、せっかく王子さまと結婚して、玉のような子どもたちを生んだのに、お姑さんが「人食い」ogresseだったというのですから。

「民話」や「昔話」は、ブルジョワ的な世界観が称揚する価値とは異なるロジックをもっています。「神話」や「伝説」と重なる部分もあるでしょう。一方で、こうした長い伝統のあるジャンルから、光を逆照射してみると、近代ヨーロッパの形成に深くかかわった「小説」に固有のロジックも見えてくるような気がします。そこで、ご紹介したいのはマックス・リューティの分析。

『誰も寝てはならぬ』は、荒川静香が金メダルをもらったおかげで、着メロのダウンロード件数が一挙にはねあがったという曲ですが(と、リューティがいっているわけではありませんが)、このアリアをふくむプッチーニのオペラの素材となったのが、『トゥーランドット』というペルシアの民間伝承です。「謎かけ姫」という系譜の物語で、ご存じのように、謎を解けない求婚者がつぎつぎに殺されてゆくというのが幕開けの設定です。

ドイツ・ロマン派の先駆けとなったフリードリッヒ・シラーの戯曲ヴァージョン(1802年)から、トゥーランドット姫が、カーラフ王子にむかって、なぜ謎をかけるのか、その理由を説明する台詞を引用します。なにしろ長いのですが、まさに長さに意味のある熱弁を省略したら、文学の分析になりません。

まだ間に合います、王子さま。向こう見ずな企てはお止めなさい。無情だ、残酷だといって私を責める人は嘘をついているのです。それは天の神様がご存じです。私は残酷ではありません。自由に生きたいだけなのです。私は誰のものにもなりたくありません。どんな身分の低い人にも母親の胎内で天から与えられている権利を私は主張したいのです、皇帝の娘たる私は。アジア全体を通じて女性は卑しめられ、奴隷のくびきをかけられています。私は侮辱された同性の恨みを、威張っている男性に向かって晴らしたい。男性がやさしい女性にまさっている点といえば粗暴な力だけではありませんか。私の自由を守るために自然は武器として私に独創的な頭の働きと鋭い知力を与えてくれました。私は男のことなど知りたくもありません。男を憎み、男の高慢とうぬぼれを軽蔑します。男はなんでも貴重なものに手を伸ばします。気に入ったものは自分のものにしたがります。自然は私を美しい魅力で飾り、私に鋭い精神の働きを与えてくれました。卑しいものは価値がないので安穏に身を隠していられるのに、高貴なものは猟人の激しい追求を招きます。なぜこの世では高貴なものがそういう運命に陥るのでしょうか。美は人の獲物とされなければならないのでしょうか。美は太陽と同じように自由です。空に輝いて、あまねく人の心を喜ばせ、光の源であり、人の目の喜びなのです。けれども、何びとにも隷属せず、何びとの奴隷でもありません。

マックス・リューティ『昔話の本質───むかしむかしあるところに』
野村ひろし訳、福音館書店、1974年

なるほど、筋がとおっています。女性にとっては、胸がすくような台詞? まずは、アジアの女性蔑視を告発し、「近代的な個人」として自由への権利を宣言する。「合理的な自己弁明」というリューティの形容は当たっています。フランス革命後のヨーロッパ、その昂揚した時代性のなかでこそ、立ち上げられた議論といえそう(ただし、念のためいいそえるなら、大団円で姫は「謎かけ」に負け、男に支配される悦びを知る。プッチーニのオペラなど、近代のヴァージョンは、最終的には性差の「植民地主義」が透けて見える構造になっています)。

