工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

今、外国語の教師であろうとすること

2007年 11月 15日

安易に先月と似たようなタイトルで登場しましたが、つまり漠然と考えつづけているのです。一般の大学では、いわゆる「第二外国語」が必修である場合、○○語の履修者が増えれば、おのずと◇◇語の履修者が減る。履修者の増減が領土争いになり、学内で心理的ナショナリズムの縮小版代理戦争もどきがくりひろげられる。大学の外部から見れば、いささか滑稽かもしれないこうしたドラマを、わたし自身も否応なく生きてきましたから、もちろん笑い事ではありません。

市民社会の視点に立てば、「どの外国語を学ぶのか」と考える以前に、「なぜ外国語を学ぶのか」という率直な問いがある。その回答は、当然のことながら、ナショナリズムの側からは――個々の言語の文化的アイデンティティを主張して優劣を競う側からは――やってこないでしょう。そこでスピヴァクの引用を。

外国語を学ぶこともわたしたちの想像力を喚起するひとつの〈営み〉である。もっとも意味を広げて考えれば、わたしにとってはこの「営み」という語が「変革のための活動」ということに一番しっくりくる。つまり想像力、哲学する想像力、読む想像力、これらがここでわたしが深く考えてみたいことだ。

外国語を学ぶことは想像力の〈営み〉である。それは哲学すること、書物を読むこと、あるいは文学や芸術、さらには人文学のすべてに通じる「変革のための活動」の一環なのであり、そこには知的な「喜び」があるはずだ。そうガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは言うのです。

出典は「人文学と変革のための活動」と題した一橋大学における講演です(朝日新聞社『論座』2007年12月号)。人文学はグローバリゼーションと相容れない。が、それは人文学の「強み」でもあるだろう。なぜなら人文学は、グローバリゼーションがもたらす画一化に対抗し、存在論的に貧しくなってしまった世界に〈代補〉的な効果をもたらすはずだから。

というわけで、人文学に内包される外国語の「有用性」は、しっかりと提示されています。先回ふれた紋切り型の「市場原理」が、もっぱら個人の「損得」を根拠とするのに対し、スピヴァクは世界にとって「有用」だと提言するのです。

このダイナミックな立論に、わたしが共感をおぼえる理由をふたつ。まずは、外国語学習の動機づけをナショナルな視点から解放していること。そして、外国語教育のヒエラルキーを解体していること。

「日常会話」から「国際会議における発表」という階梯のなかに、「習得すべき語彙数と文法事項」を配列せよ。履修者の「到達目標」に対する「達成度」が、外国語の「教育実績」として「評価」されることだろう。といった調子の――知の快楽から果てしなく遠い!――制度的要請に抵抗し、ながらく苦闘をつづけてきた語学教師の述懐です。

ここで思い出すのは、管啓次郎さんの『オムニフォン―〈世界の響き〉の詩学』(岩波書店)。スピヴァクの人文学と相通じるものがあると思うのです。屹立した学問の閉鎖空間を登坂するのではない。フラットに、どこまでも歩いていって、躍動する世界を学んでみよう。カタコトを発するだけで、世界は谺を返してくれるのだから。そう宣言する著者の実践的なポエティックは、うらやましいほどに爽やかです。

ところで。一方に、スピヴァクと管啓次郎さん。他方に、若手研究者たちの感性を活かしつつ立ち上げようとしている、この外国語と文学関係のポータルサイト。両者のあいだに、なにか関係があるのでしょうか? とりあえず、無関係ではない、と豪語しておきましょう。

▲ ページの先頭へ戻る