工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

革命とロマン主義をめぐる四冊の書物

2012年 1月 14日

「東北の苦境も、放射性物質の不安もつづきますが、今年もよろしく」というメールを管啓次郎さんからいただきました。季節がめぐり早春の気配がただよえば、あの胸をしめつけられるような不安がまたあたりをおおうのでしょうか。文章を書く者の社会的な責務、などと大上段にかまえる気は、わたしには毛頭ありません。でも、たまたま職業人として発言する機会に恵まれてきたのですから、年の変わり目にちょっと改まった物言いをするならば、なるべく見苦しくなく生きたいという矜恃のようなもの、いっそう大切にしたいと思っています。

『ろうそくの炎がささやく言葉』を携えての関西ツアーは、合計13回の朗読イヴェントの締めくくりになりました。オーガナイザーの管啓次郎さんと勁草書房の編集者のお二人への感謝と敬意は個人的なことですから、もう少し一般的な感想を。

首都圏はイヴェントが多すぎる、それに大学もシンポジウムが多すぎる。ずいぶん前からそう感じていましたが、それでも、やらないわけにはゆきません。質の高い企画を立ちあげようと手弁当で奮闘している人ほど、多すぎる、でも、やらないわけにはゆかない、と自分に言い聞かせているでしょう。いっぽう、東京で錬磨した企画を首都圏の外にもってゆくことは、じつに新鮮な経験なのですね。これは「ろうそく本」にみちびかれて高知と関西に「遠征」した実感です。地元で活動する方々との貴重な出会い、というのは、ありきたりな形容ですけれど、要するに文化的な営みをリシャフルする効果があると感じました。

華道家の片桐功敦さんが友人の方々とともに稽古場の和室を周到にしつらえ準備してくださったコラボレーションは圧巻でした。当日の写真と催しの内容については、以下をご覧いただくとして。
http://lemurmuredesbougies.tumblr.com/post/14555992575/12-17
http://monpaysnatal.blogspot.com/2011/12/blog-post_19.html
ひと言だけ、個人的な思いを述べておきましょう。華道、現代アート、彫刻、写真、和蝋燭など、ひとくくりにすれば「アーティスト」と呼べる若い方たちが、いかに経験に根ざし身体化された言葉を語るかということに、わたしは新鮮な驚きを覚えたのでした。あえて言葉ではない表現手段をえらんだ人たち、まさに身体を動かすことで造形する作家たちです。一方で純粋に言語的な営みである大学の文学研究は「アネミー=貧血」の症状を呈しているという自覚があるからこその印象かもしれません。

やはり「滋養」は外から体内に取り入れるものでしょう。というところで、いつもの話題に戻ります。教壇に立つことを辞めても書物にかかわっているかぎり、学生にも社会人にも語りかけることはできる、と思っているのだから、要するにわたしは根っからの教師、というか、そのなれの果て? そう、いつもいうことですが、あらゆる意味で外部とのリシャッフルが求められているのです。そのことと関係がなくはない4冊の書物についてお話します。

まずリン・ハント『人権を創造する』(松浦義弘訳、岩波書店)。「人権という力強い考えの誕生と発展を描いた、すばらしい歴史書」というアマルティア・センの推薦の辞が、帯に印刷されています。ただし、この言葉が暗示するような未来志向の熱気だけでなく――先回のエッセイで話題にした『イスラーム世界の創造』やLa création des identités nationalesと同様に――冷静な距離感と微妙な陰影がInventing Human Rightsというタイトルにこめられているようにも思われます。人権概念とは具体的な歴史プロセスのなかで徐々に「作り上げられた」ものなのです。

ルソーの『ヌーヴェル・エロイーズ』をはじめとする18世紀の書簡体小説は、読者の紅涙をしぼり「共感」empathyという次元であらたな想像の共同体をつくりだした、この土壌があってこそ「平等」への心構えが生まれ「人権」の概念も育まれたのだ、というのが導入の話題。ご存じのようにリン・ハントは、アメリカ歴史学会の会長も歴任したカリフォルニア大学の教授でフランス革命の専門家。アメリカの独立宣言とフランスの人権宣言をならべて縦横に読み解く手法ひとつをとっても、「リシャッフル・タイプ」の研究者であることがわかります。本を入手して読む時間のない方は、せめて50分を割いて以下の動画をご覧ください。
Lynn Hunt: Inventing Human Rights: http://www.youtube.com/watch?v=YZVD1G4q0bA

この講演は、著作の第2章であつかわれる主題が中心で、図版をバックに「拷問」の廃止が他者の身体的苦痛や個人の尊厳をめぐる「共感」にもとづく思考とどのようにかかわるか、という議論が展開されています。ところでリン・ハントの仕事はわたしにとって、ジェンダーの問題系にかかわる堅実な歴史学的考察の模範ともいえる。たとえば18世紀に英仏の女性たちが結婚と離婚をどのような法制度と社会的風習のなかで経験していたかという疑問に答えてくれる文章とか(第1章の「女性の奇妙な運命」)。あるいは「人権宣言」によって抽象的な自然権は認められながら政治的権利を保障されなかった者たち――未成年、犯罪者、外国人、貧しい者、そして女性全員――についての分析など(第4章)。

