工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

「宗教文化」について

2013年 7月 26日

9月末刊行予定の著作が再校の段階で、本日は久々に机のうえゲラの束も姿を消したので、一息ついているところです。

7月22日から教皇フランシスコが、カトリックの祭典「世界青年の日」に出席すべく、ブラジルを訪問しています。この国は世界一のカトリック人口をかかえる一方で、信仰の凋落は著しく、1980年には信徒数が国民の90%を占めていたのに対し、今日では70%以下になっているらしい。それに問題は数だけではなく、信徒の一人ひとりが人生をいかに生きるかについて、教会が指導力をもっているか、じっさいに「教導権」を行使できるのか、ということですからね。ブラジルは何十年か前に「解放の神学」という農民や貧困層を基盤とした社会運動を立ちあげた国。そのせいか「カトリック教会の長女」とかいって乙に澄ましているフランスにくらべると、なんだか野性味が感じられます。

先日、BSのフランスのニュースで、マルセロ・ホッシ神父Padre Marcelo Rossiのミサを特集したものがあり、何なの、これ?! これでもカトリック??? と驚愕しました。さっそくネットで調べてみたら、面白い論文に巡りあい、大いに納得しました。山田正信「カリスマ刷新運動――プロテスタントの伸展に抗うブラジル・カトリック教会」(天理大学)。現象の記述から分析の論理構成まで、じつに明晰で、こういうものに一瞬でアクセスできる世の中なのだから、若者だって人文系の学問の凋落、とか、嘆いているヒマはないと思うのだけれど。論文は以下のサイトで読んでいただくとして、ここでは現象そのものの面白さを紹介したいと思います。
http://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/15yamada.pdf

なにしろお洒落な女の子たちが夜行バスに乗って遠隔の地から馳せ参じるのです。論文の解説によれば、マルセロ・ホッシは元体育教師で身長は2メートル近く、体重は100キロ。とりあえず碧眼の美丈夫といって差し支えないカトリックの聖職者が、福音派の伝道師のごとく、会衆とともに両手をふりかざして、歌って踊る。その情景をニュース番組で見て、わが目を疑いましたね。

教会は元工場だったという巨大な建造物で、YouTubeで見つけた下記のサイトによれば、野外のロックコンサートのようなイヴェントもやるらしい。日本のアマゾンでもCDを売っているほどで、この「カトリック界のポップスター」たる神父さま、子ども向きのテレビ番組で「主のエアロビクス」などというものまでやっているそうです。つまりビジネス的にも成功した活動で、わたしの見たニュースでは、教養も生活水準も中流か、もう少し庶民的か、と思われる中年女性や若者が、教会の売店にあふれ、感激の面持ちで、書籍やDVDほか、さまざまの「宗教グッズ」を買いこんでおりました。
https://www.youtube.com/watch?v=uhQcg9hpgwU&list=TLcyKWzLsuQHA

現在、世界中でもっとも急成長を遂げているのは、イスラーム系の宗派ではなくて、ペンテコステ派なのだそうです。どうやらマルセロ・ホッシ神父の「カリスマ刷新運動」は、その系統であるらしい。「ペンテコステ」は「精霊降臨」と訳されますが、イエスの復活から50日が過ぎたころ、集まって祈っていた信徒たちが聖霊に満たされて――まず嵐のような音が聞こえ、それから炎の舌が一人ひとりの頭上に降りてきて――各自が「異国の言葉」で語り始めたという不思議なお話です。新約聖書の「使徒言行録」で語られるこの出来事を字義どおりに再現し、さまざまの「異国の言葉」ならぬ「異言」(グロソラリア)、つまり誰にも意味の通じない言語を憑依状態の信徒が口にする。これが「精霊降臨」の証しであるというのですから、神学という学問を土台とした伝統的カトリックの対極、まさに新興宗教的な福音派プロテスタントの典型と思いこんでいたのです。

山田論文によれば、カトリックの「カリスマ刷新運動」は、北米の大学でペンテコステ運動との接点から1967年に誕生したものであるとのこと。民衆に開かれた教会活動を推進するという趣旨の第二バチカン公会議(1962-65年)における公文書を基盤とし、当初からローマ・カトリックの教義に沿った運動であることを謳っている。じっさい1973年には教皇パウロ6世により、さらに20年遅れたものの1994年にはブラジル司教会議により承認されているのだそうです。

それにしても、フランスの司教会議では、まず承認されないだろうな、と思いましたね。なぜってフランスは「言語文化」の国だから。ニュースでの紹介も、そもそも南北アメリカは福音派の本場だから、こんな合いの子のような信仰が……という感じで、軽く皮肉なものでした。さて、ここで話は先回のエッセイにつながるのですが、オリヴィエ・ロワに言わせれば、どこの国の言葉でもなく、習得したこともないのに、なぜか語ることのできる「異言」ほどに、グローバル化の時代の「脱文化」「脱テリトリー」を象徴するものはない。それというのも本来、言語とは「文化」の結晶のようなものであり、これに対して「異言」とは「文化」との絆を断ち切られた言語。じつは世界中のどの地域でも話されていない言葉が、なぜか世界中で通じる「普遍言語」になるという奇妙に倒錯した話です。この現象そのものが、ヴァーチャル空間を浮遊する宗教の「脱文化」という今日的な風景を、この上なく明快に象徴しているとオリヴィエ・ロワは指摘します。

