工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

政治学院とプルースト

2012年 9月 26日

しみじみと虫の音に聞き入る季節になりました。夏休み、それなりに頑張って原稿を書いていたのですが、なかなか期待どおりにはゆきません。『ヨーロッパ文明批判序説』の続編のような書物を考えています。来年の秋には、なんとか形にしたいのだけれど…。このサイトのReturning Visitorの方は、すでに雰囲気を感じとってくださったかもしれませんが、生成しつつある書物の構想や断片を、ときおりエッセイにして送りだしているわけです。

一例を挙げれば、こんな具合。文学と宗教学(とりわけライシテ研究)あるいは文学と民法学の対話が成り立つような切り口を探す。そしてプルーストを読まずにプルーストを語っているわけではないことを文学研究の友人たちにも認めてもらえるような書き方をする。たとえば1904年8月16日の「フィガロ」紙に掲載された「大聖堂の死――政教分離に関するブリアン法案の帰結」という文章で、プルーストは「政教分離法案のある条項」に反対しています。これは下院に設けられた委員会で7月6日に採択された、いわゆる委員会法案への批判であり、1905年12月9日に成立した政教分離法では、問題の「条項」は変わってしまっているのですが、そうしたことも検証しながら「宗教文化論」の具体例をお見せすることができそう。これは、プルーストが信仰の有無とは異なる次元で「文化遺産としてのカトリック」を明確に意識していた作家であるという議論につながります。

でも、今回は、やっぱり民法学、いえむしろ政治学と文学の話にしましょう。プルーストはブルデューのいう「遺産相続者」なのです。あらゆる意味合いにおいて。以前に19世紀フランスの小説家は、なんでパリ大学法学部出(または中退)ばかりなのか、20世紀の知識人エリートは、なぜ高等師範学校の出身なのかという話をしましたが、本日は、そのつづき。師範学校に入学するのは、地方出身のあまり裕福ではない家庭の息子たち。まずルイ=ル=グラン校やアンリ四世校など、セーヌ左岸の全寮制のリセ(ほぼ高校に相当)に入学して「奨学生」になり、伝説的な高等師範学校(レヴェルは大学だけれど超難関)をめざすというのがエリートコースです。

これに対してプルーストが通学したリセ・コンドルセはセーヌ右岸にあり、パリの社交界やユダヤ系富裕層などの子弟が多かった。ここでもう『失われた時を求めて』の人間模様が見えてきます。リセ卒業後は、創設されて日の浅い政治学院でアルベール・ソレルの外交コースに登録し、口述試験も受けて「極めて聡明」という評価を得たそうです。この教授、作品に登場する外交官ノルポワ氏のモデルのひとりであるとされており、なかなか面白そうな人物です。

ここでいきなり大村敦志『20世紀フランス民法学から』を参照します。パリ大学法学部で「科学学派」が誕生するまでの経緯を著者は以下のように分析しています。1870年に創設された政治学院(今日の通称は「シアンスポ」Sciences Po)は急速に成長を遂げ、伝統的な法科大学を危機に陥れた。政治学院は保守主義・エリート主義であり、授業料も高かったため、第三共和制の為政者は、パリ大学に行政諸学を学ぶことのできるコースを導入することにした。ローマ法と民法を中核とする古典的学風はここで破られ「新しい科学」としての法学が「行政法」「国際法」から「財政学」「統計学」までを含む総合的カリキュラムによって再編されることになる。

この先は、わたしにはフォローできませんが、ふり返れば19世紀は「民法」と「小説」の時代です。プルーストは新興の「政治学」をえらんだわけで、ここを対比的に捉える視点は重要です。1904 年、フランスはナポレオン法典100周年という節目を迎えました。1905年の政教分離法成立の前哨戦で世間は騒然としていましたから、あまり華やかな記念行事はなかった。ただし1000ページを超える「コード・シヴィル100周年記念論集」というのが発行されており、その「序文」を執筆しているのが、アカデミー・フランセーズ会員にして外交史の草分けでもある歴史家アルベール・ソレルです。ずしりと重いこの本は、ジャン=ルイ・アルペランの解説つきで2004年に再刊されました。

