工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

「学際性」と「共和国の歴史」をめぐるマジメな話

2012年 4月 19日

桜が散って、新学期になりました。昔話から始めましょう。昔々、えーと35年ぐらい前でしょうか、東京大学仏文科の大学院の面接試験で、さる先生が、さる受験生に「どうしてフランス19世紀の作家は法学部出ばかりなんでしょう?」と、いきなり質問したのだそうです。その受験生は法学部出なのですけれど、「そりゃいくらなんでも絶句するわよねえ」と話を聞いたわたしは笑って相づちを打ち、その一方で、じつはずっと考えつづけておりました。

さる先生は大学の要職をつとめられたのちも「評論家」として先鋭なお仕事をなさり、法学部出の受験生のほうは、現在、要職をつとめながら、しっかり研究をつづけておられますけれど、それはどうでもよくて、この質問は「さすが!…」と感嘆すべき切り込みなのです。当時は「学際性」などという言葉は影も形もなかった。これは笑い話ではありません。

1880年代まで、大学における専門教育は、じっさいのところ医学部と法学部だけだったと指摘しているのは、フランス民法学の泰斗ジャン=ルイ・アルペラン。どうしてそのような事態になったのかというと、まず1804年にいわゆる「ナポレオン法典」が制定された。ただ法律ができたって、今の日本では話題にもならないけれど、これは文字どおり、近代国家フランスの礎(いしずえ)です。アルペランの解説をメモ風にまとめると:

1800年から1804年にかけて民法典編纂作業の主要な議事録が公開されたことは、それだけでも画期的だった。法典が公布された当時、初版は1月で8万部が売れた。つづいて民法典をあつかった大衆的な書物が大量に出回った。法学部の学生が暗記するために韻文形式や一覧表をつかった参考書、女性向け、聖職者向けの手引き、なかには「教理問答集」まであった。さらにカリカチュア、通俗版画、そして文学……。

文学となればもちろんバルザック。『ペール・ゴリオ』から一例を(鹿島茂さんが新訳のタイトルを『ゴリオ爺さん』からこう改めたこと、賛成です)。父性の権化のような人物が臨終の床で、娘たちに会いたい、あの子たちを力ずくで連れてきてくれ、とかき口説く台詞です――「正義はこっちにあるんだ。人情も、民法Code civilも、みんなこっちの味方のはずだ。あたしは抗議したい。父親がないがしろにされるようでは国は滅びますぞ。そんなことわかりきっているじゃないか。社会も、この世も父親を軸に回っているんだ」

粉の買い付けと製麺のことしか知らぬ庶民のオヤジさんが、死に際に民法をもちだしても、それがジョークにならず通用するという状況を想像してください。ナポレオンの天才的なプロパガンダ活動により、法典に描かれた「父権的」な家族イメージがたちまち国民に浸透し、これに見合った「言語文化」が生成していったという意味です。

さて、つづく話題は、大学を頂点とする教育制度の大改革であるべきでしょうけれど。ちょっと回り道をして、ナポレオン研究の現状から(いつもの大風呂敷です)。フランスではムスリムのスカーフ問題とも絡み、政教分離法制定100周年を記念する研究活動が2005年を中心に盛りあがりました。その1年前の2004年はナポレオンの戴冠と民法典制定の200周年。第一統領ナポレオンは1801年にローマ教皇とのあいだに締結した政教条約(コンコルダート)と国内向けの立法「付属条項」によって、カトリック、カルヴァン派とルター派のプロテスタント、そして一足遅れながらユダヤ教が、4つの「公認宗教」として共存できる絶妙なシステムを作りあげた。

それなりに安定して1世紀つづいた「公認宗教体制」を根底から見直したのが、1905年の「政教分離法」だったわけですから、要するに19 世紀市民社会の祖型はナポレオンの頭脳から生まれたといってもよい。さまざまの意味で第一帝政の全体像が更新される出版物があるという事実は、例によってアカデミー・フランセーズのインターネット配信ラジオCanal Académieでキャッチしています。「ナポレオン」で検索すると50本ぐらいの番組がヒットするのだから、おのずと研究の活況も伝わってくる。