読後にそんなことを考えながら、例によって家事のかたわら配信されたばかりのCanal Académieのインターネット放送を聞いていたら、偶然にもモナ・オズーフがフランス革命と女性の権利にかかわるインタビュー番組に出ていました。
http://www.canalacademie.com/ida8230-Mona-Ozouf-et-la-question-du-genre-La-question-du-genre-va-t-elle-detruire-la-courtoisie-a-la-francaise.html

ジョーン・W・スコットによる「フランス革命は白人男性という特殊な存在が普遍的な価値を簒奪して体現したものだ」という趣旨のテーゼに反論するという企画で、番組のタイトルLa question du genre va-t-elle détruire la courtoisie à la française ? を補って意訳すれば「(アメリカ式の)ジェンダー論はフランス式の宮廷風恋愛(=男女関係)を破壊するか?」というもの。なかなか挑発的です。

そもそもはラディカル・フェミニズムを標榜するジョーン・スコットが一方的に仕掛けた論争であるようですが、これに相対するモナ・オズーフはさすが。革命期の法制度、とりわけ結婚と離婚にかかわる法律がどれほどラディカルな「男女平等」を貫いているか、歴史家として論じる弁舌には重みがある(この問題、「姦通小説」の専門家であるわたしとしては見逃せないテーマなので目下勉強中、いずれ成果をご報告しますけれど、父権的な家族像を構築したのは革命法ではなく、ナポレオンの民法典であります)。

この番組は、本来の歴史研究とはいささかずれた次元で興味を誘います。「ジェンダー」の訳語である「ジャンル」という語彙が、なぜかフランスには根づかない。米仏の文化論的な齟齬を露呈させるところが、逆に面白いともいえる。モナ・オズーフは、余裕のある低い声で、実証的な根拠とエピソードをまじえて以下のように述べています。男女の力関係のあり方を「抑圧」と「敵対」という用語で捉え、民主主義の起源と女性排除は同根だと断罪してしまうのは不毛な議論であり、自分は共感をいだけない。フランスの「性差」という考え方には、洗練された貴族のサロンの会話によって培われた両性の知的交流という伝統がゆたかに流れこんでいる――これはマルク・フュマロリも指摘することであり、ペローの昔話の訳者解説でわたしが考えてみたかったのも、まさに語られる言葉の伝統という問題なのですが。それはともかく――「慇懃で文化的な人間関係」civilitéをモナ・オズーフ自身は「男女関係のあり方」と婉曲に指し示しますが、番組プロデューサーは、わざとアメリカ人の反感を買いそうな「宮廷風」という言葉をつかっているわけです。

というわけで、この論争、深入りは禁物。なにしろ番組の最後のほうでは、あの国際通貨基金のドミニク・ストロスカーン専務理事が性的暴行容疑で訴追された事件にかかわる発言のせいで、モナ・オズーフが「偽フェミニスト」呼ばわりされたという出来事が喚起されており、これでは「人権」の話どころか、「ジェンダー」と「ジャンル」をめぐる米仏論争の不毛な蒸し返しになりかねない。それよりも「わたしは筋金入りのフェミニストです」というモナ・オズーフの応答のほうに、興味あるでしょう?

理由は三つ。第一に、あらゆる領域、あらゆる活動において、女性が成果を挙げることに深い共感と喜びを覚えている。第二に、少女のころから女性は自立すべきだと考えてきた。第三に「麗しの王子」の登場を期待せずに生きてきた――ふむ、納得です。ところで、声にせよ、ポーズにせよ、生身の身体は雄弁なもの。品位を失わずに知的で挑発的なサロンの会話に参加する貴婦人のような風情をちらりと鑑賞したい方は、上記サイトの真ん中あたりに掲載された美しい写真をご覧くださいませ。

さて、超大物の女性研究者たちにはご退場いただき、ようやく二冊目の話。もちろん自分の関心に照らしてですけれど、若い世代の仕事をご紹介しながら、こちらも広い学問領域の「滋養」を摂取したいと考えています。高山裕二『トクヴィルの憂鬱――フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生』(白水社)は、副題からも推察されるように、少なくとも三つのディシプリンをリシャフルしようという野心作。トクヴィルは著者の専門領域である政治学、ロマン主義は文学、そして世代論となれば当然のことながら歴史学とりわけ社会史を参照しなければなりません。

ジュール・ミシュレ、バルザック、ヴィクトル・ユゴー、オーギュスト・コント、ドラクロワ……これが全員同世代なのですから、只事ではない、その現象自体が、まず考察されて然るべきなのです。1805年生まれのトクヴィルはこのグループの最年少。革命によってアンシャン・レジームの価値が崩壊し、ナポレオン体制の延長上で19世紀の国民国家が構築されてゆく。その間、きわめて積極的に政治参加をした作家たちが、一方では、ナポレオンという英雄が神話になりつつある時代の「憂鬱」を分かちあっていた。複雑な明暗に彩られた時代精神を描きつつ、そのなかにトクヴィルの人生と著作の総体を置きなおそうという試みです。

