工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

コレット三昧(3)

2010年 10月 2日

『シェリ』の原稿が手をはなれ、来年度開講の『世界の名作を読む』(改訂版)の収録がおわり、印刷教材7章分を入稿して、さあ、これで当面はノルマから解放! という気分のときに何をやるか? プルースト『失われた時を求めて』の全巻朗読(CD 111枚)をiPodのスピーカーでかけっぱなしにして、のんびり家事をやっています。蛇口をひねれば声は聞こえなくなるし、ときには聞いているつもりで考えごとをしていたり……、なんとも散漫な聴き手ではありますけれど。

気に入りの断章が耳に入ってきて「星から星へ」という鮮烈なイメージを思いだしました。作曲家のヴァントゥイユや画家のエルスチールについて語り手がいうところは、むろん文学についても参照できる話であって、強引に要約すると:かりに私たちが翼をもち特殊な呼吸器をそなえて広大な宇宙を横切れるようになったとしても、同じ感覚をもちあるいていれば、火星や金星にも地球上の物と同じ外観を与えてしまうだろう。生命が若返るような、本当の旅というのは、あらたな風景を求めにゆくことではない。別の目をもつこと、他人の目をもって宇宙を眺めることなのだ。それを可能にしてくれるのが、ヴァントゥイユやエルスチールの芸術であり、おかげで私たちは本当に「星から星へ」と飛翔することができる……。

この芸術家の目を借りれば、未知の宇宙が、さながら星々のあいだ遊泳をするかのように見えてくる。そのような確信をわたしにもたらす作家といえば、まずはプルースト。そしてフローベール。さらにコレット。十数年まえに訳した『シェリ』を一語一語みなおして、長い解説を書いたことで、すくなくともコレットの目と身体感覚を多少は自分のものにできたような気がしています。

次元をかえて、「声に出して読む翻訳コレクション」の構想について語りましょう。すでに岩波文庫という「権威ある器」におさめていただいた翻訳を改訳するなどは不遜なこと、という厳しいご批判はありました。でも新しい書物が誕生すれば、かならず作品は若返り、読者層は広がります。大切なのは「コレットの文学」であって、翻訳者の立場などではありませんし、さらにいうなら、映画の公開というチャンスにめぐまれた2010年の秋に、どうしたら新鮮なコレット像を日本の読者に手わたすことができるのか、という問いでしょう?

放送大学で得た収穫のひとつは、番組制作をとおして音声と文学の関係を考えたこと。「世界の名作を読む」の改訂版では、いくつかの作品を自分で翻訳し、朗読しています。ちなみに『失われた時を求めて』の冒頭近くに、語り手がまだ幼かったころ、ベッドでお母さんがジョルジュ・サンドの作品を読んでくれたというエピソードがあります。お母さんの読み方は、作家の文章が書かれる以前の、つまり文章が書かれる源泉となったはずのaccent cordial(井上究一郎訳は「心の格調」、鈴木道彦訳は「心のアクセント」)に一体化して、独特の憂愁や優しさを見いだし、リズムや緩急の変化を生みだしながらune sorte de vie sentimentale et continue(井上訳は「感情のこもった、持続的な一種の生命」、鈴木訳は「どこまでもつづくいとしい思いのこもった一種の生命」)を文章にあたえる、というもの。抽象的すぎるでしょうけれど、これが初心者でシロウトのわたしが思い描く朗読の理想です。

『シェリ』もすべて音読して、訳文に手を加えました。耳で聴いただけで、場面の展開や、印象のつらなりが、自然に再現されてゆくように。語彙の選択よりむしろ、語順や句読点の工夫です。フランスにかぎらず欧米では──いや、じつは世界中の文学についていえると思うのですけれど──文学作品が誕生するプロセスにおいても、これが鑑賞される場面にも、朗読といういとなみが深く係わっている。いいかえれば原典は音読を想定して書かれているのに、翻訳は黙読が前提になっている。これが朗読会や音声メディアで翻訳物がとりあげてもらえない大きな理由ではないでしょうか。

