工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

人生最初のサバティカル あるいは「ヒロインたちの死生学」について

2013年 10月 1日

本日は、9月のエッセイへの追加として簡単なご報告を:

『近代ヨーロッパ宗教文化論―姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』の書影を掲載します。ブルーは聖母マリアの色、帯は濃い目のローズ、と編集者とデザイナーがずいぶん工夫してカヴァーを作って下さったので、帯付きのものを。少しずつお便りが届いていますが、全体を読破して著作の意図を完璧に理解してくれたのは、まだ若手研究者ひとりだけ。みんな忙しいものね。でも、こういう形で焦らず諦めずに広報活動をしたいと思っています。おかげさまで『ヨーロッパ文明批判序説―植民地・共和国・オリエンタリズム』も、じわじわと読者が広がりました。

近代ヨーロッパ宗教文化論

『近代ヨーロッパ宗教文化論』の「あとがき」に予告したペロー『昔話』は佳境に入って、ブックデザインの段階です。是非にとお願いした鴻池朋子さんの表紙装画が素晴らしい! 思わずドキッとして、手に取ってみたくなること、まちがいなし。刊行は10月末。羽鳥書店とエスパス・ビブリオの肝いりで、11月22日(金)に、鴻池さんとトークセッションをやることになりました。近刊案内とイヴェント・リリースは以下のとおり(申し込みが始まりました)。鴻池さんの原画も掲載されていますので、とにかく見てくださいな。このアーティストの「狼頭巾ちゃん」がどんなに神秘的で、怖くて、可愛いか。。。
http://www.hatorishoten.co.jp/
http://www.superedition.co.jp/blog/2013/10/11-6.html#more

『近代ヨーロッパ宗教文化論』についても、すでに読んでしまった若手研究者とのトークセッションが予定されています。こちらは場所・日程など未定。

このサイトは放送大学の東京渋谷学習センターにリンクされていて、学生さんのアクセスもかなりあるようです。そこで、ついでの広報活動:
2学期の面接授業は、すでにいっぱいのようですが、「246セミナー」の最終回、来年の3月8日(土)に「文学と朗読と音楽」というゼミをやります。話題はペローが中心で、ミュージシャンの青年が特別参加。学習センターのチラシで確認してください。

*  *  *

2013年 9月 9日 

聖書でいうところのsabbaticusすなわち「安息日」だと思えば、ちょっと嬉しいですね。放送大学の学生指導はまだ1~2年つづけることになりそうですが、いよいよ来年の春からは制度的なストレスから完全に解放された日々が始まります。なにしろわたしが40代半ばで東京大学に着任したころの「研究休暇」にはルールも何もなかったし、語源であるところの6年働いたら1年休むなんて話は夢のまた夢。さかのぼれば30代のわたしは6人家族の食事をつくっておりました。朝は5合のお米を炊き、昼はラーメンを10個ゆで、夕食の自家製コロッケは30個! 今さら昔の家事のパワーに自分で感心してみてもしょうがありませんけれど。

20代に結婚や出産を経験しているから30代に6人家族になるのでありまして、結果としてわたしは長期休暇とも在外研究とも無縁な人生を送ってきたわけです。生活の感覚はむしろ、仕事や育児や高齢者介護のあいまをぬって放送大学で修士論文を書こうとしている女性たちに近いかもしれません。いずれにせよ一世代下の研究者、20代の後半から30代の半ばまで、数年はヨーロッパに留学して研究に専念することが、ほぼ就職の条件となっている若者たちとは「ワーク・ライフ・バランス」がまったく違う。だからこそ、この歳になって、いよいよサバティカル! という新鮮な感動を味わったりもするのでしょう。