さてマックス・リューティによれば、シラーのトゥーランドット姫は「特殊な問題と才能を背負った一個の人間」であるにすぎません。この雄弁な女性は「昔話」の主人公というよりむしろ、「小説」のヒロインたちに似て、個性的な顔立ちをしています。ここで大切なポイント───「昔話」の「謎かけ姫」というのは「役柄」にすぎないとリューティは指摘します。かりに「姫」が「世界」の象徴であるとしたら? たしかに「世界」は人間に難問を課して、これを解決できぬ人間を滅ぼしにかかる……。これがリューティのいう「メルヘェン」の特質です。本来それは、象徴と寓意による抽象的な世界なのであり、そこに贅肉のような描写や合理的な説明をもちこむのはまちがっている。

ところで「小説」は「歴史」と血を分けた兄弟のようなもの。時代性をになうという課題にめざめたことにより、国民的アイデンティティの創出という要請に応えることもできたのです。レアリスム小説が「何年の何月に、どこそこで、誰々さんが……」と書き始めることの重大さ、その認識論的な重みを、まずは強調しておきましょう。

これに対して「昔話」は、非歴史的、非時間的なジャンルです。「むかしむかしあるところに……」という始まりは、不特定であるがゆえに今も未来も包摂するような不思議な時間、どこにもない空間の扉を開いてくれる。だから「二人は結婚しました。二人は死んでいなければ、今でもやっぱり生きています」と物語が終わることは、固有のロジックにかなっているのです。

どうもわたしの話は、むずかしくなってしまうけれど、でも「昔話」のロジックが、むずかしいわけではありませんよ。世界の神秘や自然の驚異を小さな物語におさめた「昔話」を、心から楽しむことができるのは、民衆や子どもたちなのだから。立派な大人たちが合理性やプチブル道徳を求め、つまらぬリライト版の童話を歓迎するとしたら、それは「アレゴリー」を直感で理解する能力を失っているからでしょう。

そもそもフェアリー(フランス語はfée)が活躍する世界だということを忘れてはなりません。「仙女」と訳したり「妖精」と訳したりしますが、事物もféeになるのですって。『ロバの皮』では、仙女に知恵をつけられた王女さまが、求婚者である父親に、実現できそうにない難題をつきつける。その意味では「謎かけ姫」のヴァリエーションなのですが、王女さまは万策つきて、みにくいロバの皮で身をつつみ、王さまの法外な贈りものである美しい衣装を持って姿をくらましてしまいます。衣装箱は、王女さまのゆくところ、どこへでも地下にもぐってついてくる。なぜならそれはféeだから。素敵でしょう……。

シンデレラの靴もféeなのでしょうか。わたしが学生だったころ、靴の素材はverreではなくて、じつは同音のvairつまり高級毛皮なのだという説を聞き、感心したことがありました。文豪バルザックや辞書の編纂者リトレによる、いかにも合理的な解釈です。ところが、数ある「昔話」の系譜を検証した結果、現在では学説として、ガラス説が復活しているようです。考えてみれば、そうですよね。それじゃあ、足が痛いだろう、など理屈をこねる大人は、そもそもféeの世界で遊ぶ資格がない。『親指小僧』でも、チビの少年が人食いの大男の「七里の長靴」を失敬して、これをはくと、ぴったりと足に合うのですよ。

手元のPocket Classiques版の解説には、さすがのディズニーも(というのは、甘ったるい解釈が気に食わないというニュアンス)、ガラスについては忠実である、という注記がついています。でも、映画のガラスの靴は、まま母が意地悪をしたために、シンデレラの目の前で、こなごなに割れてしまうのです。これも民間伝承にはない脚色。しかるに「昔話」のロジックによれば、やっぱりここで「合理的」にガラスが割れちゃあ、まずいのじゃないかな……。

というわけで、文学に回帰すると、にわかに饒舌になるわたしであります。先月のエッセイで予告した童話を楽しむ夕べ、というふれこみの2月3日の企画については、こちらをご覧ください。ちなみに男性も歓迎です。
http://www.u-air.ac.jp/hp/o_itiran/2010/220114.html

赤頭巾

ギュスターヴ・ドレの赤頭巾ちゃんは、本当に子どもでしょうか?

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