工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

コレットに誘われて

2010年 12月 1日

コレットをめぐって思いがけぬ人と人とのつながりが生まれています。映画の公開に合わせて『シェリ』の新訳を刊行するという話にしても、十数年も前に出た文庫本1冊だけじゃ、プロモーションになりません、なにか形にしてくれませんか、という映画配給会社セテラ・インターナショナルのひと言に、つい、その気になってしまったからですし。わたしはどうやら、誘いに乗せられやすいタイプのようです。

銀座マキシム・ド・パリの朗読会は、レストランとセテラ、池袋コミュニティ・カレッジ、そして版元の左右社と共同の手作り企画でした。マキシムの豪華なベル・エポック風ディナールームは、もとよりイヴェント会場ではありませんから、当日は、関係者がそれぞれコレットの写真パネルやパソコンやピン・マイクまでもちこんで、なんだか学園祭のような雰囲気。レアやシェリが出入りしたような空間で、レアやシェリが好んだにちがいない昔風のヘルシーでしっかりした肉料理をいただいて───デザートの甘く冷えたサクランボのスープは想像以上に美味でした───それから『シェリ』の翻訳を会場の皆さんとともに読む。わたしにとっても、心浮き立つ贅沢な時間でした。

コレットは晩年に文壇の重鎮になってからも、厳めしい研究者たちが君臨するアカデミックな世界には近づこうとしなかった。だから、わたしも大学の外に出て「プロモーション」をやろうと思っているわけです。それにしても朗読などとは無縁だった教師が、いきなり何を思いついたのやら、とお考えでしょうね。10月のエッセイでもご紹介しましたが、あらためてプルーストの文章を引用しておきましょう。

今回は、書店にならんだばかりの吉川一義さんの新訳で───既訳をおもちの方も、ぜひ岩波文庫を手にとってみてください。力強くイメージを喚起するみごとな日本語、読書の導きになる簡潔な訳注、研究者の目でひとつひとつ丁寧にえらんで解説をつけた豊富な図版。すばらしい出来栄えだと思います。

母がジョルジュ・サンドの散文を読むときは、〔…〕その声から注意ぶかく卑小な気取りはすべて排除し、そこに力強い流れが入りこむよう工夫したうえで、まるで自分の声のために書かれ、すべてが自分の感受性の音域に収まるように感じられる文章に、その文章が求める自然な愛情と、豊かで優しい気持をたっぷり注ぎこんだ。文章をふさわしい口調で読むにあたり、言葉では示されていないが、文章が生まれる以前に存在し、その文章を書き取らせたはずの温情あふれる調子を見出したのである。

『失われた時を求めて』の語り手にとって、幼いときにお母さんが、こんなふうにして読んでくれたジョルジュ・サンドは、理想の書物、理想の朗読となるのです。そうしたわけで、こと朗読にかんしては、発声や滑舌や演技の訓練よりもっと大切な、何かがあると思うのです。それを開かれた実践的な場で、参加者とともに考えてみようというのが、わたしの企画。

「声に出して読む翻訳コレクション」と銘打った新刊『シェリ』に、さっそく目をとめてくださったのは、アルク『翻訳事典』の編集部。先日、左右社も同席して、わたしの家でインタビューがあったのですが、朗読CDのコレクションなどをご披露しているうちに、すっかり話がもりあがって、今度は、アルクの編集部が主体となって、気軽なカフェで朗読会をやりましょうということになりました。

おそらく3月の初め、都内某所のお洒落なカフェで。詳細は1月刊行の『翻訳事典』あるいはアルクHPでどうぞ。それにしても、こんなふうにコレットがきっかけになり、いってみれば市民的な読書運動がひろがってゆくのは、本当に頼もしい。大学に囲い込まれた古典文学では、こうはいかないでしょう。

「朗読カフェ」の構想をあれこれ考えています。『シェリ』についても、まだまだ話題はありますが、短篇などの新訳も読んでみたいと思っています。テーマは、そう、たとえば母娘の関係とか。なにしろコレットの母親シドというのは、近代フランスの家族制度を語るとき、かならず言及される魅力的なプロトタイプらしいのです。今日でも、ちょっと教養のあるフランス人なら、自分の個性的な母親をシドになぞらえるのが手放しの自慢話であることは、暗黙の了解でしょうね。生身のシドと、コレットの文学のなかで「神話化」された母のイメージとのあいだには、無視できぬ距たりがあるともいわれますけれど、これはまあ、よくある話。さしあたりはモデル問題にはかかわらず、まずは作品を紹介してみたい。

『夜明け』という作品は、老いを予感する年齢のヒロインが、年下の男性の愛を拒み、独りで生きてゆこうと決意する物語。『シェリ』の発表から8年後、50代半ばのコレットは、腰を据えて「女の諦念」を描き出すいっぽうで、私生活では貪欲に、生涯の伴侶となる年下の男性を受けいれている。とにかく一筋縄でゆかぬところが、いかにもコレットらしいのですが、その『夜明け』の冒頭で、語り手は自分の母親が以前に書いた手紙を紹介し、自分はこのような母の娘なのだ、と誇らしげに宣言しています。

それは田舎に住む母が、コレットの二番目の夫の招待を断ったときの手紙です。大切にしているサボテンが、もうじき薔薇色の花を咲かせるようだから、そしてこの貴重な花は、4年に1度しか開かないそうだから、わたしは今、旅に出るわけにはゆきません、せっかく愛しい娘にゆっくり会える機会をつくってくださったのに、申しわけありません、でも、わたしはもう4年後には生きていないと思うので……という文面。

棘だらけの熱帯植物のうえにかがみこみ、熱いまなざしをそそぐ母、翌年には世を去ることになる老いた母の姿を、語り手は鏡に映った自分に重ねてみるのです。ぬくもりと隙間風、そっと突き放す仕草と強烈な執着が、不思議な静けさのなかで同居するような、なんとも微妙な人生の二重奏。ここに「自立した女どうしの健全な母娘の関係」などという型どおりのレッテルを貼ってしまうのは、あまりに粗雑だろうという気がします。

幼いころの思い出をつづった『クロディーヌの家』や、亡き母にささげられた『シド』などの短篇を、いくつか読み解くうちに、「新しい母親」の娘としてのコレットが見えてくるかもしれません。

今回の写真は、新訳刊行のお祝いという気持をこめて、幼少のプルーストにまつわるイメージを……。
bonbons1gare

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