「訳者解説」では、そうした翻訳の工夫についても報告しましたが、ほかに、どんなことを書いたかというと:
①いわゆる韓流とコレットについて。女性が自分の年齢もかえりみず若者の美を愛でることは「見苦しい」という文化的規範が、日本でゆらぎはじめたのは、ようやく10年ほど前のことですからね。1世紀おくれています。
②コレットと同世代の日本の女性作家たち、とりわけ「青鞜」の平塚らいてうについて。そして「一人称にてのみ物書かばや。われは女(おなご)ぞ」と高らかに謳った與謝野晶子について。
③女性作家による「ココット」(高級娼婦)をヒロインとした小説──これはジェンダーの歴史と文学史における画期的な「事件」であるはず。デュマ・フィスの『椿姫』は男の身勝手と自虐的な願望が透けてみえるという話は、先回のエッセイにも書きましたけれど、コレットは、それまでの男性作家による「娼婦もの」にお決まりの構図を完全に反転させた。まさに新しい宇宙を見せてくれるほどの力業だと実感しています。ただし、これを論証するためには、コレット論では足りない。ヨーロッパ近代文学を土台にして大きな枠組みを構築する必要があるでしょうね。
④ 深尾須磨子のコレット論。生身のコレットに親しんだ唯一の日本女性でしょう。菜園に植えた薄荷の匂いにむせながら、ふたりで飲んだお茶。サロメさながらの存在感。「ひもじい」と叫ぶほどに旺盛な食欲、スポーツや畑仕事にも熱中する……、健康で貪欲で鋭敏な身体と「小石がちの小川のせせらぎ」のような不思議な声をもつ異国の女性作家が、まさしく「一人称」の視点から描かれています。

……という具合に、ずいぶんと欲張った「文学講義」なのですけれど、じつは、このシリーズには「世界の名作を読む」のサブ教材としてのねらいもあります。それで「放送大学叢書」と同じ、軽くてすっぽり手に入り、文字もゆったりして読みやすい版にしてもらいました。ただし「講義」とはいえ「専門家」の権威とは無縁。むしろ翻訳とセットにして作品の読み方やアプローチの実例を提案し、作家の世界へといざなう、とでもいいましょうか。むかしの文庫本の解説には、作家の伝記や文学史の基礎知識をふまえて粛々と……というタイプのものが、すくなからずありましたが、それはもうWikipediaでじゅうぶん、と、ある編集者がいっておられた。そのとおりだと思います。それに、十数年まえとまったく同じコレット像が、同じ宇宙の同じ星として見えているのであれば、訳者としても、新しい書物を世に送る資格はありませんものね。

朗読の話にもどりましょう。日本の朗読文化は、まさに文化として未熟なのだろうという気がします。発声や発音を訓練し、あとは、ひたすら「感情をこめて」読めばいい? そんな簡単なことではないはず。的外れな「思い入れ」は、聴く者を白けさせるだけでしょう。作家のaccent cordialを見いだすこと。それぞれの文章にune sorte de vie sentimentale et continueをあたえること。求められているのは作品への深い共感、理解しようとつとめる謙虚な姿勢、そしてゆたかな文学の素養です。プルーストの思い描く「理想の朗読者」とは「理想の読者」なのであり、そのモデルは、語り手のお母さんにほかなりません。

さて、プルーストを引き合いに出したあとで、畏れ多いのですが、コレットの朗読イヴェントをご紹介しておきます。11月17日(水)、場所は銀座のマキシム・ド・パリ。食いしん坊のコレットのレシピのランチだそうです(小さい声でつけたせば、放送大学の学生さんは、同じ投資をするなら、面接授業を履修して、本を買ってちょうだい、というのが本音ですけどね)。コレットは文学作品を世に送りだすためなら、舞台でも、映画でも、朗読でも、トークでも、なんでもやりました。わたしは訳者としてのお手伝い。70を過ぎても「新しもの好き」だった作家のエネルギーと気っ風のよさに学びたいものです。
http://www.cetera.co.jp/cheri/news/index.html

10月31日、放送大学世田谷学習センターにおける公開ゼミ「コレット『シェリ』―小説・映画・翻訳」については、こちらをご覧ください。
公開ゼミのお知らせ(PDF)

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