もっとも、いま述べたようなことは、あくまでも個人的な事情。研究者・大学教師として一生お給料をもらってきた人間が、こんなことを言い訳にするわけにはゆきません。東京大学を退任する年に学位論文として上梓した『ヨーロッパ文明批判序説―植民地・共和国・オリエンタリズム』の続篇に当たる書物『近代ヨーロッパ宗教文化論―姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』が同じ東京大学出版会から9月20日に刊行されることになりました。ちょうど10年目、人生の節目でもありますし、一仕事したという実感を久々に味わっています。

内容については、このサイトでも折にふれてご紹介していますけれど、今回は構成について一言。四部からなる書物の「第Ⅰ部 ヒロインたちの死生学」と「第Ⅲ部 姦通小説論」はフローベール『ボヴァリー夫人』を軸として、バルザック、モーパッサン、プルーストなどを論じたものですが、長年の宿題であったシャトーブリアンの『アタラ』や『キリスト教精髄』を今回はようやく視野に入れることができました。「第Ⅱ部 ナポレオン あるいは文化装置としてのネイション」では、そのシャトーブリアンを中継として、ナポレオン体制における宗教政策と民法制定のプロセスを見てゆきます。「神の掟=カトリック教会」と「人の掟=民法」の調整役をナポレオンの側近として務めたのは、賢人ポルタリスでした。19世紀を通じ、いや今日も、社会と家族のありようや人の生死を律する道徳的な価値という意味で、聖と俗二系統の「掟」のつばぜり合いはつづいています。「第Ⅳ部 ライシテの時代の宗教文化」では、プルーストとともに、文化遺産として20世紀にひきつがれる宗教的なものについて考え、ジェンダー秩序の変容を射程に入れて幕となる――われながら盛り沢山だとは思いますけれど、論理的な思考の流れのなかで、避けて通れぬテーマや不可欠の議論を、可能なかぎりの誠意をもって組み立てました。いわゆるエッセイ集、論文集ではありません。

ここで話題はがらりと変わり、たまたま先日(9月6日)の朝日新聞に「葬祭学」が脚光を浴びているという記事がありました。「婚活」ならぬ「終活」なるものが、ブームになっているそうで。あらかじめ当事者が死に方や葬儀のスタイルまでをデザインし、家族など「旅立ち」を支える人びとも、定められた演出に参加する。そのために「知の技法」ならぬ「死の技法」を習得するのが「葬祭学」であるようです。

記事には宗教学者・植島啓司氏のコメントが添えられており、東日本大震災によって、避けられぬものとしての「死」に自然に向き合うという、価値観の揺り戻しがおきている、との指摘がありました。記事を読んだ印象からすると、むしろ人間の死がイヴェントとなり、ビジネス・チャンスと化してゆくように思われて、これで本当に「自然さ」や「人間性」が保証されるのだろうか、と疑問をおぼえますが、それはまあ、宗教学の責任ではないでしょう。

人の死の「イヴェント化」ということであれば、ヨーロッパでその兆しが認められるのは、19世紀の初頭です。長いあいだキリスト教の世界では、人の生死を管理するのは教会の役目でした。洗礼をほどこして信徒の台帳をつくり、教会の墓地に教区の住民を埋葬したのですから当然です。ところがフランス革命をへて国の管轄下に「戸籍」がつくられ、都市部では公営の墓地も設営されるようになると、まずは「死の世俗化」という現象がおきる。今日でもフランス人のほとんどは教会の介添えがあるところで永眠したいと考えているようですから、ここでいう「世俗化」とは統計的な問題ではなく、質的変化です。

