工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

コレット+ココット

2010年 11月 4日

ウェブサイトの波及効果もあるらしく、先日の公開ゼミには学外の方々、とりわけ映画関係、出版関係の方々も参加してくださって、開かれたキャンパスというイメージになりました。『わたしの可愛い人―シェリ』の字幕翻訳を担当なさったベテランの古田由紀子さんと、生まれて初めて字幕監修をやったわたしとのトーク・セッション。あのときの聴衆は、このサイトを再訪する可能性も高いので、会場の発言を思いだしながら、つづきのおしゃべりです。

女の諦念がすべての執着に打ち勝って、6年越しの愛に決着をつけることになる大団円。小説のレアは、自分を「婆さん」というどぎつい言葉で形容するけれど、映画のレアは「老いた女」という。どんなふうに訳語をえらぶのか、という質問がありました。古田さんのお答えは:ミシェル・ファイファー演じるレアについては、映像が凋落する女の美をそれなりに美しくまとめようと配慮しているのだから、それにふさわしい穏やかな言葉をよりそわせる、というもの。この感覚、よくわかります。

小説の場合、老いの残酷な刻印を、どこまで露出させるのか、という迷いはつねにありました。うら若い娘と結婚したシェリが、心の安らぎを見いだせぬまま数ヶ月を鬱々と暮らし、あるとき前触れもなく深夜にレアの家に闖入する。その翌日のやりとりです。

「だからさ、わかるでしょ、ヌヌーン、そんな生活が何カ月もあってさ、それでぼくはここにきたんだ、そしたら……」
 彼はあやうく口許まで出かかった言葉にぎょっとしておし黙った。
「それであんたはここにやってきて、ひとりの婆さんを見いだしたってわけよね」彼女は弱々しいけれどおちついた声で言った。
「ヌヌーン、ねえ、ヌヌーン!……」
 彼はいきなりひざまずいて彼女に身をすりよせた。その顔には、なにか失敗をしでかしてそれをごまかす言葉が見つからなくなった子供の困惑した表情があった。
「それであんたは、ひとりの婆さんを見いだしたってわけよね」レアがくり返した。「あんた、いったいなにが心配なの、坊や?」

シェリがあわてて飲みこんだ「婆さん」という言葉を、レアは弱々しいけれどおちついた声で反芻したのです。小説の翻訳として、ここは「老いた女」ではありえない。これまでもレアは、仲間の女たちについては平気で「婆さん」という言葉をつかっているのですから、語彙はむしろ日常的なのですが、ここでは「婆さん」という語彙の石ころのように無粋な物質性が効果を発揮するはずです。ひと言いいそえれば、vieille femmeに相当する日本語のパレットに、たとえば「老いた女」「婆さん」「老女」「老婆」という語彙がある場合、これを4つのカラーのように使い分けようという話。小説の幕切れで、縦長の鏡にうつるレアは「老女」です。

50歳を目前にして現役の「ココット」の輝きを失わぬレアが、こうしてひそかに「婆さん」というレッテルを引きうけます。女の人生のもっとも哀切な瞬間といえましょう。コレットの小説には、酷薄な一面があるとわたしは感じています。訳文には作品の解釈とも同調する個人的な「感じ」が反映されており、こうした次元で「翻訳者」は「演出家」になるのかもしれません。

ところで映画は風俗を贅沢に見せてくれるという意味で、外国文学の補助教材にうってつけ。とりわけ「ココット」(高級娼婦)という職業については、プルーストの映画化―1983年の『スワンの恋』と1998年の『見いだされた時』―よりも、即物的にわかりやすい資料になっているという気がします。

ゼミでとりあげた場面は2つ。まずは温室のようなサロンで、引退したココットたちが談笑しているところに、70代の女と10代の少年からなるグロテスクなカップルが登場する場面。そして南仏のホテルで休暇をとっているレアが、なぜか「プロフェッショナル」として行動してしまうエピソード。

