工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

人文学の非力について

2011年 3月 30日

1968年の春、わたしはスペイン国境に近いフランスの町ボルドーにおりました。留学生は一月かかる南回りの船旅か、あるいはナホトカに向けて旅立ちソ連横断の陸路をとるか、という時代でした。あの歴史的な事件を今日では「五月危機」と呼びますが、学生と労働者のデモ隊が警官と激しく衝突して夜間は外出禁止、催涙弾の白煙が路上に漂い、保守的な地方都市の住民は「共産主義の謀略」や「内戦の危機」の噂に明け暮れていたのです。大学当局は遠国からの留学生に対し「国外退去」をすすめました。

レマン湖のほとりですごした束の間の「亡命生活」は、今となっては笑い話。でも、わたしは一文無しの留学生で、ゼネストのために日本との交信も途絶え、目の前が真っ白な更地になってしまっていたのです。世界の様相が一変した。安穏な日常を食い破る獣さながらに、得体の知れぬ力がうごめいている。そんな浮遊するような感覚をおぼえていたことを、今、思いだしています。

思いだすのは、得体の知れぬものをまえにして絶句するという感覚が、似ているからでしょう。一瞬で大地を呑みこむ神話の怪物のような大津波、じわじわと迫る原発崩壊の悪夢、おわりの見えぬ余震や停電や放射能汚染。二十代に外国で遭遇した文明史の巨大なうねりについては、わたしは事件にまきこまれた傍観者にすぎなかった。でも、今おきている何かについては当事者の感覚が重くのしかかっています。

それにしても人類が直面する「リスク=危険」という主題について、人文学は何を語れるのでしょうか。自然科学は、今、地球上でおきていることについて説明を求められるはず。社会科学は問題点を整理して解決策を模索するはずです。すなわち自然科学と社会科学は、地球の現代と未来に責任をもつ学問だということになりましょう。その一方で、切迫した課題が目の前に山積するほどに、人間の歴史や記憶という過去にかかわる問題は遠のいてゆくようです。ましてや文学の創造・研究・批評などは「実用性」も「即効性」も欠落した営みです……。

そんなことを思い巡らせながら日をすごしているときに、一冊の書物がとどきました。表紙は光溢れるドラクロア、タイトルは「愛、ファンタジア」───こんなご時世に、またもや「オリエンタリズム」? それとも「ポスコロ」? とつぶやいてから、アシア・ジェバールという名に目をとめて、あるインタビューを思いだしました。

8年におよぶ熾烈な戦いののち1962年に独立を果たした直後のアルジェリア、まだ20代半ばのアシア・ジェバールが、アルジェ大学で歴史の教員として働きはじめたころのこと。ある日、文部大臣が関係者をあつめ、今後は歴史教育をアラビア語で行うと通告したのだそうです。旧宗主国の言語が知的活動までを「植民地化」したままであることへの強い抵抗運動として、マグレブ諸国で「アラビア語化運動」がおきていた。その大きな流れにそった決定だったわけですが、ジェバールは、おずおずと手を挙げて発言を求めました(インタビューのなかで彼女は「わたしは内気だし、女は独りでしたから」と言いそえています)。

発言の趣旨は、初等教育は別として、当面は歴史教育のアラビア語化に反対するというもの。なぜなら、今、アラビア語で教えられるのは、かろうじて「出来事の歴史」にすぎないだろうから。一方で国民教育にとって不可欠なのは、歴史の史料を批判的に読むことであり、すべての人が「なぜ?どういういきさつで?」という問いへの回答を真剣に探すことだから、というのです。これを手がかりにして考えてみましょう。

アシア・ジェバール『愛、ファンタジア』は音楽的な小説です。1830年、フランスによるアルジェ占領から国土の征服と植民地化、1世紀以上にわたる収奪と弾圧の時代、そしてアルジェリア独立運動と脱植民地化という時間軸に、いくつもの、それこそおびただしい数の異質な「声部」が不規則に絡み合うようにして奏でられていく。その「声部」を大ざっぱに分類して紹介するならば:

「書かれたもの」───1830年7月アルジェ占領の経緯だけでも37の出版物が確認されているそうです。その中で、包囲された側の証言は3つ。誰が、いかなる状況で、いかなる視点から書いた報告かを検証しつつ、文献の引用を小説のテクストに折り込んでゆく。ジェバールの手腕は、まさに史料批判を実践する歴史家のもの。ちなみに報告の著者は全員男。