ナポレオン学のナポレオンみたいな感じのするジャン・テュラールJean Tulardは、1999年に増補版の出た『ナポレオン事典』の編纂とか、2005年に政府の肝いりで開催された人文・社会科学アカデミーの政教分離法100周年記念シンポジウムの委員長とかをやった大物ですが、話術も巧くてCanal Académieの常連、最近の番組では学校教育のなかにナポレオンが正しく位置づけられていないと批判していました。

大きな流れでいうと、アルペランが法学部の隆盛について1880年代までと時代を区切っているのには明確な理由があって、その後は第三共和制の大学で、歴史学が王座に就くからです。1789年の革命以来、一度も長期政権を築くことのできなかった共和主義にとって「共和国の歴史」を記述することは、それこそ国家の基礎を安定させるための喫緊の課題だった。もっとも単純化された物語としては「王党派=保守主義=カトリック」と「共和派=進歩主義=政教分離(ライシテ)」をそれぞれに標榜する「二つのフランス」があって、旧弊な前者が先進的な後者によって克服された、というのが「共和国の歴史」です。大革命のときに「王殺し=父親殺し=神殺し」をやってしまったフランスは、その後1世紀をかけてこの基本原則に見合うライックな国民国家を着々と設営したという「目的論的」téléologiqueな歴史記述ができあがる。

この紅白両陣営の戦いのような見取り図によって19世紀を理解すると、第一帝政から王政復古、ブルジョワ王政、第二帝政という大きな運動の、何か本質的な部分が、余計な夾雑物や障害物とみなされ抜けおちてしまうように思われます。これに対してナポレオン研究者たちの視点からすると、革命後に「父権」と「教会」は近代的な方式で再建されており、フランス19世紀の社会は民法典と公認宗教体制という二つの柱によって支えられていた。それなのに教育の現場では、あいかわらず教条主義的な二元論の「共和国の歴史」が教えられているのではないか、と不満をもらす向きもあるわけです。

せっかくだから、ジャン・テュラールの『ナポレオン事典』大判2000ページからひとつだけ「ポルタリス」の項の冒頭部分を紹介しましょう。

民法典と政教条約(コンコルダート)――二つの「御影石の塊」に喩えられる偉業だが、前者の草案を練り、後者の実施を可能ならしめたのは、たった1人の人間、ポルタリスである。いずれの場合も、孤軍奮闘というわけではなかったが、つねに卓越した役割をはたしていた。彼はまず、第一統領により指名された4名からなる委員会の一員として1800年に民法典の起草を再開し、4年でこれを完成させた。コンコルダートの交渉に当たったわけではないが、1801年に諸宗教関連事項を担当する国務大臣に任命されてから1807年に死去するまで、効果的かつ有能にフランスにおける宗教的な活動を再建すべく陣頭指揮をとった。今日では大衆的な知名度は高くないけれど、この「ホメロス的な老人」――1800年には54歳になっていた――を尊敬する同時代の人びとにとって事情はちがっていた。失われつつある視力を補って余りある驚異的な記憶力に人びとは感嘆した。彼の演説の才、精神の高潔、倫理的な廉直、そして宗教的な信念を高く評価した。ボナパルトは、このように信頼の篤い人物が全霊をもって自分に仕えることで、どれほどの益を引きだすことができるかを、ただちに見抜いたのである。

ポルタリスの演説集が2010年に復刊されており、それを読むと宗教と世俗の力学を調和させ、安定した市民社会のモデルを構築した「ホメロス的な老人」の思考法にふれることができます。カナダ法務省公式サイトの電子版も見つけましたので、記載しておきましょう。
Jean-Etienne-Marie Portalis, Discours et rapports sur le Code civil, Presses universitaires de Caen, 2010, http://www.justice.gc.ca/fra/pi/gci-icg/code/page05.html

ナポレオンの宗教政策が脚光を浴びるようになったのは、「共和国の歴史」の見直しがそれなりに進んでいることの証しといえるかもしれません。『ナポレオンと諸宗教』Napoléon et les cultes, Les religions en Europe à l’aube du XIXe siècle 1800-1815, Fayard, 2002の著者ジャック=オリヴィエ・ブードンJacques-Olivier Boudonは、この分野を代表する研究者のようですが、この辺りの話は、わが国の先駆的な研究成果である松嶌明男『礼拝の自由とナポレオン――公認宗教体制の成立』(山川出版社、2010年)をご覧いただくのがいちばんでしょう。かっちりした実証主義の歴史学です。

