工藤庸子, 放送大学教授,
eternel imparfait

大学院便り

2007年 8月 1日

放送大学には独特の季節感があります。8月初めに単位認定試験が終わり、さあ、夏休み。とはいえ、お盆休みのころは、学部生は集中講義。そして大学院の学生さんたちは、レポートにとりかかっているはずです。そこで今回は、修士論文を書くための練習法について一言。ただし、これは、一般論です。さらに一般的といっても、人文系の学問をめぐる考察です。

つねづね感じているのは、職場で企画書などを書いている(いた)人が、いきなり「抽象的」な思考に立ち向かうことの困難さという問題です。でも、こんなに「即物的」な日々を送っていていいのだろうか、という切実な思いから大学院をめざす方が大勢いるのですから、この問題、わたし自身の教員としての課題でもあります。

「先行研究」という言葉をご存じですか。人文系の学問は、実験や社会調査のデータから演繹されるのではなく、先人の知恵に学び、その批判的な再構築をめざすという方式で蓄積されてゆく。プラトンはアリストテレスを予告し、マルクスはヘーゲルを批判する。などと大袈裟な例をもちだすことはありません。要するに、何かを学んで考える、つまり、何かを読んで書く。これが基本的な姿勢です。そこで…。

文献の「プレゼンテーション」をしてみましょう、という宿題を、わたしはしばしば出すわけです。もっとも、ゼミの学生さんたちの研究課題にも、資料の収集と調査が最優先のもの、知識に裏打ちされた感性が試されるもの、等々、色々なタイプがありますから、具体的な指導の方法は、学生の数と同数あるといったほうよさそうですけれど。

*  *  *

さて「プレゼンテーション」とは何か――以下の3本柱を想定してください。

1 文献の位置づけ、著者、時代、学問的背景など
2 要約
3 論点の面白さ、研究としての個性や価値、自分自身の研究テーマにとって、どのような意味をもつか

おわかりのように、1と3は、文献を「外部」の視点から語るもの。2は内容そのものにかかわりますが、ちなみに「要約=レジュメ」とは「抜き書き」ではありません。かりに3巻本の大著を、原稿用紙3枚に「要約」せよ、と言われたら、どうしますか。

まず、この出版物の狙いが、どのような構造に活かされているか、たとえば3巻本は時代配列か、主題による構成か、等々の大枠を示し、それから、いくつかのトピックをとりあげて…という具合に、全体像と個別的な議論の配列を工夫して、相互に脈絡をつけなければならないでしょう。わたしが書評で悩むのもこの辺で、「要約」というのは(も)本当にむずかしい。内容を取捨選択し、リシャッフルして、あらたに構造化するのは、わたし自身の責任なのですから。

ちなみにわたしは、この書物とは真剣に向き合おうと決意すると、だれの役にも立たない手書きのノートをとり、ほとんど意味不明の「単語=トピック」を書きこんだ付箋をめったやたらに本に貼り付けます。「要約」するためには、著者の言葉を「咀嚼」して、自分の「内部」にとりこむことが必要であるからです。

*  *  *

ここでゼミ風景に話はとびますが。年に数回、丸一日かけて、学部の卒業研究と大学院修士課程のゼミを合同で開催しています。全体会では、研究の「進捗状況」を報告する人もあり、特定の文献について宿題を出された人は、その「プレゼンテーション」をやったりもします。それから個人面談。

緻密な思考を求められる「プレゼンテーション」のレポートを見ながら、括弧で囲まれているのはキーワードの引用ね? その次の文章は? とわたしがたずねると、こんな答えが返ってきました。この著者は、いろいろなところで同じようなことを語っているので、そのどれかを忠実に再現はしていませんけれど、趣旨は合っているはずです、と。模範的な回答!

この人は、1冊の、あるいは数冊の書物を、完全に「咀嚼」している、と感じるのは、こういう瞬間です。「引用」のマナーについては、2007年7月5日「大学のレポートって何?」および2007年5月3日「〈引用の技〉と〈ふまえる〉こと ―― レポートの書き方」を参照のこと。大学院生である以上、学部レヴェルのことは気にかけなくていい、なんて勝手に思いこまないで!

さてさて、話が長くなりました。「プレゼンテーション」について。上記の3本柱が、3つの区分として並列されるのではなく、それぞれに有機的につながりあって、人に「読ませる」文章が書ければ申し分ありません。でも、これは「プロ」に対する要求ですね。

わが身のことを考えなければ。書評、論文、翻訳と、忙しい夏です。このサイトも1月のお休みをいただきます。では、また9月に。

Bonnes vacances !

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