工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

フェミニスト、それとも両性具有?

2012年 10月 25日

10月17日(水)に放送された「クローズアップ現代」は爽快でした。Can Women Save Japan? ――問題提起そのものは、まことに正攻法。IMF(国際通貨基金)の専門家による提言なのですから、女性の就業を促進することの経済効果を明らかにするためのリポートは、理論構築もデータの裏づけも隙なくできている。しかし、番組の迫力と成功は、なんといってもクリスティーヌ・ラガルド専務理事と国谷裕子キャスターという二人の女性のプレゼンスによって支えられていました。

だって想像してみてください、まったく同じ構成の番組をIMFの官僚みたいなヨーロッパの男性と、思い入れたっぷりで愛想のよすぎるNHKの男性アナウンサーとでやったとしたら? それほどにジェンダーというのは、まずは身体的なプレゼンスの問題なのです。

以前勤めていた大学で、要職におられた方が、事あるごとに「女性に参加してもらいましょう!」と言っておられた(内輪では、ほらまた、先生の「女性がいない!」のお声がかかってしまったと笑っていましたが)。とにかく会議でも式典でも教室でも「真っ黒なのは気持が悪い」と思う「感性」を身につけなさい、という厳しい指導を受けられたことは、仕合わせだったと思っています。

もちろんこれは微妙な話なのです。あくまでも一般論ですが、とにかくプレゼンスから始めなければいけないと考えれば、式典などに単に「お客さま」として参加したようになってしまうこともある(ほとんど「ホステス」のように、と批判する向きもあるでしょう)。専門性の高い委員会の「女性枠」は、無理な人選をするために実質的に逆差別になっていることもある。役職的な組織では「アリバイ」としてメンバーに入れた女性に対し、あからさまな「アリバイ待遇」(=あなたは坐っているだけでよいという顔)をする無礼な男性がいたりします。

それでも「女性がいない!」というお声がかかったときは、なるべく身体的なプレゼンスの機能を果たそうと努めてきました。でも、いろいろな場面で、これはもう辞めたほうがよい、と思ったことはあったし、まあ、わたしの場合は、もとが引きこもりですからね。それに人前に出ているあいだは、本は読めない、書けない。人生は「単線運転」なのです。

ここでクリスティーヌ・ラガルド専務理事と国谷裕子キャスターに話をもどせば、彼女たちの身体には、余人をもって替えがたいプロフェッショナルの圧倒的な実績と、惚れ惚れするような知性と、洗練された感性が充満している――この「革袋」みたいなイメージの身体論、出典はプルースト。人間の身体は、他者の視線によって社会的・文化的に構成されるという話なのですが、面白いでしょう? それはともかく、社会的にも文化的にも空っぽな身体のプレゼンスは、いくら数があっても、決して人を説得しないもの。ここが重大なポイントです。

この頃、あなたはフェミニストですか? と聞かれることがあるのですけれど、まあ、レッテルはどうでもよいとして、ヨーロッパ近代小説を生涯のテーマとしたのに、ナポレオン法典のジェンダー秩序についてひと言もふれずに、この世から消えてしまうわけにはゆかない、と思っております。「クローズアップ現代」の「女性は日本を救う?」という番組だって、考えてみれば、ナポレオン法典の父権的家族像から苦労して脱けだしたフランスの女性が、いつまでも西欧近代の古びたモデルにしがみついている日本の男性優位社会に対し、ひと言、先輩として、優雅に発言してくださった、という風情がありました。

好みとしてはフェミニストより、両性具有のほうに魅力を感じますね。ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』より――「偉大な精神は両性具備である」といったのはコールリッジだそうですが、つづくウルフの解説によれば、両性具備の精神は、単一の性を具備した精神より、性の区別に拘泥しない。そして「両性具備の精神はよく共鳴し、よく浸み通り、感情を何の支障もなく伝え、本来創造的で、白熱光を発し、分裂していない」(川本静子訳)のだそうです。そうした精神の見本はシェイクスピア。さらに、プルーストは「純然たる両性具備」だけれど「女性的な部分が少し強すぎる」というウルフの指摘を読んで、わたしは思わず笑う。そりゃ、潔癖なウルフにとってはそうでしょうけれど、という意味です。

ナポレオン法典の純粋培養的「男性性」と全面的に対決するためには、プルーストぐらい濃密でスケールの大きい両性具有が登場する必要があったのです。この作家の「強すぎる女性的な部分」とは何かを考えながら、ナポレオン法典以前に遡っているところです。プルーストは母親から文学的な遺産を相続しているのですが、それだけでもじつは、ナポレオン法典の理想に反した構図といえる。『失われた時を求めて』におけるセヴィニエ夫人の書簡の機能を、いわゆる文体論とは異なるジェンダー論の位相で捉えてみたい。ただしセヴィニエ夫人を読まずにセヴィニエ夫人を語るなどということはやりたくありませんので、本日はこれまで。

わたしはプロフェッショナルというほど立派な生き方はしてこなかったけれど、それでも大学の文学研究は無意味ではないということを示すために本を読んだり書いたりすることが、自分のメティエ(=仕事)だと思っていますから、諦めずにつづけてさえいれば、空っぽの身体が文化的に充たされてゆくのだと信じることにしています――という長たらしい文章で終えるつもりだったのだけれど。

本日(10月25日)の「朝日新聞」朝刊を読んで、また気持が悪くなってきました。「男女の平等、日本101位に下落」というコラムのような記事。数字は135カ国のうちですよ。ここでも男女の雇用格差をなくせば国内総生産(GDP)が16%増えるという経済効果が強調されている。ちなみに政治の項目では110位。これはもう「どん底」――絶句するしかない数字なわけです。この頃、地方自治体のレヴェルでは、プロフェッショナルの顔をした女性たちが、ちらほらといい感じの存在感を見せている、この人たちの一部でも国政に出てくれたら、と思っていたところです。とにかくプレゼンスから始めなければいけないのだから、彼女たちにエールを送りましょう。

それはそれとして、深刻に腹が立つのは、この記事の扱いです。経済に特化しているとはいえ国際機関(WEF)による評価報告なのに、7面という、いちばん目につきにくいページで、しかも、同じページのすぐ下に置かれた「週刊朝日」の公告の「尼崎女モンスター…」という顔写真つきの見出しより、ずっと小さなスペースしか割いていないのです!!! もしかしたら、朝日新聞社の編集会議は「真っ黒」なのかな。ひょっとして「アリバイの女は坐っているだけでよい」という隠然たるプレッシャーが社内にあるのでございましょうか。原発関係、教育関係の報道は、他の大手新聞よりちょっとマシかな、と思っていましたけれど、今後一月以内に「朝日新聞」が特集で大々的にこの問題を取りあげなかったら、見切りをつけて講読を止めることに致します。ご一緒に腹を立ててくださる方々、ソーシャルメディアでも何でも結構です、どうぞ「言論運動」(古いか…)を盛りあげてくださいませ。

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R. MINAMI

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