ところで「脱文化」déculturationという言葉は「インカルチュレーション」 inculturationの対義語です。宗教と文化の断絶という問題が浮上したのとほぼ同じ時期に、キリスト教が「福音の文化的な受容」という意味で「インカルチュレーション」と言い始めたようなのです。岩波『キリスト教辞典』によれば、ローマ教皇が公式にこの言葉を使ったのは1985年だとか。おそらく「カリスマ刷新運動」は、宣教活動に一定の実績を挙げたところで、土地の文化、とりわけ民衆文化への根づきという意味で――すなわち「インカルチュレーション」の好例として――ローマ教皇庁によって認知されたのでしょうね。ごく最近までカトリック教会は、儀式典礼はラテン語で、ミサの形式も厳密に定められていたにもかかわらず。

しかし、だとすれば「異言」とは、オリヴィエ・ロワがいうように「脱文化」の象徴なのか、それとも文化への根づきの手段であり、その証拠とも言えるのか。ブラジル司教会議の内部でも「異言」の正統性については認めるか認めないか、意見が分かれたままであるようです。わたしは文学好きだから、まずは言語の問題が気になるわけですが、山田論文を読んで、なるほどと頷いたのは、じつはミサの方式です。

マルセロ・ホッシは、聖体顕示台を捧げもって、信徒のあいだを歩いてしまう。その間、神父に寄りそう会衆は「あたかも聖体顕示台から放たれる光を受けるように、ろうそく、数珠、写真、塩、労働手帳などをかざして」いる。これぞ「カリスマ=霊的賜物」が信徒に授けられる「もっとも神聖な時間」であり、「聖なるもの」との「直接的な接触」が実現する特権的な瞬間であると論文には記されています。なるほどこれは、カトリック的だなあと思いました。

考えてみれば「インカルチュレーション」などという言葉がない時代から、この制度的宗教は、したたかな底力を見せながら、文化的な根づきへの努力を重ねてきたのです。ヨーロッパ近代とは、たんなる宗教衰退の時代ではない。むしろ政治と切り離された宗教が、文化の領域で自由を獲得し、飛躍した時代だともいえる、それは「コングレガシオン」(教育や福祉など社会的な活動に携わる修道会)のめざましい発展などからも見てとれる。これが、わたしの持論です。

バルザックやフローベールやモーパッサンの作品で「終油の秘蹟」や「初聖体拝領」などの断章を読むと、市民社会に生きる一般の人が「聖なるものの顕現」をいかに経験するか、という切実な問題に、小説家が正面からとり組んでいることがわかります。宗教的な事象を相対化して捉えるようになった男性知識人にとって、とりわけ女性や庶民が経験する「カトリック的な神秘」というのが、大いなる関心の的だった。今日なら「スピリチュアリティ」の経験と呼ぶでしょう。ただし、この言葉も、19世紀には今日的な意味合いで使われてはいなかった。

こんなふうに歴史をさかのぼってみると、近代に蓄積されたものの延長上に、ポストモダンの現象が醸成されるという経緯が、明瞭に見えてきます。とはいえここで、カトリックとプロテスタントの対比に話題を限定してしまったのでは、グローバル化の時代は把握できません。たまたま本日(7月24日)のニュースでは「宗教文化」の時事問題が目白押し。

ちょうどロシア正教の記念典礼というのがありまして、これは今日のロシアがキリスト教の文化圏に入るきっかけとなった「ルーシの洗礼」から、今年で1025年という話。グルジア、キプロスなど、合わせて15カ国の独立正教会の総主教たちがモスクワにつどい、正装して荘厳華麗な救世主キリスト教会の内陣に現れた光景には、迫力がありました。ご存じのようにロシア・東欧における宗教の復興はめざましい。ただし、正教会は、ある種の福音派や原理主義的なイスラームなどのグローバル化路線とは、まさに正反対の道を辿っているように見える。つまり、国家と手を結び、国民アイデンティティの文化的象徴となることを目指しているように思われます。崩壊したイデオロギーの代替を、宗教がつとめるということでしょうか。

最後は、ユダヤ教の「超正統派」(ハレーディーム)――というより、あの黒い帽子に三つ編みの頭髪、髯を生やした黒いスーツの男たち、といったほうが、イメージがわきますよね。イスラエルでこの宗派は、信仰生活に専念することを理由に、兵役義務を免除されていたのですが、特権廃止の方向で、国会で審議されるとのこと。「超正統派」はきわめて閉鎖的な集団を作っており、宗教学校に通い、テレビは見ない、職業訓練はいっさいなし、結婚相手も自由にえらべない、子どもはなんと7人(!)もうけることが義務づけられている……。

子沢山の話でまず思いだしたのは、ケベックにおけるフランス人入植者の歴史。現代ならヨーロッパにおけるムスリム、アフリカ、ラテンアメリカ系の移民や労働者の生活習慣。人口統計と宗教文化の動静は深く係わります。ニュースでは、イスラエルにおける「超正統派」は人口の一割と言っていましたが、どうなのかなあ。一世帯の児童数も、じっさいにはそう多くはないようだし、国から例外的な保障を得ていても、生活は楽ではないらしい。

イスラームにかぎらず、さまざまの宗教・宗派をめぐるドラマが世界中で展開されています。わたしたちは大学生のころマルクスを読んで、宗教などは前世紀の遺物と考えてきた世代ですから、なおのこと目を奪われるのかもしれません。それにしても、昔の宗教がそのまま復活したわけではないのです。「信仰」の内実が問われる以前に、「文化」としての宗教が可視化されており――さらなる可視化の権利を求める者もおり――かつては想像もできなかったような風景が地球上に広がって、時には深刻な摩擦が引きおこされている。きっと皆さんもお気づきのことでしょう。

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