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さて、アルベール・ソレルの50ページほどの「序文」ですが、さすがプルーストのバルザック読解に多大の影響を与えたといわれる文人です(『サント=ブーヴに反論する』には実名で登場)。ナポレオン法典が提示する理念的な社会秩序とは、父権的家族像を祖型としたものである――これは耳にタコができるほど聞かされた話でしょうけれど、ソレルが指摘するのは、ちょっと違うこと。19世紀の民法というのは、結婚や離婚や男女関係のことなども含め、じつに生々しい人間学から発しているというのです。なるほど革命直後の市民社会において、小説と民法は背中合わせみたいなものだったのかもしれません。民法学の「古典的学風」と「科学学派」の分岐点に立ち、二つの世紀を俯瞰した歴史家ならではの人文的エッセイといえましょう。

またもや話は飛躍して、いささか図式的ですが、歴史観にかかわる二つの潮流について。フランス革命を過去との訣別として捉え、ここを原点に見立てたナショナル・ヒストリーを構築するか。それともアンシャン・レジームの法的・政治的・文化的遺産も継承したものとしてフランスのアイデンティティを定立するか。共和国お墨付きの「正史」は前者。トクヴィルを先達とみなすアルベール・ソレルの場合は後者です。

ソレルは記念論集「序文」の冒頭で、ナポレオン法典はフランスが世界に誇る文化遺産であると高らかに宣言するのですが、アンシャン・レジーム期に編纂された法律も同様に、かけがえのない遺産であると主張します。これとパラレルに、外交史についても「フランス革命の対外政策は王政の政策を継承したものだという根本命題」をもっていたのだそうです。引用はジャン=イヴ・タディエ『評伝プルースト』より。同じ評伝には、ソレルの台詞として「世界でもっとも由緒正しい王族の血を継いだフランス共和国」なんて表現も紹介されています。じつに活き活きと本質をつかんでいて、機嫌のよいときのシャルリュス男爵の台詞、あるいは若き貴公子サン=ルーの風貌の描写にも使えそう。

アルベール・ソレルとプルーストをつなぐ紐帯として、ノルポワ氏の人物造形より、いっそう本質的なものがあるとしたら、それは「歴史観」ではないかと思うのです。背景にあるのは「断絶」よりも「継承」や「統合」を重んじる歴史哲学でしょう。20代のプルーストは、これを政治学院の教授から学んだ、というのが、わたしの仮説。

あえて単純な見取り図をつくるなら、共和主義の陣営も「遺産相続」という概念自体は否定しないのです。ただし、アンシャン・レジームの遺産については、革命原理に抵触しないものをえらんで「目録」に受けいれる。これに対してプルーストは、カトリック的なフランス、キリスト教の到来以前のケルト的なフランス、王政と貴族の存在によって花開いたサロンの文化なども、次世代に継承するべき遺産とみなして「目録」に記載する。これは左翼か右翼か、共和派か王党派か、急進派か保守派か、というイデオロギー的な二者択一とは異なる次元の話でしょう。

プルーストは一般に、バルザックとフローベールの直系とみなされていますが、じつは『失われた時を求めて』においては、セヴィニエ夫人の書簡やサン=シモン公爵の回想禄に特別席が与えられている。ゲルマント公爵夫人の社交界があれだけ入念に描かれるのも、失われてしまった黄金期、17世紀から18世紀にかけて、麗しきフランス語と新しい文芸を育んだサロンという文化空間が念頭にあったからだと思われます。

じっさい「遺産相続者」という観点からプルーストを読んでいると、いろいろと思い当たることがあるのです。ひとつだけ頭出ししておくと、ナポレオン法典の遺産相続は条文のうえでは男女平等ですけれど、いっぽうで既婚女性は法的に「無能力化」されていますから、個人の財産だけでなく、文化遺産も父から次世代に継承されてゆくという暗黙の了解があった。そのいっぽうでマルク・フュマロリによれば、貴族のサロンは女性が主催する知的な社交空間でもあって、母から娘へと文化遺産が継承されていたのです。

そこでプルーストの場合、じっさいに母親が深い教養をもつ女性であったことは確かなのですが、それにしても『失われた時を求めて』において、文学的な遺産は母から息子へと性差をクロスして受けつがれます。偉そうな父親も、そして父親の代わりを演じ、少年の作家的資質にトンチンカンな評定を下すノルポワ氏も、じつは何もわかっちゃいないのが可笑しい。ただし、それだけのエピソードではなさそうです。そう、ここでも19世紀の厳正なジェンダー秩序が微妙に揺らいでいる…。

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