工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

文学の力

2012年 12月 28日

阿川佐和子『聞く力』が100万部を突破したそうですね。お目出度いことなのかもしれないけれど、昔々、わたしがトロワイヤを訳していたころには、原稿用紙1000枚を超える本格的な歴史小説が、たちまち数万部の大台に乗ったのですから、むしろ「読む力」の衰退を嘆くべきかもしれません。新書とインタビュー記事しか読まれない時代に、それでも「文学の力」を説くことができますか?

年末の買い物や大掃除に追われているときに、こんな問題提起をするなんて、酔狂な話ですけれど、なるべく手短に。放送大学にかかわって10年。文学の講義で工夫したことは、① 文学史は、やめる ② 文学作品を紹介するだけ、というのも、やめる ③ とにかく、作品を読んでもらう――そのために、放送授業でも面接授業でも「朗読」の時間をたっぷり入れるようになりました。

なにしろ放送大学の面接授業は苛酷なんです。朝の10時から夕方の5時過ぎまで、普段は休み休み使っている頭をフル回転させるわけで。教師の息抜きと教室の気分転換をかねて、映画はかならず導入します。ヴィンセント・ミネリの「ハリウッド映画」と、フランスの錚々たるフローベール研究者たちが全面的に協力した「巨匠シャブロル」の作品、そして山田𣝣先生の名訳『ボヴァリー夫人』のテクスト。

授業はグループ分けして、配布したテクストについてのディスカッションと報告、そして教師のコメント、新たな問題提起、というふうに、臨機応変につづくのですけれど、2日目の締めくくりには、ドラマの大団円、つまりヒロインの死とフィナーレを、まず2つの映画ヴァージョンで鑑賞し、おもむろに最後のページを朗読しました。そうしたら誰かが「小説がいちばん生々しい…」とつぶやいた。そう、こういう反応が嬉しいのです。手法の違いを見きわめて「これは映画では表現できない」と思うところを発見する。これが「小説論」の出発点になる。

『ボヴァリー夫人』の授業も今回が最後なので、いわば大盤振る舞いで、男女の馴れ初めや「姦通」の場面をたっぷり教材にしました。そうすると、予想しなかったわけではないけれど、なんとも「身につまされる」という読み方が前面に出てしまうのですね。なぜってボヴァリー夫人は凡庸で、しかも「欲求不満」を抱えた女性なので、わたしにも、あなたにも、そして身のまわりの女性たちにも似ています。フローベール自身の台詞を借りるなら、フランスのあちこちの村で、今この時間にもきっと「わたしのボヴァリー夫人」が苦しみ、涙を流している、というわけです。ただし「身につまされる」読み方に熱中して、まるで世間話のように盛りあがってしまうと、文学の授業になりません。

なぜ19世紀半ばの『ボヴァリー夫人』が今もわたしたちを魅了するのかと問われれば、やっぱり「文学の力」と答えることになるでしょう。たとえば若い男女が早春の明るい陽射しを浴びて佇んでいる場面。エンマは鳩羽色のパラソルのしたで微笑んでおり、木目模様の傘の絹地に、雪解けの水がぽつりぽつりと落ちている。湿った空気の温もりと、光のたわむれと、小さな水滴の音を五感で捉えているシャルルの胸に、なにか柔らかで切ないものがこみあげてくる――とは説明されていないのだけれど、ぽつりぽつり、という音の記述までで充分でしょう? 小説は、書かれていないことを読者に伝えることができるのです。

あるいはボヴァリー夫人が大都会のホテルで逢い引きをかさねるようになったときのこと。ベッドには深紅のカーテンがめぐらしてあり、エンマの黒髪と白い肌に、なんとも美しく映えるというのです。ぞくっとするほど美しい人妻の風情に魅入られた青年レオンが、ベッドのこちら側にいるというのは暗黙の了解です。小説の言語は、赤と黒と白、三つの色彩だけで女の裸身を艶めかしい「イメージ」にして読者に手わたすことができる。一方、この配色で、そのまま「映像」にしたら、それこそアニメみたい。

あるいはエンマがお月さまを眺めながら遊び人のロドルフに恥ずかしいほど陳腐な台詞をささやくところ――『ボヴァリー夫人』に天体の月を指すluneという語彙が出てくるのは21 回(授業のとき、ぼうっとして41回と言ったらしいけれど、ゴメン、いくらなんでも、まさか)。ちなみに『感情教育』はたったの4回。「月と恋愛のトポロジー」というエッセイが書けそうですね。ただし、シャトーブリアン、フローベールとボードレール、そしてプルーストを読破しないと、論理の構造はできません。

恋愛という現象は普遍的? それとも歴史的? 古代の神話から今日のテレビドラマまで、相も変わらず反復される物語がある一方で、習俗やメンタリティは時代とともに変化します。小説にあらわれる「月の光」をテーマとして、ロマン主義以降の表象の歴史を問うこともできますが、たとえばナポレオン法典の家族制度に照らして社会学的に「姦通」という違反行為を分析することもできる。

それにしても、読書の原点は、やはり登場人物の身になって恋愛小説を「身につまされて」読むことにあるのでしょう。放送大学の教室で、そう実感したのは、それなりに新鮮だったのですけれど、それで、目出度し、目出度し、という結論にはなりません。大学の専門分野における文学研究と一般読者の経験との乖離ないしは断絶という深刻な事態が、あらためて浮上するからです。

最後に関係があるような、ないような話。又聞きですけれど、さる小説家(中村真一郎)が晩年に、色恋への興味を失ったら自分は生きていてもしょうがないと思うだろう、と言っておられたとか。そこでわたしも勝手なことを言わせてもらえば、この歳になってみると、生身の男性より書物で出会う男性のほうが、ずっと刺激的です。負け惜しみ? だって、そうでしょう、プルーストが『失われた時を求めて』のなかで語ってくれることは、そんじょそこらのインテリのおしゃべりより、ずっと面白いですよ。

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R.MINAMI

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