ちなみにジャック=オリヴィエ・ブードンは、ソルボンヌの近現代史講座教授なんですから、見方を変えればナポレオンの宗教政策を専門にしてもアカデミズムの頂点に立てる、つまり19世紀の公認宗教体制研究はもはやマイナーではない、ともいえそうです。それはともかくとして、この人もよくCanal Académieに登場するので、「ナポレオンの大学」をめぐる充実した論考に巡りあうことができました。これがあれば、35年前の質問に回答することができる。
Fondation Napoléonの公式サイトに掲載された電子版の論文Jacques-Olivier Boudon, « Napoléon organisateur de l’Université »
http://www.napoleon.org/fr/salle_lecture/articles/files/universite_Boudon_RSN464_mai2006.asp

さてブードンの上記論文については、メモ風に:

中世からの伝統をもつフランスの大学は、1789年当時、神学部、法学部、医学部を擁していたが、国民公会において特権階級を養成するものとして批判され、1793年9月15日の決定により「廃止」された。第一統領時代から教育制度改革にとりくんだナポレオンは、いわば「更地」に帝国大学を創ったことになる。新しい大学の組織は法学、医学、文学、科学、神学の5学部とされた。かつて「リベラル・アーツ」という枠組におさめられていた学問が、ここで文系と理系に分断されて今日の大学制度にまで至り、現代日本の受験生の振り分けから一般人の日常の思考法まで左右することになったわけです。

そこで肝心の法学部の話。全国に9つの法学部が設立されたが、パリの法学部は、すべての学問領域の大学生総数の4分の1を占めた。19世紀フランスの知的エリートの頭脳を学問的に方向づけた制度設計といえる。ある証言によれば、法学部の学生は医学部の学生とは一目で見分けがついて、法学部のほうが小綺麗で金持が多かったとか(バルザックの登場人物なら医者の卵のビアンションを思いだす)。卒業までに3年をかけて4回の試験を受けるのだが、授業は日に1時間か2 時間(フローベール『感情教育』のフレデリックがいい例だけれど、なるほどこれなら人妻のために時間を割く余裕はたっぷりある)。法学部出身者は司法・行政職に就くのが本来のコース。とはいえポストはかぎられていた(『ペール・ゴリオ』でラスティニャックを誘惑するヴォートランの台詞を借りるなら「フランスには検事長は20人しかいないが、その官職をねらっている奴は2万人もいる」というわけ)。結果として「国民文学」を代表する作家たちも、作品に登場する男性たちも、圧倒的な割合において、かつてパリの法学部に通ったという経歴をもつことになりました。

ちょっと気になるので、文学部も調べておきましょう。当時の文学部は、もっぱら教員養成機関とみなされており、学生数は少なく、しかも組織が全国に分散されていた。パリに文化の拠点があった19世紀、そういわれれば文学部で学んだ小説家とか、登場人物とか、思い当たりませんね。なにしろ1814-1815年度、ソルボンヌ大学に属する文学部の学生数は、わずか70名です。ただし歴史家ギゾーや哲学者ロワイエ・コラールなど、有名教授がソルボンヌの講壇に立てば、男性のみからなる聴衆がわんさとつめかけた。

わたしの世代の日本人が普遍的なモデルとみなしてきた「文学部」がいつ成立したかというと、世紀末に「歴史学」が勝利をおさめたのち、その後塵を拝するかたちで、古典から近代までをあつかう「実証的文学研究」がアカデミックな基盤を獲得したのです。今になってみると、わたしたちが大学院で習った「フランス文学史」は「共和国の歴史」によりそったものでした。19世紀には、皇帝も、王さまも、父親も、司祭も、神さまも存在した、徐々に何かが変わってゆくのはたしかだけれど――そんなことを考えながら「国民文学」を読みなおしているところです。

