工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

ライシテ、その後

2010年 7月 19日

このサイトは、当面、放送大学の(潜在的)学生さんがターゲットと考えています。一見むずかしそうな「政教分離」は、いわば「大学院ネタ」と位置づけておりまして、じっさい文化情報学プログラムの「異文化の交流と共存」という科目を履修した人が、関心をもつ研究テーマの一つではあるようです。

フランス式の「政教分離」を「ライシテ」といいますが、右に掲げた新刊書(3月刊行)、反応はどうかといえば……日本では、まずメディアの関心がアメリカにむかっているし、おそらくは宗教が緊急の検討課題だという意識も低いため、一般の読者には、なかなか原理原則をめぐる議論を届けにくいと実感しています。伊達聖伸さんとのコラボ-レーションで、注や用語解説や訳者解説など、ずいぶんと工夫したつもりではあるのですけれど。

それはそれとして、歴史や宗教学の分野からは、書物の誠意と訳者たちの努力を評価してくださる声がとどき、先日は、さる法科大学院の憲法ゼミで、この本の書評会がありました。法学部の研究者たちからお招きを受けたのは、生まれて初めて。とても新鮮で、励みになりました。そこで名前の出たフランスの政治学者セシル・ラボルドCécile Labordeのことを、本日はご紹介します。

ラボルドは、オックフォードで学位をとり、現在はロンドン大学の教授。すぐ入手できる音声資料はCharles Taylorとの対談(2009年5月、ダウンロードは
http://www.repid.com/Charles-Taylor-Conversation-avec.html)。議論がかみ合っており、じつに面白いです。ご存じのように───とは、残念ながらいえないかな───チャールズ・テイラーは「多文化主義」の論客であり、ケベックの「インターカルチュラリズム」の旗頭でもあります。

アングロサクソン系の国々の大方は、多文化主義と寛容の精神という二本柱で異文化の共存は可能だと考えており、フランス共和国のラディカルにして困難な「ライシテ」の実践を、冷ややかに見守っている。ラボルドはイギリスにいて、彼我の政治文化を知りつくし、英語圏・フランス語圏の読者を念頭においた政治理論を構築しています。

畑違いのわたくしも、ルネ・レモンを訳したおかげで、ちょっぴり「リーガルマインド」にめざめた感がありまして、2008年9月16日La Vie des idéesに掲載されたラボルドの「処女性とブルカ:非良識的な妥協」(Virginité et burqa : des accommodements déraisonnables ?)という文章には、たいそう啓発されました。そこで筆者のとりあげる、ふたつの事例とは:

① 通称「リール事件」───女性が処女であると偽って結婚したことがわかり、裁判所が結婚の「取消」を認めた。
② 通称「ブルカ事件」───外国籍の若い女性が、みずからの宗教的な信念をラディカルに実践し、フランス的な価値、とりわけ男女平等の原則を尊重しないとみなされて、国籍の取得を拒否された。

ご想像のように、いずれも当事者はムスリムの女性。フランスにおける世論は圧倒的に②を支持し①を批判したそうですが、皆さんは、どうお考えになるでしょう?

①の判断は、フランス共和国の司法が、処女性を結婚の「本質的要件」qualités essentiellesとみなすイスラームの価値観、すなわち「シャリア」の判断基準を導入したものであるから、大反対。②の判断は、当事者の過激なイスラーム信仰が「フランス的な価値」と相容れないのだから、当然もしくは仕方がない。これが、一般的な反応のようです。さて、セシル・ラボルドによれば:

① まず確認すべきは「ライシテ」が、公的な領域に関わる原則であるという事実。ところが結婚は、まさに当事者間の「私的な契約」であり、その「本質的要件」は個人の判断にゆだねられている。問題のケースは、性的経験を過去にもたぬ者同士の結婚が望ましいという点について、当事者の男女が合意して結婚したところ、女性が虚偽を述べていたことが判明し、男性が結婚の「取消」───「離婚」ではない───を申し立て、女性も「取消」という決着を望んだところから、裁判所の裁定が下された。