筋骨隆々の「大馬鹿者」をレアが自分の部屋に招じ入れる場面について「あとでレアはお金を受けとるのでしょうか」という質問があり、「ココットは小銭はうけとりません」とわたしは答えたのですが、それ以来、なんとなく考えつづけています。ほかにアイデアがないから仕方ないとはいえ、「高級娼婦」という訳語は、やっぱりわかりにくい。娼婦の定義とは、女性という「セクシュアリティ」をお金に換えること。「高級」であればあるほどに「安売り」はしないのです。

コレットを読んでいると、たえずプルーストが念頭に浮かびます。なにしろ『失われた時を求めて』はあれだけ長い作品ですから、それこそ全部、詳細に書いてあるのですよ。スワンがオデットにお金をわたすようになったいきさつから、だんだんと贈り物が派手になり、ついには結婚という最も安定した経済効果が贈与されるまで。商品化されたセクシュアリティとしてのココット、というテーマで、じつは今回「コレット+ココット+オデット」と3つ韻を踏んだタイトルのエッセイを書こうと思ったのですが、これは新書ネタほどのスケールになりそうな話題なのであきらめました。

ところでココットがわからないとフランスの世紀末とベル・エポックの文化はわからないという説があるようです。これを男性がおっしゃると、あら、そういう話がお好きなのね、などといいたくなるのは、たんなる皮肉。それにしても「ココット」という職業、そして「裏社交界」と呼ばれる社会空間を、文化的な付加価値をもつ時代の副産物として片づけるわけにはゆきません。

そもそも男性の「セクシュアリティ」をめぐる批判的な議論がないのは片手おち。19世紀のブルジョワ階級が醸成したモデルでしょうけれど、家庭では貞淑な妻、一歩外に出れば浮気な商売女と二股をかけることが、男の甲斐性のようにみなされる風土がありました。これをみごとに形象化したのがフローベールの『感情教育』で、舞台は世紀半ばのパリ。主人公のフレデリックはアルヌー夫人に思いをよせながら、ご亭主のアルヌーに囲われたロザネットにも手を出してみる。ライヴァルの「二股方式」を忠実に見習おうとするわけです。こんなふうに「コレット+ココット+オデット+ロザネット」と話題をひろげれば、ハードカヴァーの単行本が出来そうですけれど、それにしても、この押韻は偶然でしょうか。

要するにいいたいのは、「姦通小説」にせよ「ココット」にせよ、華やかな文化遺産として愛でるだけでなく、社会の「ジェンダー構造」を分析してほしいということです。異性への憧れとマゾヒズムがないまぜになったような感想文や、セクシュアリティをめぐる消費者マインドが透けて見える、したり顔の論説を読むと、いきなり話を飛躍させ、西洋近代の延長上に日本の現代社会があり、それで今でも女の子たちは苦労をしているわけですよ、と啖呵を切りたくなったりするのですから、困ったもの。

さて、マキシム・ド・パリの朗読会の準備をしなければなりません。メニューはコレットのレシピなのですが、とりわけ楽しみなのが、Soupe de cerises ―語感が素敵ですし、やけにシンプルなレシピなので、本当に美味しいのかしら、と以前から思っておりました。

コレットは、自分で野菜を作り、お料理もやって、美食エッセイを書いた人。台所をさぼりたい日には、ハムを一切れ、残りもののチーズ、なんて具合につまみぐいするのもわるくない、作るのは「桜ん坊のスープ」のみ、という話ですから、レシピが簡単なのは当然ですけれど、とにかく文章のオチがいい。C’est effrayant ce qu’on peut ingurgiter quand on ne mange pas…「きょうは食べないなどといいながら、ついついingurgiterしてしまうのだから、困ったもの」というときの、ingurgiter ―フランス語の辞書ではavaler avec avidité, souvent en grande quantité. 仏和辞書では、「がつがつ食う」「むさぼり食う」。言葉の美食家コレットの訳語としては、もうちょっと美味しそうな日本語がほしい。。。
img_2181

▲ ページの先頭へ戻る