「オラルヒストリー」───抵抗運動の現場にいた文字の書けぬ女たちの証言。ジェバールからみれば全員が自分の母か祖母か曾祖母にあたる世代です。女たちの言い伝えを聴き取った歴史家が、小説家として造形する女たち。とりわけ「声」と題された章で「わたし」の物語を語るマキの活動家は素晴らしい。断片的な「事実の報告」よりも、仕組まれた「フィクション」のほうが隠蔽された「真実」を暴く力をもつことがあるのです。

「女たちの声、そして叫び」───兄の死骸を前にした羊飼いの娘の長く尾を引く叫び声。疑り深い女たちのおしゃべりや幽閉された女たちのひそひそ話。ささやくように語られる身の上話。車座になった女たちが聴き取れぬような小声で交わす挨拶。あるいは、はじけるような言葉、ほのめかしや格言や寓話や、ありとあらゆる技をつかった言葉の饗宴。そして「ファンタジア」と呼ばれるアラブの勇壮な騎馬試合に女たちが寄りそわせるあの甲高い叫び、あの「ユーユー」あるいは「ツァルル・リット」という絶叫のような言語、ゆたかな口頭言語のなかで育まれ、純化され、ついに音楽と化した愛の叫び……。

作品はフランス語で書かれています。フランス語教師を父にもったアシア・ジェバールは、フランスに留学して高等教育のエリートコースで頭角をあらわして哲学と歴史を学び、小説家、映画作家として世界から注目されつづけ、2005年にはアカデミー・フランセーズの会員になりました。人生のあらゆる場面において「初めてのアルジェリア女性」という役をふりあてられながら生きてきたのでしょう。

本人の述懐するところによれば、フランス語は「継母」であり、「ビロードのようであり、しかも棘がある」のだそうです。アカデミーの入会スピーチの冒頭で、ジェバールはディドロを引いて「外部にいながら同時に内部にいること」être à la fois au-dehors et au-dedans という言葉を標語のように掲げます。おそらくそれは、言語についての経験にもあてはまるはず。

他者の言語であるフランス語だけでなく、アルジェリアの国語であるアラビア語も、遠い祖先からうけついだベルベル語も、さらには叫びや身ぶりとして表出される女たちの言語さえ、すべては「外部にいながら同時に内部にいること」の経験のなかで生きられている。そうわたしには感じられるのです。

「外部にいながら同時に内部にいること」という標語の寓意は何か。「異分子としてそこに居つづけること」と読み換えることができるかもしれません。アカデミー・フランセーズはもとより、フランス文学にとっても、アルジェリア国民にとっても、そして言葉を奪われたイスラームの女たちにとっても、ジェバールは「異分子」のはず。今や、わたしの共感は、ひたすらその一点に向かいます。

そしてひとつの夢が立ちあがります。5年後あるいは20年後かもしれないけれど、懐かしい東北訛りのある老人の語りから科学データまでを批判的に分析できる当事者があらわれて、「外部にいながら同時に内部にいる」という立ち位置から、2011年の日本について証言するだろうという夢が。それは人文学の研究書であってもいいし、小説という形式のフィクションであってもいい。著者が女性であることを祈念しています。

ここでがらりと声音が変わりますが、日本はどうしようもないほど「異分子=異なる見方」を排除する村社会なのですよね。学問も企業も。それゆえ研究者の世界では、いまだに内部と外部を細分化する仕切り壁がそそり立っており、この未曾有の危機に対処しなければならぬ企業や官庁を代表するのは、どちらを見ても、ああ、均質な面立ちの男、男、男……。

声高に広報活動をして、この長いエッセイをしめくくりたいと思います。
アシア・ジェバール『愛、ファンタジア』は志の高い書物です。訳文は工夫されていて読みやすく、巻末の注や歴史年表も行き届いています。そして「訳者解説」は、この作家を初めて日本に紹介するための周到な手引きとなっています。大学の助成金を受けた出版であるらしく、定価にも努力のあとが見られます。詳しくはAmazonのサイトをどうぞ。担当の編集者が書いたのでしょうけれど、情報量のあるコメントも貴重です。

今回は、あまりにも長閑な異国の写真はやめにして、書影にジェバールの引用をそえることにいたしましょう。

djebar

どんな言葉も、あまりにも光輝くものは大言壮語の声となる。
一方、押し殺された言葉は、揺るぎない抵抗の声となる。

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