工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

今、フランス語の教師であろうとすること

2007年 10月 20日

10月7日に芦屋大学で行われた日本フランス語教育学会のシンポジウムに参加してきました。「フランス語教育と人文・社会 <知>―L’enseignement du français et le « Savoir » des Humanités」というタイトルで、オーガナイザーは立花英裕さん(早稲田大学)。水林章さん(上智大学)、澤田直さん(立教大学)は学会の中心的なメンバー。外部から招かれたのが、内田樹さん(神戸女学院大学の、というより『下流志向』の、と紹介しましょう)。そして、わたし、という5名のパネラーでした。

学会メンバーの3名からは、どのような方法で人文科学や社会科学の「知」をフランス語の授業に導入しているか、具体例のプレゼンテーションがありました。現代ヨーロッパの時事的なテーマや身近な博物学的な風景を素材にした授業の方法が示され、初歩的な言葉の学習において、いかに異文化の固有性に迫ることができるか、という話題提供がありました。こんな授業を受けられる学生たちは仕合わせだなあ、というのが、わたしの感想です。

内田樹さんからは、「フランス語はなんの役に立つ?」という問いに現場の教師はどう答えられるのか、という問題提起がありました。じつのところ、消費者マインドを身につけてしまった若者たちと教師との困難な向き合いは、現代世界の縮図ともいえる。それは教育という営みに固有の問題というよりは、グローバル化時代の「自由主義」と「市場原理」の力学を再現しているからです。

もっとも消費者になったつもりの子どもたち、若者たちは、けっして「自由」に選択しているわけではありません。世の中に流通する「紋切り型」にしたがって「選ばされて」いるだけだということを、たとえばフロベールなどは、ちゃんと知っていたわけですが。

さて戦後日本の外国語教育の変遷を3つのステップにわければ、「文法・講読」から、「実用会話」の時代に、そして、今日、あらたに「知的」な路線が浮上しているのではないか。これも、あまりシンプルに図式化すると「紋切り型」になりますが、それにしてもNovaなどの巷の会話学校が、大学の語学にとって脅威になるという話も、このところ、あまり聞きません。

大学の外国語教育を脅かしているのは、何か別のものであるはず。学会に出席してみれば、教育の方法がますます洗練され、上質なものになっていることを実感できる。つまり他にいい商品があるから大学の人気がなくなるのではない。そうではなく、教育制度そのものが市場原理にさらされているのであり、この経済・政治・社会的なシチュエーションに、教員はもっと意識的であることが求められるのではないか ―― わたしはそんなふうに考えているのです(1991年、当時の文部省による教養教育の「大綱化」以来、カリキュラム改革のなかで、健全な市場原理がプラスに作用したことは確かなのですが、事はそれにとどまりはしなかった)。

3年半まえに「社会人」の教師となったわたしは、大学は社会のなかにあるという当たり前の事実に、ようやく目覚めたという気がしています。

1.「外国語はなんの役に立つ?」という問いに対しては、教師が実践的に学ぶ面白さを「見せる」のが正攻法。これはシンポジウムのパネラーに共通した了解でした。だからこそ、何があろうと、教育の現場は愉しいのです。それは議論の前提ですが。

2.「(役に立つらしい英語以外の)外国語を、なぜ学ばなければならないの?」という問いにも、教員は答えなければなりません。つまり「学ぶと色々面白いことがあるよ」というだけでなく、「学ばないと困ることになるよ」という立論。前者は、「自由選択」の科目を、後者は「必修」の科目を根拠づけることなる。いうまでもなく、これは開講数と人事ポストに連動する議論です。

3.わたし自身は、カリキュラム改革とそれにつづく「自己評価」「外部評価」を、まさに渦中で経験した世代です。当然ながら、これぞという立論はありません。それでも、ひと言。「評価」とは「作文」であり、「数値」の裏付けが必要です。現場を守るために、教員は制度的な戦略を身につけるべきでしょう。

4.「作文」は、大学の内部だけでなく、社会にアピールしなければなりません。大学が「市場原理」にさらされていることの脅威とは、まさにこれ。

追々、考えてゆきたいと思います。
今、フランス語の教師であろうとする人たちとともに。

*  *  *

今回はマジメな話ばかりでした。最後に余談を。じつは秋晴れの今日、ようやくバルザック『ランジェ公爵夫人』の翻訳二度目の作業を終えたところです(cf.「翻訳三昧」)。

“il n’y a que le dernier amour d’une femme qui satisfasse le premier amour d’un homme” つまり「男の初めての愛を満足させるのは、女の最後の愛」という意味の「捨て台詞」で終わる小説なのですが、やっぱり惚れましたね。翻訳の夢というものがある ―― ついにはテクスト(作家ではなく)と同衾して作品を夢に見たという感覚。

▲ ページの先頭へ戻る