工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

カーテンコール

2012年 11月 30日

最初の話題は、森光子。矢野誠一による惜別の辞「栄誉の冠頂き、遠くへ」(朝日新聞11月19日)を読んで、なるほどなあと思いました。わが国の演劇史を知りつくした筆者が、大女優の舞台の精髄と隠れたエピソードを語り、大輪の花を咲かせたのちも高ぶらぬ人柄で周囲を魅了したと証言する。ここまでは予想される賛辞ですけれど。文化勲章受章のあたりから、歩む方向が変わってしまった、というのです。

「いけない」と思ったのは『放浪記』にカーテンコールをつけ始めてからだ、という指摘につづく矢野誠一さんの文章をそのまま引用すれば――「机に伏して寝入った林芙美子の姿で静かに下りた幕が再びあがると、舞台中央に正座した森光子が両腕を高くかかげて、満員の客席にゆっくりと視線を投じる」。本来であれば観客は「林芙美子の生涯」を胸におさめて劇場を後にするはずなのに、これでは森光子のイメージの押しつけではないか……。

稀代の名優というのは、おそらくそこに俳優がいて、その肉体がフィクションの人格を巧みに演じているという事実そのものを、いわば神業のように消去してしまう人をいうのでしょう。いつものことですが、思い当たるのはプルースト。文学少年であった語り手は、長らく憧れていたラ・ベルマの舞台を観て、拍子抜けしたような感じになる。

ラ・ベルマの朗唱や演技には、共演者には見出せた洞察に富んだ抑揚や美しいしぐさを見つけることさえできなかった。ラ・ベルマを聞いていると、まるで私自身が『フェードル』を読んでいるか、フェードル自身が現に私が聞いていることばを述べているとしか思えず、そこにラ・ベルマの才能がなにかをつけ加えたとは思えない。できることなら私としては自分の前にひとつひとつの声の抑揚や顔の表情を――それを深く究めて女優の立派なところを見出すべく――長いこと固定しておきたかった。
(吉川一義訳『失われた時を求めて3』 p. 60)

語り手は何年かのち、同じラ・ベルマの『フェードル』を観たときに、かつての幻滅の理由を理解します。あのころ自分はフェードルというヒロインの役柄を研究し、それを差し引けばラ・ベルマの才能を掌握できると考えたけれど、じつは才能と役は一体となっていた。才能を明かす技として「声の抑揚や顔の表情」などを摘出できる役者は、じつは天才とはいえない。真に偉大な芸術家がピアノを演奏すると、ピアニストはほとんど透明になり、傑作に対して開かれた窓のような存在になってしまうのと同じだろう、というわけです。

演劇評論家としての矢野誠一さんが期待したのは、森光子という存在が「林芙美子」と一体になり、ますますラ・ベルマの透明な天才に近づいていくことだったのでしょう。ところが、晩年の舞台では、そこに演技をする役者がいるということのほうが前景化され、メインテーマになってしまった。

妙な言い方ですけれど、女優が演じていたのは「林芙美子を演じる森光子」だったのではないでしょうか。帝国劇場や文化勲章や国民栄誉賞というのは、つねにより多くの国民の期待に応えることを代価として求めるのだろうと推察します。その意味では「机に伏して寝入った林芙美子の姿で静かに下りた幕が再びあがると、舞台中央に正座した森光子が両腕を高くかかげて、満員の客席にゆっくりと視線を投じる」という仕草が百回でも二百回でもくり返されるのが、たぶん正しいのです。なぜなら、今日も無事に演じ終えた森光子が舞台の上にいるという奇跡こそが、ドラマのクライマックスなのだから。

観客は「林芙美子の生涯」を知るためではなく「森光子という役者」が時の破壊力に逆らい、後期高齢者であることも忘れて「でんぐりがえし」をやるところを観るために劇場に足を運ぶ。しかも興行的に成功することは自分の義務。本名「村上美津」という女性は、そう信じて九十歳でドクターストップがかかるまで「不死身の森光子」を演じつづけたのではないかと想像します。その意味では、命をかけた芸が、ますます透明になっていったともいえそう。やっぱり「孤高の名女優」だったのでしょうねえ。

演じるべきキャラクターというのは、とりわけ職業をもつ人間であれば、おそらく誰の意識にも多少はあるのでしょうが、人生も六十代になると、他人の視線にさらされる役柄と自然体の自分のあいだに生じた亀裂がしだいに大きくなっていくような気がします。社会生活には本質に演劇的なところがあるから、当然かもしれません。

同世代の人たちが、かつて自分の演じていた役割を上手にこなすことができなくなって、苛立っているように見えることもあり、自分の演技が時代遅れになったことに周囲が気づいていることさえ目に入らぬほど視野が狭くなっていると思われることもある。そんなとき思い出されるのは『見出された時』の終幕、とりわけかつて恐るべきダンディだったシャルリュス男爵や社交界の花形だったゲルマント公爵夫人の凋落ぶりです。

そう、だから、わたしの場合、しんどくなりそうな舞台からは早めに下りたほうがいいと思っています。もともと「カーテンコール」なんて柄でもないわけだし。ありがたいことに読んで書くという職業で、人目にさらされるのは印刷された書物のみ。日蔭の作業の効率は落ちても、それなりに蓄積ができますから、世界は無限に広がっていきます。

独り言のように諦念を語って幕というのも不景気なので、最後に思いきり腹を立てましょう! 自民党も民主党も、女性の社会進出とか、ワークライフバランスとか、少子高齢化問題とかを、大々的に選挙公約に掲げる気はまるでありませんね。先回のエッセイに書いたように「男女平等」を数値化すると、日本は135カ国のうち101位。政治の領域では110位! フランスの「パリテ」(候補者の男女同数を政党に義務づける法)などは夢のまた夢。でしょうけれど、それにしても女性候補者の比率を高めますとか、ちょっと言ってみれば? と書いたあとで、バルザックの観相学を応用しても、無理だなあ、と溜め息をついてしまいました。並んだ顔を見ればciviliserされた男性たちかどうか、一目でわかるのですよ(civiliserは「文明の洗練を知る」とでも訳しておきましょうか)。それにしても、残念ですね、この問題、確実に有権者の半分を占める「女性票」につながるのだけれど……。

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R.MINAMI

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