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ところで法学部出のエリートたちはどうなったかというと、ジュール・フェリーやワルデック・ルソーなど、第二帝政期には反体制の文筆家として活躍した法律家・弁護士たちが、第三共和制を立ちあげた政治家グループの主流です。この構図が塗り替えられるのは、両大戦間。1924年5月、左翼連合が躍進した総選挙の結果をうけて、ロンドン駐在フランス大使が、こんな台詞を口にしたそうです――「法学と政治学に高等師範学校が勝ちましたな」。アルベール・ティボーデが『教授たちの共和国』La République des Professeursという名著を書くきっかけとなったエピソードです(昔の文学部ではティボーデの『フローベール論』は必読書でしたけれど、時事問題への発言など視野にも入れなかった。それにしてもこの洒脱で高級な著作、きちんと理解するのは大変そう)。

1924年の選挙結果はじっさいの議員数としては、大学と高校の教授と小中学校の先生の合計が10パーセント弱、法律家・弁護士は27パーセントですから、法学部出はそれなりに健闘してはいるものの、全盛時代は終わったということなのでしょう。急進社会党内閣が成立し「左翼知識人」と呼ばれる種族がフランスを牽引することになる。第二次世界戦後、日本の知的エリートが信頼と共感をよせてきたのは、戦間期フランスで誕生したこの「教授たちの共和国」だったといえそうです。

長くなりますが、本日は頑張って、その後日譚まで。ピエール・ブルデュー『国家貴族――エリート教育と支配階級の再生産』という分厚い2巻本の翻訳が刊行されました(立花英裕訳、藤原書店)。趣旨は副題からも読みとれますが、検討の対象はエリート養成機関「グランドゼコール」Grandes Ecolesで、調査の時期は1960年代から1980年代にかけて。ご存じのように、前段で名の出た「高等師範学校」Ecole Normale Supérieureは「大学」ではなくて、「理工科学校」Ecole polytechniqueと同様に、ナポレオンが強力に組織化した伝統ある「グランドゼコール」です。

今日では「高等師範学校」「理工科学校」出身の共和国の秀才たちは凋落し、官僚や実業家として国家の最上部に君臨しているのは「国立行政学院」E. N. A.や「高等商業学校」H. E. C.など、新興の「グランドゼコール」出身者たちであるといわれます。フランス通にとっては常識かもしれませんが、ブルデューは1989年に『国家貴族』を刊行して圧倒的な迫力でそれを論証した。ここは立花さんの「訳者あとがき」に依拠しつつ、ひと言でまとめてしまいますが、新しいエリートコースを構築したのは、過激な共和主義理念を警戒する「カトリック系ブルジョワジー」だというのです。

ブルデューは、それぞれの学校を個別に調査して、親の職業と得意科目の相関性とか、講演会に来てほしい著名人とか、共感をおぼえる思想的潮流とか、読書リストとか、膨大なデータを解析する。新しいエリートコースが好んで教材にしたり入試に出題したりする作家名の一覧は、わたしたち「外国」の「仏文科」が半世紀以上も信奉してきた「推薦図書リスト」とは、まったく違う! だからって困惑しているわけじゃなくて、事実そのものが面白いわけです。ブルデューの描く「国家貴族」たちが自分の信条を「カトリック思想」と名指すとき、その内実がなんであるのか、シャトーブリアンをどんな風に読んでいるのか、しばし茫然と考えこんでしまいました。

この頃の若者はヨーロッパを冷めた目で見ているなどといわれますが、フランスの大知識人に熱いまなざしを送った戦後世代と同じだったら、それこそ困ります。それにしても、ヨーロッパ近代をしっかりと批判的に読むことで現代世界が見えてくる。これは羽田正さんも『新しい世界史へ――地球市民のための構想』で指摘しておられること。ブルデューが『国家貴族』で分析した資料は、30年か40年も前のものだなどと、おこがましいことをいうまえに、まず一時代の重みをずしりと感じさせる本として読んでほしい。教育学や社会学だけでなく、歴史や文学を専攻する人たちも。教育システムが結局は大学に収斂し、一本化されてしまっている日本を客観的に考察するためにも、大きな文脈と外部の視座が役に立つだろうと思うのです。

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