「1820年世代」の「憂鬱」な青年たちが愛読したのは、ナポレオンとほぼ同い年で、いわば長兄に当たるシャトーブリアンでした。話は変わりますが、いずれボヴァリー夫人となるエンマ嬢も同じころ、女子修道院付属の寄宿学校で『キリスト教精髄』に謳われた「宗教の詩情」にひたって成長したのです。作者のフローベールは1821年生まれ、つまり「遅れてきたロマン派」として出発し、レアリスムの巨匠とみなされ、ポストモダン的なパラダイムを予告するようなことまでやってしまった。ここでいきなり大きな見取り図を立てるなら、19世紀の半ばの『ボヴァリー夫人』を分水嶺として、「宗教」と「政治」と「文学」の関係が大きく変化していったと思われます。これが論証できれば、ちょっとしたものだけれど……。

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最後の二冊は『トクヴィルの憂鬱』でも参照されている文学批評の名著です。ポール・ベニシュー『作家の戴冠』は1973年に出版されたときに購入し、線を引いたりキーワードを書き出したりして読んでいたことを、昨年の秋に古びた本を引っぱりだして確認し、あきれましたね。まさに「滋養」にすることが全然できなかったわけ。70年代は、アカデミックな文学研究が「物語分析」や「草稿研究」「生成論」「言語論」など、いわゆる「内在批評」に収斂し、先鋭化していった時代です。今あらためて、ベニシューの驚くべき先駆性に向きあおうと真剣に考えているところです。

Le Sacre de l’écrivain, 1750-1830, Essai sur l’avènement d’un pouvoir spirituel laïque dans la France moderneというタイトルの全体を邦訳するなら『作家の戴冠(1750年~1830年)――近代フランスにおけるライックな霊的権力の誕生をめぐる試論』とでもなるでしょう。なんのこと? って感じかもしれませんね。「戴冠」sacreにはナポレオンの戴冠式と同じく「聖別」という含意があり、「霊的権力」pouvoir spirituelは「世俗の権力」pouvoir temporelに対するカトリック教会の権力を一義的には意味しますけれど、そのままではlaïqueの「非聖職者」という原義と矛盾します。啓蒙の世紀からロマン主義の時代にかけて世論の指導権を掌握した「文学」の営みを「信徒の教導権をもつ聖職者」の活動になぞらえた比喩表現とお考えください。わかりやすくいえば、ここで「文学」が「宗教」から「教導権」を奪ったのだけれど、言語の二重の意味に託されたヴィジョンこそが大切なのです。ちなみにここでいう「文学」は、政治思想や哲学や博物学などをふくむ広義の著述業を指す言葉。

ポール・ベニシューの主要業績は2003-2004年に、ピエール・ノラの『記憶の場』と同じ由緒あるコレクション、ガリマール社の« Quarto »から二巻本で再刊されました。第1巻の前半が『作家の戴冠』で、後半には『預言者の時代』Le Temps des prophètesがおかれ、第2巻の前半は(訳しにくいからそのままにしますが)Les Mages romantiques(magesはイエスの生誕の場面に登場する東方の三博士)。ロマン主義の著述家たちを「預言者」と呼ぶだけで、背景になにか重大な展望が横たわっていることが推測されるのです。

ヨーロッパの文明は、相対的にはライックなギリシア・ローマの伝統と霊的権威を優先するユダヤ・キリスト教の伝統が、相互にせめぎ合うなかで立ちあげられてきた。そこでベニシューは「文芸」lettres の営みが、対峙する「霊的権力」と「世俗の権力」といかなる関係性を築いてきたかを解明するというのです。これが「宗教」と「政治」と「文学」という三本の柱をめぐる壮大な歴史的考察となることは、おぼろげながら想像できるでしょう。

『トクヴィルの憂鬱』を読みながら感じたことですが、この先のロマン主義研究は、リベラリズムの政治学的アプローチによって活性化されるのかもしれませんね。これも若手研究者による刺戟的な論文を見つけました。杉本隆司「ポール・ベニシュー『預言者の時代』にみる二つの自由主義 : 政治思想と方法」一橋論叢135(2)、 2006年、pp. 342-350.
電子版http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15610/1/ronso1350202260.pdf

ルネ・レモン『政教分離を問いなおす─EUとムスリムのはざまで』(青土社)の邦訳で一緒に仕事をした伊達聖伸さんをふくめ、高山裕二さん、杉本隆司さんも参加する以下の共著は、新しい「研究者世代」の誕生を告げているようです。宇野重規・高山裕二・伊達聖伸編著『社会統合と宗教的なもの――十九世紀フランスの経験』(白水社)
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