工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

翻訳三昧

2007年 9月 10日

「ボヴァリスム」bovarysmeという言葉をご存じですか。人間は、自分の今のありようとは違うふうに自分を想像する力をもっている。Pouvoir qu’a l’homme de se concevoir autre qu’il n’estというのが辞書の定義です。言葉の由来は、フロベールの『ボヴァリー夫人』ですが、ヒロインのエンマは、貴婦人になった自分や、麗しの王子に熱愛される自分を想像し、現実への不満をつのらせてゆく。身のまわりの凡庸な風景への嫌悪とロマネスクな想像世界への逃避をともなう病的な症状を指し、心理学的な用語としても定着しています。

現実嫌悪は別として、小説を翻訳する醍醐味は「ボヴァリスム」の陶酔にあるのではないでしょうか。なぜなら「自分以外の者になる」ために、これほど確実な方法はない。わたしはもともと学問的な人間ではありませんから、頭を空っぽにして小説を翻訳しているときは、じつに愉しい。いちばん気分が昂揚するのは、なんといっても、女の啖呵を訳しているときです。メリメの『カルメン』より。

*  *  *

寂しい谷間にさしかかっておりました。私は馬をとめました。「ここなの?」女はそう言って、ひらりと地面におりました。そしてマンティーリャをぬいで足下に投げつけ、片方のこぶしを腰にあてると、そのまま身じろぎもせず、私をまじまじと見つめるのです。

「あたしを殺そうと思っているね。見ればわかるのさ」女は言いました。「占いに出ているんだもの。でも、あたしゃおまえさんの言いなりにはならない」

「お願いだ」と私は言いました。「理屈をわかっておくれ。おれの話を聞いてくれ! おきてしまったことは全部水に流す。だけどなあ、わかっているだろ、おれの一生を台なしにしたのはおまえなんだ。おまえのために、おれは泥棒になり、人殺しもやった。カルメン! 私のカルメン! あんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょに私の身も救えるようにしておくれ」

「ホセ」彼女は答えました。「おまえさんの話はできない相談ってものなんだよ。あたしゃもう、あんたには惚れてはいないんだ。で、あんたのほうは、あいかわらずあたしに惚れている。だからあたしを殺そうとしているんだろう。もうちっと嘘をつきとおしてみてもいいけどさ。でもねえ、わざわざそんなことをやるのも疲れちまったよ。あたしたちの仲はすっかりおわったんだ。おまえさんはあたしのロム[亭主]なんだから、おまえさんのロミ[女房]を殺したらいいんだよ。でも、カルメンはいつだって自由なのさ。カーリ[「ジプシー」が誇りをもって自らを指す用語]と呼ばれる女に生まれたんだ、カーリのままで死なせてもらいます」

「じゃ、おまえはルーカスに惚れているのか?」私は訊ねました。

「そうさね、あいつに惚れたよ、あんたに惚れたみたいにね、ほんのしばらくさ、それもたぶん、あんたのときほどじゃない。今じゃあ、なんにも好きでなくなったよ。おまえさんに惚れた自分も、つくづくいやになった」

私は女の足下にひざまずきました。女の両の手をとって、自分の涙でぬらしました。ともにすごした幸福なときを、ひとつひとつ思い出させようとしてみました。それで気に入るんなら、このまま盗賊でいたっていいとまで言いました。なんでもやる、そう、なんでもやる! この私を好いてさえくれるのならば! そうまで言ったのです。

女は言いました。「好いておくれったって、それはできないよ。いっしょに暮らしてくれったって、それはいやなんだよ」凶暴な怒りが私をとらえました。私はナイフをぬきました。女がおびえて、赦しをもとめてくれればよいのにと思いました。だがあの女は悪魔でした。

「最後にもう一度きくぞ」私は叫びました。「おれとやってゆく気はないか?」

「いやだ! いやだ! いやだ!」地団駄をふみながら女は言いました。

*  *  *

こんな台詞、ホントに言ってみたかったなあ……。そうつぶやいた瞬間には、ほとんどカルメンになっている、つまりse concevoir autre qu’il n’estなのですから、これは「ボヴァリスム」でしょう?

翻訳は夏休みに集中してやります。ピエール・ロティ『アジヤデ』のときは、まず旅行ガイドのような本をたくさん買い込んで、地図を広げ、まさに旅立ちの気分でした。

今年の猛暑はバルザックと「同棲」しておりました(というのが、わたしの不謹慎な用語)。本当に暑苦しい夏でした。『美しき諍い女』につづいてジャック・リヴェット監督が名作を映画化したものですが、来年の春、『ランジェ公爵夫人』が日本で公開されることになっており、その原作を文庫本で出版します。

小説の「野心」とはいったい何であったのか。あらためて考えこんでいます。修道院の構造とか、王政復古期の貴族階級とか、恋愛感情とカトリック教会のかかわりとか、フロベール以降の小説家だったら、こんな書き方はしないと言いたくなるようなページが、延々と、何十ページもつづくのです(「飛ばし読みのススメ」という「あとがき」を書こうか……)。

小説というジャンルは19世紀の半ばに分水嶺があって、そこで何かが本質的に変わってしまう。現代の視点からすると、バルザックの雄大な世界は、まさに「ハイブリッド」なのですが、もともと小説とは「何でもあり」のドラマチックな芸術ジャンルだった。フロベールはこれを一挙に純化して、審美的な形式に高めてしまったということなのでしょう。

▲ ページの先頭へ戻る