フィリップ・アリエスによれば、カトリックの伝統において、聖職者の執り行う「告解」や「終油」など臨終の儀式では、死にゆく当事者が中心人物だった。そして「死」とは神に召されることなのですから、人びとは地中に眠る亡骸も神さまにおまかせし、その存在すら忘れることができたというのです。ところが19世紀、人口増加にともない教会の墓地も飽和して、墓地の拡張や移転が大々的におこなわれるようになると、腐乱し、あるいは白骨化した死骸がぞくぞくと日常的な都市空間にあらわれる。人の死は天国への旅立ちであるという確信がゆらぐ一方で、教会の役割が形骸化して、しだいに「死者の弔い」という営みが前景化されてゆく。「葬祭」というイヴェントの主役は、じつは死にゆく当事者ではなくて、日々の生活を生きる遺族のほうなのです。墓地にはこれみよがしの華麗な霊廟が建てられ、涙ながらの美辞麗句が墓碑銘として墓石に刻まれる。フランスでは、墓地文化の絶頂は世紀末だそうですが、ご存じのようにパリのペール・ラシェーズは、今や観光名所となっています。

以上は「国家と教会」の力関係が変わったことによる「死に方」の変化。もうひとつ「宗教と科学」の関係も考察の射程に入れる必要があるでしょう。ご存じのようにカトリック諸国の生活習慣によれば、臨終の人の枕辺にはかならず聖職者と医者がつきそうことになっている。両者の力関係が拮抗するのは19世紀半ば、『ボヴァリー夫人』の時代です。この小説のヒロインは、俗物のカップルである神父と薬剤師、そろって役立たずの3人の医者に看取られて死ぬ。「死生学」の観点からヨーロッパ近代を理解するための教材として、これほど贅沢で示唆に富む小説はありません。

20世紀初頭、プルーストの『失われた時を求めて』には、医学によって病人の主体性と精神性が剥奪されてゆき、ついには極限的な苦痛に苛まれる肉体そのものと化してしまうさまが、酷薄ともいえる筆致で描かれています。語り手をふかく愛した祖母の臨終を語る断章なのですが、これを読むたびに、わたしは切実な恐怖をおぼえ、これぞポストモダンの今日的な情景ではないか! と自問してしまうのです。

フローベール以前をふりかえれば、バルザックはカトリック信仰をもち、医学や近代科学にも信頼を置いていた。『谷間の百合』のモルソフ夫人は心身の苦悶の果てに魂を救済されており、その亡骸は、夕暮れの田園の詩情に浸されて神々しい安らぎを見せる。これに対してボヴァリー夫人は、干からびてゆく「死骸」として描かれてしまう、文学史上はじめてのヒロインでしょう。ちなみに純化されたカトリック的な死の理想とは何かを確認したければ、やはりシャトーブリアンまでさかのぼらなけれなりません。

生身の人間の臨終と死を間近から見つめ、具体的かつ総合的に記述するメディアなど「小説」以外にはなかったのです。たぶん今日でも同じでしょうけれど。というわけで『近代ヨーロッパ宗教文化論』の「第Ⅰ部 ヒロインたちの死生学」は、古典の名著を素材に、現代にも相通じる身近な問題を考えようというもので、じつは、本をただせば「新書の企画」でした。分厚い本ではありますが、肩肘を張らずに読んでいただければ幸いです。

ところで、このサイトで以前のエッセイ(2010年 2月 22日)にも書いたことですが、フランスの国民文学は圧倒的に「姦通小説」が多く、しかもヒロインが死ぬ。これに対してイギリス小説を代表するのは、もっぱら「婚活小説」です。大震災のあと、ある種の覚悟をもって2年で書き上げた書物が手をはなれ、先取りのサバティカル・モードになっているものですから、このところジェイン・オースティンを熱心に読んでいます。持参金つきの嫁探しに余念のない青年牧師の辛辣なポートレイトに、思わず笑いを誘われながら。

10代のわたしはイギリスの女性作家が好きでした。今でも読んでいるだけで、じんわりと楽しいのですが、それだけでなく、英仏の比較は、カトリックとプロテスタントの相違という重大な問題につながります。カトリック聖職者の独身義務とか、告解や終油など「秘蹟」の定義とか、修道会あるいはチャリティによる女子教育とか、さらには今日的な「死生学」の論点まで……。「宗教文化」についてはこの先も、いろいろと考えることがありそうです。

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R.MINAMI

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