ちなみに、フランスで結婚の「取消」に相当するとみなされる「要件」とは、過去の離婚歴や性的能力の障害について相手に虚偽を述べることなどだそうですが、考えてみれば潔癖な当事者同士が、過去の性的な経験を、こうした「要件」の一つとみなして「契約」することを禁じる法的根拠は、どこにもないわけです。つまり司法の判断は、厳密にフランスの法にしたがってなされたのであり、イスラーム法とのすり替えだと騒ぐには及ばない。ということになります。

② ブルカの着用や厳格なイスラーム信仰が、フランス共和国への「適応不足」assimilation insuffisanteを証明するものであるとする主張は、充分な論拠をもたない。また男性と女性は能力において対等ではないと個人が考えることにも、違法性はない(そもそも性差別をする人に国籍を拒むなどという国がありますか?)。つまり、②の判断は、法的裏づけを欠いている。

ずいぶんと乱暴なまとめ方をしましたが、セシル・ラボルドの指摘は、正しいと思うのです。異文化共存という課題には、宗教にかぎらず、しばしばジェンダーの問題が絡みます。かつて植民地において、「文明人」になりたければ、「ヴェール」を脱いでイスラーム信仰を捨て、「男女平等」を高らかに謳いなさい、と女性たちに説教したフランス共和国の「パターナリズム」───「解放」という名目で、自らの価値観を押しつける抑圧的な介入───と無縁ではないものが、これらの事件をめぐる議論には、混入しています。

わたしが独り腹を立てている問題がありますので、ついでに書いておきましょう。どう見ても「スカーフ」の形状をしたものが、いつのまにか「ヴェール」と呼ばれるようになり、このところvoile intégralという呼称まで、公用語のようになってしまいました。「ヴェール=隠蔽するもの」というコノテーションは「オリエンタリズム」の長い歴史にかかわっており、そのうえintégralには「原理主義」への暗示が密かにまとわりついている。こうした語彙の運用は、無意識のうちに負のイメージを刷り込むという効果をもっています。言語的な感性を大切にしたいと思う者にとって、これは危険な「まやかし」です。

要するに、セシル・ラボルドのように、「ヒジャブ」は「ヒジャブ」と呼べばよい。このフランス人研究者に、わたしが敬意をおぼえるのは、ジェンダーの意識が覚醒していることはもとよりですが、フランスの共和国原理とアングロサクソンの多文化主義、その折衷型とみなしうるケベックの先進的な試みなどを、いわば等距離で視野にいれ、国際的なスタンダードで発言しているからです。ちなみに、ご紹介したエッセイの副題、「非良識的な妥協」ってなんのこと? とお思いの方。このサイトに掲げた「フランスの政教分離」をご一読くだされば、ケベックの「良識的な妥協」« accommodements raisonnables »のもじりであることが、おわかりなるでしょう。

頼もしいことに日本でも、さまざまの学問分野で、宗教と政治、あるいは宗教と社会の問題に関心をもつ若い研究者がふえているようです。どうぞ野心をもって、グローバルな展望で考えることに挑戦してください───わたし自身は、もう「時間切れ」の引退ですけれど。

ややこしい話が長くなりましたので、この辺で、放送大学に回帰して、以下は「公開ゼミ」での出会いから得た知識。イギリスで、こともあろうに(?)カンタベリー大主教が、司法の現場で「シャリア法」を導入することに賛成し、これに対してメディアが扇情的な批判の論陣をはるという出来事が2008年にありました。フランスのケースと、どこが似ていて、どこが違うのか……。

ご覧のように、教育の現場というのは、教員にとっても刺激的で勉強になるのです。立場は非常勤ながら、そうしたわけで、しばらくは、大学院の指導なども、つづけたいと考えております。

さあ、今年は何十年ぶりかで、会議から解放された夏休み!

「政教分離」とは、がらりと趣が変わり、「コレット三昧」のヴァカンスです。秋に東急文化村で公開される映画のこと、コレット・コレクションの翻訳のことなどは、次回に。

hpim2417 K.NAKATA

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