工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

日本語力

2007年 12月 16日

「文体の苦患」などという日本語は見たこともないとお思いでしょうか。フランス19世紀の文豪フロベールが書くことの辛さを指していう言葉で、原文は affres du style―affresとは死ぬほどの苦しみという意味です。『ボヴァリー夫人』の作者は、よほど遅筆だったらしく、書簡には、「山をころがしているみたいに疲れた」「ペンは重たいオールのよう」「1週間に、5~6ページ」「1日7時間はたらいて、1月で20ページ」といった呪詛の台詞が書きつらねてあります。

わたしなどが愚痴をいってはいけませんね。すでに原稿用紙1万枚ぐらいの文章は書いているはずなのに、相変わらず失語症の患者のようにパソコンのまえで呻吟している自分が情けない。と、毎日のように意気阻喪しているのですけれど。

本年度開講した「世界の名作を読む」の講義はおかげさまで評判がよく、2学期になってますます履修者が増えました。成績評価は記述式で、これなら大学の文学のレポートとして恥ずかしくないという課題がならんでいます。もちろん教材の丸写しは不可。自分で考えて、自分の文章を書いてほしい。履修者の皆さんは、とても苦労しているようです。

ノウハウを教えてほしい、参考書ありますか? という質問が来ます。いちばんの「参考書」は、もちろん印刷教材ですけれど、あえて言うなら文学について書かれた上質の文章であれば、すべてが「参考」になるはず。求められているのは、まさに「日本語力」なのです。

文学の営みには、ノウハウなんてありません。だからフロベールは、シジフォスの神話のように苦しんだ。でも「日本語力」つまり「文章力」は、トレーニングして、鍛えれば、それこそ筋力のように、おのずと身につくのではないでしょうか。

放送大学に着任して4年目。大学院の学生さんたちを見ていると、つくづくそう思うのです。正直のところ、この人に原稿用紙100枚以上の論文が書けるのだろうか、と初めは思ったりもします。ところが、課題を出すたびに目をみはるほどに上達する人がいる。たいていは「文体の苦患」タイプの人です。つまり、自分で納得できないから、何度も何度も書き直して、やっぱりダメですよね、という顔をしている人。納得できないのは、もっとほかの書き方、もっと上質な表現があるはず、と直感的に見抜いているからではないでしょうか。

ところで「コピペ」をやる人、つまり借り物の断片をならべる人は、一見それらしいことを書くけれど、進歩しません。主語述語の関係さえ混乱しているのに、これで見栄えのする文章を書いたつもりになっているのだろうか! と添削しているうちに腹が立ってきたりします。

さて情報公開の意味も兼ねて、「世界の名作を読む」の採点システムについてお話しましょう。それぞれの担当章の先生方が、信頼のおける若手の研究者を紹介してくださり、その方たちの協力を得て、作業をしています。採点の原則を決め、疑問点はメールでやりとりし、最後に主任講師がチェックして印鑑を押す。採点協力者の方たちは、本当に誠実にコメントをしてくださるので、じつは、わたしが目を通しながら感心しています。

それにしても、自分で考えて、自分の文章を書くというのは、本当に大変なことなのですね。じつは今回、履修者はかなり増えたのに、通信指導問題を送ってきた人の割合は、相当に減少してしまいました。あまりに印刷教材の引き写しが多いので、大学生のレポートなのに、こんな要求をするのは恥ずかしいなあ、と思いつつ

印刷教材や参考文献の丸写しや抜粋のみからなる解答は不可とします。

と、設問に書き加えました。それで困った人たちがたくさんいたのでしょう。

なにしろ日本の国語教育は、考えて書く「文章力」の訓練をやってこなかった。さらに受験産業は、逆に思考力を圧殺するような、空疎な抜粋の技術ばかり開発してしまったのではないでしょうか。わたしたちが闘っている相手は、お粗末な教育制度であって、履修者の皆さんではありません。

じつは「丸写し」や「抜粋」でさえなければ――とりあえずは初歩的な「感想」であっても――不可にはせず、添削してお返しします。トレーニングをしなければ、筋力もつかない、というかむしろ衰えてゆく。たぶん「日本語力」も、そうしたものだろうと思いませんか?

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